第五章 黒秋の『爛』葉 PART5

  5.


 結局、美里はマスターが来る前に帰り、店は再びリー一人だけの空間になった。彼女が使ったカクテルグラスを洗っていると、珍しく店の電話がなった。


「はい、ソルティレイです」


「よう、元気か。オレだ」


 声の主はフォンだった。思わず手に力が入る。


「どうした? なぜマスターを通さず連絡を寄越した?」


「そう堅いことばかりいうなよ」


 フォンは笑いながらいう。

「お前と直接話がしたかったんだ」


「直接話すことがどれだけ危ないことかわかっているだろう? 今すぐ電話を切れ。そうでなければ、俺の方から切るぞ」


 フォンは普通の日本語ではなく、お互いにしかわからない訛りを入れた北京語で話していた。内容がばれることは恐らくない。しかし内容がわからなくても、盗聴されれば一発でスパイだとばれるだろう。危険なことには代わりない。


「まあ、待て。お前に直接聞かなければならないことがあるんだ」


「早く用件をいえ」


「お前、ターゲットに惚れているだろう」


 心拍数が急激に上昇した。フォンとは一目しか合っていないのに見抜かれたというのか。


「そういう風に見せているだけだ。もうすぐ契約は打ち切られる。それまでだ」


「嘘をつかなくていい。感情を制御しろとはいわないぜ」


「制御なんてしていないっ」


 リーは大声で怒鳴った。

「ターゲットのとの距離は自分で決めている。お前に指図される覚えはない」


「……そうかい」


 フォンは淡々とした口調を変えずにいった。

「決定権はお前にある。どういう風に決めてもいい。だが惚れているなら早く別れておけ。このままずるずると長引かせると、ターゲットに危害が加わることはわかるよな」


「もちろんわかっている」


 リーは奥歯をぐっと噛んだ。

「わざわざそんなことをいうために連絡してきたのか」


「ああ、大事なことだからな」


 彼は鼻で笑い語気を強めた。

「まあお前の口調からいってターゲットに惚れているのは確かだとわかったからそれでいい」


 リーは怒りに身を任せて電話を切ろうとした。

「それだけのために電話してきたんだな? じゃあ、切るぞ」


「もう一つある。オレを追っていたスパイのことだ」


 性別の判断もつかなかったフォンのスパイ。リーはさらに奥歯を強く噛んで受話器に耳を傾けた。


「お前の隣に住んでいる人物だったんだろう? そして、お前が戻った時には部屋はもぬけの殻になっていた。わざわざもう一度、報告することじゃない」


 名は楸田馨。葵のかつての恋人であり、現在はイギリスに留学中、となっている。もちろんそんな人物はこの世にはいない。

 ここに本物がいるからだ。


「そうともいえるし、そうじゃないともいえる」


「どういうことだ?」


 フォンは一間置いてから答えた。


「オレがこのアパートに住んだのには理由がある。色々利点はあるが、その一つは誰かに忍び込まれた時に退路があるということだ」


 諜報活動をするにあたって不測の事態は必ず起こる。それは最悪の場合を想定しなければいけないということだ。住むアパートに非常口があるのは最低条件だった。


「だがこれは隣の住人にとっても同じことだ」


 フォンは抑揚のない声で告げた。

「相手がスパイで、オレが追う側だったとすると、非常にやりにくい。それにここは日本だ。オレ達にとっては不利に働くことが多い」


「何がいいたい? 用件だけをいえ」


「わからないか?」


 彼は声色を変えた。

「敵はオレがあのアパートを借りることを前提として動いていたということだ。オレの隣に元々住んでいた人物が日本のスパイなんて、そんな都合よくいくと思うか?」


「…………」


「そんなことは絶対にありえない」


 フォンは自らの言動を強く否定した。

「万が一にあったとしても、あの日はオレの行動を予測していたように動いている」


 フォンが日本のスパイに対して様々に練った計画は全て潰えていた。それは彼の考えを手に取るように理解していたと考えてもおかしくない推測だった。


「……その通りかもしれない」


 リーは同意した。

「俺が尾行したスパイは分単位でフォンの行動を予測しているような感じがした。フォンの動きを理解しているからこそ、スパイではない動きを見せることができたのかもしれない」


 もちろんフォンを尾行していたのではなく、葵をつけていたという線もある。だが彼を尾行したと考える方が妥当だろう。彼が家を出た後にターゲットは動きを見せたからだ。


「オレの意見を聞いてくれ」


 フォンは相槌を打ちながら語気を強めた。

「オレはオレ以外の班のメンバーを全て疑っている。お前にマスター、それにフェイカーだ。オレは三人とも怪しいと思っている」


「ありえない」


 リーは大きくかぶりを振った。

「俺がなぜ祖国を裏切る? この日のために生涯を掛けていたんだぞ。マスターにしてもそうだ。この計画のために、日本で三年費やしている」


「……お前は違うと思っているよ」


 彼は宥めるように丁寧な口調で否定した。

「お互い同じ施設で育ったんだ、お前は候補に入っているだけだよ。だがマスターは別だ」


「三年費やしているからこそ、日本側に染められたといいたいのか?」


「……そうだ」


「つまり、マスターが俺達を裏切っていると?」


「ああ。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」


 要するにフォンのいいたいことはこういうことだった。

 マスターは二重スパイとなりながら、中国側に有利な情報を引き出そうとしているかもしれないということだ。リー達にそのことがばれれば日本側も不審に思う。なので日本側についていると見せ掛けている段階なのかもしれないということだった。


「今後、お前はマスターの行動を警戒しなければならない。場合によっては殺すことも念頭に置いておけ。これはマスターを通して話すことができない内容だ」


「了解だ。確かに今回の話はマスターを通すことはできないものだった」


「……わかってくれたか」


 フォンは安堵するように溜息を漏らした。

「キーは揃っているんだ。ここまでくれば、オレ達の勝利は目前だ。くれぐれも気を抜くなよ」


「もちろん、わかっているつもりだ。俺もお前に一つだけ訊きたいことがある。お前と同じ日本のスパイのことだ」


 電話越しにフォンの微笑が漏れた。


「何だよ、早く切りたがっていた癖に。さてはオレの声が恋しくなったんだろう?」


 フォンの冗談には付き合わず、単刀直入に訊く。


「スパイの顔が知っている人物の顔にそっくりなんて、今まであったか? それに俺にも似ているといえば、似ていた。性別の区別もつかなかった」


 あれが柏木美里だという考えが払拭できないでいた。未だにリーの心の中で澱となって漂っている。


「結果からいえば、それはありえることだ」


 彼は即座に肯定した。

「尾行をする人物は二つに分かれる。何の表情も作らないように空気に溶け込もうとする人物と、敢えて注目を浴びる方法を実践する人物だ。今回オレをスパイしている人物はきっと後者だ」


「敢えて、俺の目に止まるように引きつけたということか?」


「ああ、そうだ」


 フォンは冷静な声で続けた。

「そうすることによって、その人物に囚われるだろう? 今回はお前のように論理的に考える人物だったから、敵の作戦勝ちって所だろうな」


 フォンの説明によって矛盾点が解消していく。しかしそれによってもう一つ新たな謎が生まれることになった。


「待てよ。ということは俺が二重尾行をすることを知っていたということか? 俺の立場を知っていて、敢えて注目するように変装したというのか」


「それしかないだろう。そうでなければ変装する意味がない」


 リーが注目することによって、相手にどんなメリットがあるのだろうか? 今の所、何かをカムフラージュすることしか思いつかない。どちらにしても、何らかの形でこちらの情報が漏れていることは確実だろう。


 自分に尾行の気配はなかったが――。


「仮にそうだとしても、日本のスパイは顔を偽装していないようにみえた。俺に見抜けなかっただけかもしれないが」


「偽装をしないスパイはいないよ」


 フォンは小さく笑った。

「お前はスパイをやりなれていないから、まんまと騙されたんだ。まあ、深く囚われるな。早く今の考えを払拭しろ」


 そうだろうなとリーは考えを改めた。自分に対しても、フォンに対しても抜かりなく偽装を施したということだろう。


「ということは……今、一番怪しい人物は」


「そう、マスターである灰(ホイ)しかいない」

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