「読みやすい」とは「没入できる」と同義語
世間でよく言われる「読みやすさ」とは、没入できるかどうかを基準としていると断定してしまって構わないと思います。
読者が文章に違和感を覚えず、書かれている内容の方に集中していられるかどうかで測られるものだとも思います。文章に意識を向けずに済む、中断されずに済む、と申しましょうか。
没入阻害要因をあれこれ考えるに、誤字脱字、単語や慣用句の使い間違い、禁則項目の無視といった基礎的な部分から、視点の揺らぎやリズムの乱れといった細かいものまで、挙げだしたらきりがありません。
しかし片方で、そういった部分が気になるかどうかは、読者次第だったりします。特に視点の揺らぎだのリズムだのは、相当に読書をしてきたキャリアのある者が言うことで、普通はさほど気にしたりしないんじゃないでしょうか。
要は、『個々の読者がそれぞれに慣れ親しんだ文体に近いかどうか』です。読み慣れた形態の文章に近ければ、その読者にとっては、読みやすい文章と呼べるわけです。
なので、同じ小説でも読み手によって、読みやすいかどうかの感想は違ってくるわけです。小難しい哲学書など、読みなれた人には読みやすい本と読みにくい本とに分かれたりしますが、それは小難しいなりに読みやすく書かれた本とそうでない本とがあるという事であり、そもそもで哲学書になど馴染みがないという読者にとってはその違いも解からなかったりするでしょう。これは目利きの問題なので。
多くの読者に共通で、ほぼ万民に通用する『読みやすい文体』というものがありまして、それはドキュメント文体といいましょうか、週刊誌や新聞、エッセイなどで使われる文章というものが平均的に誰にとっても読みやすい文章になります。学校教育の場など、普段からこの文体に触れていない読者などまず居ないからです。
私が書いているコレ、このエッセイでの文章もそうです。手紙やメール、日常的に使われる文体なので、誰でも馴染むわけです。
つまり、読み慣れている事が「読みやすい」と思われているというわけです。「解かりやすい」という事も同じです。
しかしながら皆さん、立ち止まって考えて頂きたい。
「慣れていること」はイコールで「優れていること」になるでしょうか?
私も、小説の文章の良し悪しについて、あれこれ言えるほどの目利きではありません。けれど、読書家に掛かればプロ作家のうちにすら、文章の巧い作家、下手な作家と切り分けられてしまうくらいには、文章にピンキリはあるのです。
その基準は、慣れには違いありません。その読書家が今までに読み込んできた小説群のベースに近しい形を良しとしたのでしょうから。
この読書家と同じ感性の持ち主たちが集まって一つの読者層が形成されます。他方にはまた別の感性の者たちの読者層があります。
大事なのは、自身の思い描く理想に近しい、同じ感性を持つ読者層を探し、その基準に見合った研鑽を積むことだと思います。
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