第五章 黒秋の『爛』葉 PART4

  4.


「最近、あの女の人来ないね」


「……そうですね」


 葵が姿を見せなくなってから、柏木美里が早めの時間に来て酒を呷っていた。


 狙いはもちろんマスターだ。だがリーが何でも仕事をこなせるようになったため、中々早い時間にでてこないようになっている。


 マスターはきっとフェイカーに白の勾玉を預けにいっているのだろう。勾玉を手に入れるたびにマスターは留守にする傾向にあった。


「そんなこといっちゃって。早く来て欲しいって顔してるよ」


 美里は見透かしたようにリーの瞳を覗き込んでくる。


「そんなことないですよ。きっと何か用があるんでしょう。お仕事が忙しいのかもしれません」


「そうかもね、次のおかわりを貰っていい?」


「もちろんです。何にします?」


「うーん、そうだなぁ」


 美里は店の看板を見ていった。

「この店の名前になっているソルティドッグを貰おうかな」


「畏まりました。でもソルティレイのソルティというのは塩を指しているわけじゃないんですよ」


 そういってグラスの淵をレモンで滑らせる。グラスをひっくり返し、そのまま塩がのっている皿の上に軽く押し付けてスノースタイルにする。グラスを逆さにしたまま軽く叩き、余計な塩を落とすのがコツだ。後はウォッカとグレープフルーツジュースをステアするだけでいい。


「え? ソルティってそこから来てるじゃないの? 英語で塩っていう意味だよね?」


「柏木さんの意味もあっているんですが、ここの店の由来は別の意味があるんです」


 リーは小さくかぶりを振ってステアした。

「ソルというのはスペイン語で太陽、レイというのは英語で光を差します。つまり太陽の光という意味でこの名前をつけたそうですよ」


「へぇ、そうなんだ」


 美里はにんまりと微笑んだ。

「なるほど、あのマスターにしちゃ色々と考えたんだねぇ」


 ステアを終えた後、リーは美里に尋ねた。


「そういえば柏木さんには兄弟がいます?」


「ん? いないけど。急にどうしたの?」


「いえ、この間旅行に行った時に偶然、柏木さんに似た人を見たんです」


「……何それ?」


 彼女はにやりと笑った。

「二人っきりだからって私を口説いてるの?」


 リーは慌てて手を振った。

「違います。本当に似ていたので、もしかしたら柏木さんかと思って」


「……ふうん。暑い所に行くといっていたけど、どこに行ったの?」


「それは申し上げることができません」


「じゃあ、何が美味しかった? 鳥、豚、牛?」


「強いていえば、鳥でしょうか」


「そっか。リー君は宮崎に行ったんだね」


 リーの動揺を見て、美里は声を上げてげらげらと笑い転げた。


「ほんと、リー君ってわかりやすい性格してるね。熱い所で鳥名物っていったら宮崎しかないじゃん」


 国外という考えもある。だが今さらそんなことをいっても通用しないだろう。リーは諦めて認めることにした。


「いきなり当てられたので、びっくりしました」


「まあ、その辺りの話は聞かないけどさ……リー君には兄弟がいるの?」


 ……いるのかもしれない。


 今一番考えたくない話題だ。自分で話を振っておきながら後悔の念に押されてしまう。


「多分ですけど、いないと思います。断定はできないですけど……」


「……そっか」


 それ以上美里は何も言及しなかった。触れてはまずい話題だろうと気を使っているのかもしれない。

 しばらく店の中が沈黙に閉ざされると、美里が再び声を上げた。 


「あーあ、退屈だなぁ。そういえばさ、この間あの人と囲碁やってたでしょ」


「ええ。僕はやり方を知らないから、教えて貰っていたんです」


「そうなんだ。でも、リー君の打ち方、中々面白い手だったよ。置き碁とはいえ、きっちりと定石を理解して打っているように見えたけどなぁ」


 リーは目を丸くした。

「柏木さん、囲碁できるんです?」


「まあね、最近はやってないけど」


「じゃあ、気分転換に一局だけやってみません?」


「そうだね」


 彼女は小さく頷いた。

「マスターもまだ来ないみたいだし。やってみようかな」


 囲碁盤を広げると、美里は嬉しそうに石を握った。


「リー君が先攻でいいよ」


「え? こういう時は握り石で決めるんじゃないんですか?」


「そうよ、詳しいじゃない」


 彼女は口元を緩めながらリーを覗く。

「だけど今回は特別にリー君からでいいわ」


 美里に押されるがまま、リーは第一手を打った。右上の星にすっと手が伸びる。


「やっぱり、リー君は真面目だね。第一手が右上隅か。じゃあ、基本中の基本で返してあげようかな」


 美里はリーの黒石の近くに白石をそっと置いた。小ゲイマと呼ばれる場所だ。彼女がここに置いた時点で、この空間の対決が始まったことを意味する。


 ひとまず美里の強さを測るために、最も安全で様子見の場所に石を置く。なぜそういう考えに到るのかはわからなかったが、頭で考える前に手が動いていた。


「またまた堅いねぇ。じゃあここはどう?」


 自分を誘うような場所に石が置かれる。ここで仕掛けた方が有利だ。しかし自分の手は美里の手を交わすような場所に石を置いた。


「……用心深いなぁ。それでいて確実な場所に置いてくる。ほんとにあまりやったことないの?」


「もちろんです。わからないまま適当に置いています」


「ふうん。まあそういうんなら、そうなんだろうね」


 美里の石の配置に、どこかで見た定石が浮かんでくる。それが何を意味しているのかはわからなかったが、なぜか心地よいものを感じていく。


「柏木さん。囲碁では黒石のことを、別名、『皇石』と呼ぶんですか?」


「えっ?」


 美里はリーに視線を合わせた。

「そんな言葉初めて聞いたけど」


 やはり葵がいっていた言葉は身内だけで流行っていた言葉らしい。しかしこの言葉、どこかで聞いたことがある。やはり幼少の頃の記憶なのだろうか。 


 美里と半分くらい打ち合った時に、ふとフォンを追っていたスパイの顔が浮かんだ。あの顔は確かに彼女に似ていた。


 しかし彼女にはきちんとアリバイがある。実行することは不可能だ。


「そういえば、柏木さん。僕が仕事を休んだ時、何時頃店に来たんです?」


「ああ、リー君が宮崎に行った時の話?」


「ええ、そうです」


「んーとね確か二十一時頃だったかなぁ。マスターが一人だったから、きちんとその時間にはいるだろうと思って、開店時間ぴったりにいったんだ」


 マスターの説明と全く一緒だった。やはり美里がスパイになるのは不可能だ。


「そうですか……、それでいつまで飲んだんです?」


「その日は友達も連れて盛り上がったんだけど、結局ラストまで飲んだかなぁ。マスターなんか途中でトイレに入り込んで中々出てこなかったんだから」


「……そうなんですか。マスターもまさか開店時間から閉店時間まで飲むことになるとは思ってなかったでしょうね」


 トイレに駆け込んだというのはフォンと自分からの情報をチェックするためだろう。


「あの親父、顔は渋いくせに酔うと情けない顔になるのよね。リー君みたいにびしっとしていればもっとモテるだろうに」


「そんなことないですよ。僕だって飲んだら、ベロベロになって見るも無惨な顔になりますよ」


「そうなの? リー君が酔っ払っている姿は見たことないなぁ」


「授業があるからです。大学生の本分は勉学にありますから」


「やっぱり堅いなぁ」


 美里は苦笑いしながら力強く一手を打ち込んだ。

「そんなに堅く生きていると、予期せぬ一手に対応できなくなるよ?」


 彼女が置いた一手で、たちまちリーの有利な状況が一変した。


「……そこに置かれると難しいですね」


「だからいったじゃない」


 彼女は微笑を浮かべていった。

「これしかないっていう考え方は囲碁には不要だよ。もっと柔軟に考えなきゃ。もっとイメージして、もっと深く広く。誰も考えつかない一手が勝敗を分けることもあるんだから」


「そうですね……」


 彼は落胆して頷いた。

「肝に銘じておきます」


 結局勝負は美里の十目以上つけられ、圧倒的に叩き潰された。美里の圧勝だ。


「リー君は中々筋がいいよ。もっと大局的にものを見るようにね。部分だけでなく全体を。この碁盤が全てじゃない。碁盤の奥にこそ、真理があるんだから。常識を疑う発想を持つようにね」


 美里の講義はとても居心地いい、と思った。彼女は自分より二つ以上年下になるのだが、彼女の方がなぜか年上のように思えてしまう。


「ありがとうございます。また次回もお願いします」


「うん。またやろうね」


 美里は優しく諭すように頷き、リーの肩をぽんと叩いた。

「大丈夫。きっと、仲直りできるよ。信じていればさ」

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