ぼっちゃん
島村ゆに
ぼっちゃん
今から30年近く前のことです。私はまだ高校生でした。
中学の時から不登校になり、すっかり学校や先生が信じられなくなっていた頃の話です。
することもなく家で引きこもっていたのですが、親から「どうしても」と言われ、仕方なく高校受験をしました。受験勉強は大変でした。
近所の大学生に家庭教師をしてもらったおかげで合格したようなものです。地域では「底辺」といわれるような学校でしたけどね。
それでようやく高校に通うようになったのですが、通学先がかわったからといって、すぐに馴染めるわけでもなく、友達もできませんでした。
やっぱり中学生の時と同じように不登校になり、家に引きこもるようになりました。そんな私に母親は「学校へ行かないのなら働きなさい」と言いました。
「それもそうだな。家にいてもやることもないし、気分転換になるかもしれない」
当時はインターネットも携帯電話もまだありませんし、家にいてもテレビを観てゴロゴロしていただけなので、母親としては「ただメシ食いの娘をなんとかしよう」としての言葉だったのでしょう。
でも高校中退の私には適した仕事もなく、どうしたものかと毎日考えていました。
しばらくして母親が「近所の喫茶店のアルバイトをしなさい」と言ってきました。私も時々あいさつをする、顔見知りのママさんが経営している喫茶店でした。
私の生まれ育った地域では、喫茶店ではモーニング・サービスをするのが当たり前でした。コーヒーを注文するとトーストとゆで卵がセットになって運ばれて来ます。
よその地域から来た人が「こんなものは注文していない」と言ったりすることもあります。そういう場合は「モーニングというセットですよ」という説明をします。
最近では過剰サービスになってきている、という話もありますが、私はそれほどでもないと思います。過剰なのは集客のためでしかありませんし、お店にはあまり儲けにならないのです。
そんな一番忙しい時間帯の、朝から午後3時くらいまで、喫茶店を手伝うことになりました。モーニングとランチの時間帯です。
朝は7時からお店が開くので、6時半くらいに喫茶店へ行っていました。入ってすぐはお店の掃除から始めていました。
一ヶ月くらい経った頃でしょうか、いつものように朝の掃除をしていました。ママさんはカウンターの中でモーニングの準備をしていました。
ボックス席のソファーを動かして、床の掃除をしていると、まあるい水たまりを見つけました。ものすごく綺麗にまんまるな水たまりでした。普段は時間がないので、あまりソファーの真下まで掃除することはありませんが、その時は余裕があったのでソファーをどかして床を拭こうと思ったのです。
「ママ~。こんなところに水がこぼれてますよ~」
私はそういって、いつも使っているモップで水たまりを拭き取りました。
でも、変なんですよね。たまにお客さんが水をこぼしたりすることはありましたが、こんな綺麗にまんまるになるなんて珍しいことです。しかもソファーの真下です。
いったい誰がこんなところに水をこぼしたんだろう? そう思いました。
でもただの水ですから、モップで拭き取れば綺麗に消えてしまいました。
その日はそれ以外、気になるようなことは特になかったと思います。
次の日、また、朝の掃除から始めていた私は、ママさんと他愛無いおしゃべりをしながらカウンターを拭いていました。カウンターの上には電気ポットが置いてありました。それをどかしてカウンターを拭こうと思い、電気ポットを持ち上げた時、昨日見たのと同じような、まあるい水たまりができていました。
「あらあ」
ママさんも私も同時に声が出てしまいました。
「電気ポットに穴が空いたのかしらねえ」
ママさんがそう言うので、私はポットを高く持ち上げて底を見てみました。不思議な事に、ポットの底は濡れてはおらず、水が漏れているような様子はありませんでした。
「なんともないみたいですよ~」
私はそういってカウンターの水たまりを拭きました。
結局、電気ポットも壊れておらず、いつものように普通に使った記憶があります。
その日も、それ以外の不思議な事はありませんでした。
その次の日、ランチも終わり、そろそろ休憩にしようかとママさんと話していました。喫茶店の2階はママさんの住居になっているので、キッチンの奥にある階段から上がってすぐのところが居間になっていました。
その日、私はなんだか身体がだるくて、居間にあるソファーで少し横になりたいとママさんにお願いしました。午後からはお客さんがほとんど来ないので、そのまま帰ってしまってもよかったのですが、最後の片付けがあります。それはやっておきたいと思ったからです。
ママさんは「いいよ、いいよ。30分ぐらい寝てきな」と言ってくれました。
私はキッチンの奥から階段を上り、扉を開けて居間に入りました。
入ってすぐのところに3人がけの大きなソファーが置いてありましたので、そこへ倒れこむようにして寝転びました。そして仰向けのまま目を閉じました。
喫茶店にはBGMがかかっているのですが、2階までは聞こえてきません。窓は開いていましたが気持ちのいい風が入ってくるだけで、物音はほとんど聞こえていませんでした。
うとうととし始めたぐらいだったでしょうか、誰かが階段を登ってくる音がしました。
トントントントントン。
あれ? ママさんかなあ?
そう思いましたが、大人の足音ではない、と気づきました。もっと軽い、小さい子供が、裸足で木の階段を上ってくるような音でした。そんな音を聞きながら、私は眠ってしまいました。30分ほどして目が覚め、なんだかさっぱりした気分になりました。
さらに次の日。
その日もなんだか体調が思わしくなかったのですが、なんとかランチまで持ちこたえ、昨日と同じように「また上のソファーで休ませて欲しい」とお願いすることにしました。
「なんだか具合が悪そうねえ? 帰っても大丈夫だよ?」
ママさんはそう言ってくれたのですが、ほんの少しだけ横になれば元気になるのは、昨日のことでわかっていました。私はまた、2階のソファーに倒れこむようにして眠りました。
しばらくした頃でしょうか、私は足音で目が覚めました。
トントントントントン。
昨日と同じような、軽い足音です。子供が木の階段を上ってくるような、とても軽い足音。
誰だろうなあ? と、寝ぼけた頭で考えました。ママさんには旦那さんも子供さんもいません。親戚に小さい子供がいるというような話を聞いたこともありません。
近所の子供が間違って裏口から入ってきてしまったのだろうか?
そんなことまで考えましたが、そこで気づきました。階段を上ってはくるのですが、居間までは入って来ません。どうやら入り口の前で立ち止まっているようです。
起き上がって階段の方を見れば、きっと誰かがいるはずだと思い、私はソファーの背もたれに手をかけて上体を起こしました。
階段と居間を隔てる扉は開いており、そこには誰もいませんでした。
私はソファーから起き上がり、扉のところまで行きました。階段を見下ろしましたが誰もいません。
そのまま喫茶店へ戻り、カウンターに居たママさんにそのことを言いました。
「寝ぼけていたんじゃないの?」
ママさんは苦笑いでそう言いました。
その週はそれ以上不思議な事は起こりませんでした。それに私もそれ以後は2階のソファーで休憩することもなかったので、何か起こったとしても気づきませんでした。
その次の週だったと思います。喫茶店は水曜日がお休みだったので、翌日の木曜日でした。朝、お店に入った途端、ママさんが私に言いました。
「ほら、先週、あなた、おかしなこと言っていたじゃない?」
「おかしなこと~? なんでしたっけ?」
「足音がする、って」
「ああ」
「あれねえ、あたしも聞いたのよ」
ママさんが言うには、やはり私と同じように、居間のソファーでお昼寝をしていた時だったそうです。
お休みの日の水曜日、つまり前日のことですが、ソファーで横になってうとうとしていた時、誰かが階段を上ってくる足音が聞こえたのだとか。
「あなたが言うようにねえ、確かに、小さい子供の足音だったわ。すごく小さい足で、しかも裸足の足音。それで階段を上がりきって、扉の前で止まった気がしたから、起き上がってそっちを見たんだけど、誰もいなかった」
ママさんと私はお互いに顔を見合わせたまま黙ってしまいました。
その日のランチも終わろうとしていた時です。たまたま近所に住んでいるおばさんが、珍しくランチにやってきました。
ママさんとこのおばさんと私の母親は仲がよく、喫茶店でも一緒にしゃべることが時々ありました。おばさんの名前は三輪さんといいます。
「あら珍しい。平日なのに仕事行かなくていいの?」
「いいのよ~。今日は下の子が熱出しちゃってさ。病院の帰り。お昼作るの面倒だから、ランチお願いね」
三輪さんは小学生の息子さんと一緒に席につきました。
「寝てなくていいの?」
ママさんは、三輪さんの息子さんに声をかけながらランチを出していました。そしてそのまま三輪さんの隣に腰を掛けたのです。
「ねえ、ちょっと聞いてくれる?」
「あら、なあにい」
「こないださあ、おかしな足音がしてねえ」
「ふうん?」
「上で昼寝してたら、トントントントン~って、誰かが階段上ってきたのよ」
「うんうん」
「でね、あら? っと思って見たのよ。そしたら誰もいなかったの!」
三輪さんの息子さんが少し震えたのがわかりました。
「やあねえ。まだお盆じゃないわよお」
三輪さんはケタケタと笑い出しました。
「あんたからそんな話を聞くとは思わなかったわあ」
「あたしだってびっくりよ」
三輪さんの息子さんが上目遣いで二人を睨んでいました。
「ああ、ああ、この子、怖い話嫌いなのよね。ごめんね、またあとで来るわ。その時、話そ」
「あらやだ、ごめんねえ。でも、これ、怖い話なの?」
「そうでしょ?」
「そんなあ。だって、あんたもあたしもここらに住んで長いけど、そんな話、聞いたことあったあ?」
三輪さんはおかずをつまむ箸を止めて考え込んでいるようでした。
「ないわねえ」
「でしょ~。ないわよ~」
二人は笑い合っていましたが、息子さんは相変わらず二人を睨んでいました。
その次の日、ランチの忙しさから一息つくと、ママさんはこう言い出しました。
「ねえねえ、結局ねえ、お坊さんに相談に行くことになったのよ」
「は? なんの話ですか?」
「ああ、そうだっけ」
ママさんは苦笑しました。
「ほら、三輪さんと、昨日、話してたでしょ? 足音の話」
「ああ」
「元はといえば、あなたが一番最初に聞いたんだから」
ママさんは私を指差しながら笑いました。
「私のせいじゃないですよ~」
「それはそうなんだけど」
また苦笑いしながら、ママさんは頬を指で触っていました。
「けど、いちおう、まあ、なんていうの? 保険みたいなもんよ、保険」
「保険?」
「何もなければそれでいいでしょ? 気のせいってこともあるんだし。で、三輪さんの檀那寺の住職さんがね、お話だけなら聞いてあげる、とか言ってくれたんだって」
「へええ」
「ほら、そこの。駅の向こうからずっと行って、山の方へ行くとお寺があるでしょ? 観光客もたまに来るけど、有名なの。知らない?」
「ああ、あそこですか~。私も、お庭を観に、お母さんに連れて行かれたことありますよ」
「あそこのお坊さんに、見える人がいるんだって」
「幽霊とかがですか?」
「そうみたいよ。ちょっとおもしろそうじゃない? まあ、きっと気のせい、とかで終わって、そんでお祓いみたいなのして終わり、って感じよ。別に大金とられるわけじゃないみたいだし、檀家さんは相談してもいいとかって話だから、今度の休みに三輪さんと行ってくるわ」
そんな話をして、その週は、特に不思議なことはなく終わりました。
そして次の定休日の翌日になりました。
朝、喫茶店に行くと、カウンターの上にフルーツの盛皿がありました。みかんやバナナ、リンゴ、パイナップル、とにかく山盛りにフルーツが載せてあります。
「これ、どうしたんですか?」
私はママさんに尋ねました。
「ああ、それねえ、ぼっちゃんにお供えものなの」
「ぼっちゃんにお供え?」
「うん」
ママさんは笑っているような泣いているような顔をしました。
「昨日、ほら、三輪さんとこのお寺、行ったじゃない? それで、足音の話をしたの。そうしたら」
お寺のお坊さんは、こう言ったそうです。
その子供は悪さをしに来たわけじゃない。
三歳くらいの男の子。
足音以前に不思議なことがあったはず。
(そう言われるまで忘れていたそうですが、ママさんはソファーの下の水たまりと、壊れてもいない電気ポットの下の水たまりの話をしたそうです)
水たまりのいたずらや、足音をたてるようになったのは、子供が自分に気づいて欲しかったため。
「じゃあ、気づいたけど、どうすればいいの? ってなるじゃない?」
ママさんはまた頬を指でこすりました。
「そうしたら、その子供はくだものが大好きだから、とにかく、くだものならなんでもいいからお供えしろ、って。そんでちょこっとお祓い? かな? わかんないけど、なんかお経あげてもらって、そんで終わり」
「はあ」
「くだものも、別に高いものは必要ないっていうから。『ぼっちゃん、ここに置いてあるくだものは食べていいわよ』って声をかけてから置けばいいらしいのよ。そんで、まあ、お供えしたあとは、ほら、店で使えるじゃない? だから」
確かに、喫茶店のメニューで使いそうなものばかりです。
「それで特にかわったことがなけりゃ、それはそれでいいし、あなたもあんまり気にしないでいいわよ」
そう言って、ママさんはモーニングの準備にかかったので、私は掃除を始めることにしました。
その次の日、カウンターの上に山盛りになっているフルーツを気にしながら、私はその日も喫茶店の仕事をしていました。そしてランチの忙しさが一段落した頃、急に眠気に襲われました。これはちょっと仕事を続けられないと思い、ママさんに、2階のソファーで寝かせてもらうことにしたのです。
その時はとにかく眠くて眠くて仕方なく、足音のぼっちゃんのことは忘れていました。
キッチンの奥から階段を上がり、居間のソファーに倒れこむと、それからすぐに眠り込んでしまいました。どれくらい経ったのかわかりませんでしたが、居間の壁にかけてある時計を見ると、15分くらい経っていました。
それでも深い眠りだったせいか、すっかり気分がよくなり、これなら仕事に戻れると思いました。すると、階段を上ってくる足音が聞こえました。
トントントントントン。
その時の私は眠りに落ちる前でもなく、寝ぼけた頭で目覚めようとしている時でもなく、はっきりと確実に起きている状態でした。なので今度は本当に足音がしているのだと確信できました。
トントントントントン。
階段と居間をしきる扉の前で、足音は止まりました。
その時、上体を起こして階段の方を向けば、きっと何かを見てしまうのだと思ったら、私は怖くなってしまいました。ぎゅっと目を閉じ、息を殺して足音の主をうかがいました。
すると今度は足音が居間の中でし始めました。
タタタタタタタ。
裸足の子供の足音が、ソファーの周りを走っています。
タタタタタタタ。
私はますます怖くなって、さらにぎゅうっと目を閉じました。
タタタタタタタ。
足音はソファーを3周すると消えました。それからしばらくの間、怖くて動けずにいました。周りで何の音もしないことを確認すると、私は勢い良く飛び起きて階段を駆け下りました。
ダダダダダダダ!
相当大きな音をたててしまったようで、ママさんが驚いた顔をしながら階段の下に立っていいました。
「どうしたの?」
「まっ……みっ……」
私はうまく伝えることができませんでした。
とりあえずカウンター席に座り、ママさんにお水をもらってひとくち飲みました。そして今さっき起こった出来事を話しました。
ママさんは腕組みをして考えこんでしまいました。
翌日、喫茶店へ行くことに、初めて、少し嫌な気分を持ちました。なんだか不登校になり始めた頃のことを思い出します。こうやって、少しずつ嫌な気分がたまっていって、そうしていつの間にかその思いだけにとらわれてしまって、身動きがとれなくなってしまうのです。
今ならきっと心療内科に相談にいって、何かよい薬やらカウンセリングやらを受けるのでしょうが、その当時はそんなものもなく、私は黙って耐えるしかありませんでした。
そんな気持ちが溜まりに溜まって、そうして動けなくなってしまうのですが、今度ばかりはそんなことを言って引きこもるわけにもいかないと、その時は勇気を振り絞って頑張ろうと思っていました。
ですから元気よく挨拶をして喫茶店に入り、いつもの朝の掃除を始めたのです。
ランチの忙しさからほっと一息つける時間まで、がむしゃらに何も考えずに、とにかくいつもの仕事をこなそうと頑張っていました。
ところが忙しい時間帯を抜けると、とたんに強烈な眠気に襲われてしまいました。もう立ってもいられないほどの、ものすごい眠気でした。
見かねたママさんに「2階で休んできなさい」と言われるほど、私は眠気でフラフラになっていたみたいです。
昨日、あんなことがあったので、本当は2階で休むのは嫌だったのですが、こんなにフラフラになって仕事をしていたのでは、かえって迷惑になってしまいます。
私はいやいやながらも階段を上り、居間のソファーに倒れこみました。そうして仰向けになって目を閉じたのです。するとすぐに足音が聞こえました。
トントントントントン。
足音は躊躇もせず、今度はすぐにソファーの回りを走り出しました。
タタタタタタタタタ。
ああ、うるさい。私はそう思いましたが、とにかく眠くて仕方がなかったので、足音を聞きながら、すーっと眠りに落ちてしまいました。
どれくらいだったかは覚えていませんが、目が覚めた時はとてつもない爽快感がありました。本当に深く、ぐっすりと眠り、そして目覚めた時の清々しい感じ。
私は軽く伸びをして、まだソファーに寝転んだまま、居間の天井を見ていました。
「はあ、すっきりした」
独り言を言ってから、壁にかけてある時計に目をやろうと横を向いた時、知らない男の子がにこにこして私を見ているのと目が合いました。一瞬なにが起きたのかわかりませんでした。男の子はとても嬉しそうに笑っていました。
何をするでもなく、ただにこにこと笑顔でそこに立っていました。
私は男の子の後ろにある壁掛けの時計に目をやり、ソファーに寝転んでから5分も経っていないことを確認しました。その時ようやく、この男の子が足音の主なのだなと理解しました。けれども、そのあとどうしたらいいのかがわかりません。
この前までは足音だけだった男の子が、今は目の前にいます。とても幽霊だとか、そんなようなものには見えませんでした。普通に、何処にでもいるような、三歳くらいの男の子です。これといった目立った特徴もない、本当に普通の男の子でした。
にこにこ、にこにこと、男の子はいつまでも笑っていました。
私はその笑顔がなんだか急に怖くなり、ソファーから飛び起きました。
もし本当に存在する男の子であれば、そんな勢いで飛び起きた私は、男の子にぶつかってひどく痛い目をみるはめになったでしょう。けれども、そんな子供にぶつかったような感触は、まったくありませんでした。
それで余計に怖くなって、飛び起きた勢いのまま階段を駆け下り、キッチンに飛び込んだのです。
キッチンからカウンターにまわり、そこにいたママさんとぶつかりそうになりました。
「どうしたの?」
ママさんはびっくりしたのか、持っていた白いふきんを落としました。
私はそれを拾ってママさんに渡し、カウンターの外へまわって椅子に座りました。そうしてカウンターに突っ伏して、大きなため息をつきました。
もうお客さんは誰もいませんでした。
「どうしたの? なにかあったの?」
ママさんはお水を出してくれました。私はそれを一口だけ飲みました。
「また、足音がしました」
ママさんは眉を寄せました。
「こないだみたいに、階段を上って来ました。トントントントン~って。それはもう別にどうでも良かったんですけど、上ってきて、すぐにソファーの周りを走りだしたんです。タタタタタタタって。でもすごく眠かったんで、私、すぐに寝ちゃいました」
「うん、うん。でもまだ5分くらいしか経ってないよ?」
「はい。5分くらいですごくスッキリしたんで、それで起きたんです。そうしたら、いました」
ママさんはさらにぎゅっと眉を寄せました。
「男の子が、いました。すごっく嬉しそうににこにこしてました。目の前にいて、私と目があったんです。幽霊とかそんなふうには見えませんでした。ほんとに、すぐ目の前に、ふつうに、そこに、いました」
私はまたお水をひとくち飲みました。
「それで時計を見たら、上に行ってから5分くらいしか経ってないな、ってわかって、その時、あっ、って。この子、足音の子なのか、って。そう気づいたら」
そう、気づきました。その男の子は現実に存在しない子供なんだなって。
そこでこうやってママさんに説明している間にも、どんどんとそれは実感になってきていました。私は、存在しない男の子を見てしまったのだと。
でも幽霊だとか、それまで話に聞いたような、テレビで観るような、そんな姿のものではありませんでした。血が出ているとか、顔が半分無いだとか、殺された時の無残な姿だとか、そんなことは全然ありません。ほんとうにふつうにそこらにいるような男の子でしたから。
それもあって、確かにこの世のものではないようなものを見てしまったのですが、あまり実感はありませんでした。ママさんに説明していても、確かにそれを見たという気持ちはあるのですが、なにかまだ掴みきれていない感じがしていました。
私はママさんと顔を見合わせたまま、また一口お水を飲みました。
「……そう……」
ママさんはつぶやいてから、洗い物の続きを始めました。
私はなんだかいたたまれない気持ちになったのですが、どうしていいのかもわからなかったので、しばらくはカウンターでお水を飲んでいました。
すると何かを思いついたのか、ママさんがシンクから顔をあげて言いました。
「あ、そうだ。よかったらバナナ、食べて。もう黒くなっちゃうから、片付けないとね」
ママさんは洗い物をしながら、カウンターの上にあるフルーツの盛り合わせを顎で指しました。例の『ぼっちゃんのお供え』です。
私は一番手前にあった、黒い斑点が多く出ているバナナを一本とりました。
確かにこれでは、もうそろそろ完熟も過ぎてしまい、デザートとして出すのははばかられるかな? というくらいのバナナを手にとったのです。
そうして皮をひとつ、めくったところで私は手を止めてしまいました。
そんな私に気づいたのか、ママさんも顔を上げました。
「ママさん……これ……」
私は皮をめくったバナナをママさんに見せました。
そこにあるべき本来の、ただ白いはずのバナナの身は、小さな針でいくつもいくつも穴をあけたような状態になっていました。点々と、無数にあいた、小さな穴です。
ママさんはひったくるようにして私からバナナをとりあげました。そうして皮を入念に見ていました。
「何処にも……何処にも針でつついたようなとこなんか……」
そうです。皮には針のような穴なんか、どこにもあいていないのです。それなのに、皮をめくったバナナの身の部分には、それはもうびっしりと、小さな針であけたような穴があいていました。
ママさんはバナナをカウンターの上に放り出しました。
そうしてしばらく、私達は動けなくなっていました。
ママさんには悪いと思ったのですが、それからその喫茶店には行っていません。母親にどうしてなのか問いつめられましたが、話しても理解してもらえないだろうと思って言いませんでした。
母親がママさんに謝りに行ったようですが、ママさんも何があったかまでは話さなかったみたいです。それでもつい最近まで、その喫茶店は営業していましたから、特に何かがあったわけではないようです。
でも、だとしたら、あの男の子は今でも、あの喫茶店の2階にいるんでしょうか?
まだ、もしかしたらバナナを食べていて、あの2階に、住んでいるんでしょうか?
了
ぼっちゃん 島村ゆに @sim
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