第五章 黒秋の『爛』葉 PART2

  2.


 目を開けると、葵はすでに起きていた。寝巻きを脱いでおり、薄く化粧も施している。


「おはよう。体調は大丈夫?」


「ええ、大丈夫です」


「よかった」彼女はにっこりと微笑んで、朝食券を二枚掴んだ。「ここのホテル、朝食がとっても美味しいんだよ。バイキング形式だから、早く行かないとなくなっちゃうよ」


 葵の様子に変化はなかった。


 ……当たり前だ、知っているのは自分だけなのだから。


 リーは表情を変えず葵の後に従った。そして帰りの飛行機では彼女をすでに偽りの恋人としても見ることができなくなっていた。



 一週間後。


 いつも通りバーに出勤したリーは葵に連絡を返せずにいた。彼女もまた最近、店には姿を見せていない。

 もしかすると自分の態度に気づいているのかもしれない。


 ……このまま、恋人として関係を続けられるのか。


 任務とはいえ、偽り続ける自信がない。昔の自分が、中国でスパイとして過ごしてきた自分が叱咤する。

 あの頃の俺は、こんな感情など捨てると誓ったのに、また己自身の弱さに負けるのか――。


 ……あの頃には、戻りたくない。


 あの頃のように、死ぬことばかり考えていた色のない世界では生きていけない。


 ……お前なら、上手くやるのだろうな。


 義兄弟の契りを交わしたパンを思う。コードネーム・虹(フォン)として彼は今、宮崎に滞在し日本のスパイを追っているだろう。


 ……教えてくれ、パン。俺はどうすればいい――。

 虚ろな心のまま、彼は昔を回想することにした。



 ――初の銃殺作戦を決行してからは命じられる指令が待ち遠しくなった。ゲームのスイッチが入るのを待つ子供のように身を焦がし、眠ることも敵わなかった。


 スイッチが入れば自分の思考には明かりが点き、敵にあわせて殺害方法を考える。自分の身元を明かさないように工夫を凝らすのが楽しみの一つになっていた。


 仕事がない日はひたすら退屈だった。何もしないことが苦痛になり毎晩悪夢を見た。後悔と自責の念に押しつぶされそうになり、自分は本当に生きていていいのかと苦しむことにさえなった。


 ……本当に復讐を果たすためのレールはあるのだろうか。


 日が経つごとに自分の存在が薄くなっていくような感覚だった。


 そんな日々を悶々と過ごしていた時、声を掛けてきた人物がいた。それがパンだった。


 パンはここに存在する人物とは一線をおいているようだった。挨拶はきちんとするし、話したいことは何でも話す。リーが俯いていると何かあったのかとあっけらかんとした顔で声を掛けてきた。


 人と話したことがほとんどなかったリーにとっては、最初鬱陶しいとしか感じなかった。しかし執拗なまでにリーに絡もうとするパンは態度を変えようとはしなかった。


 ある日、パンと二人で仕事をすることになり、その時のターゲットは一軒家に住んでいる華僑の一人だった。何でもあくどい商売で稼いで、中国政府を敵に回しているらしい。


 リーの中ではターゲットがどういう人物だということかは気にならなかった。ただどういう体格でどういう所を狙えばいいかということだけだった。


 しかしパンは自分とは大きく異なり、条例にけちをつけながら司令官と口論していた。どういう人物でどこで育ち、どういった家系で生きて、どういったことを好むか全てを知りたがっていた。


 パンが駄々をこねたため、司令官はターゲットに再び尾行をつけることになった。なぜ彼のわがままが通るのかはこの時にはわからなかったが、この仕事を終えた後で納得する材料が見つかった。


 再びターゲットに尾行をつけて探った結果、意外な事実が判明した。ターゲットには家族がいて妻がいる。しかし妻が外出している間に月に一度、自宅で逢引している相手がいることがわかったのだ。


 当初の目的ではターゲットの殺害だけだった。だが不倫相手が殺したという構図になれば、ターゲットの会社は大きく傾くことになるだろうと予測した。


 パンとリーは作戦を練った。次に不倫相手が来るまでに周到な用意をするためだ。今までにこんな手筈はとったことがなかった。


 ターゲットを銃で打ち抜くこと。それが唯一の目的であり、ゲームの終わりを意味した。


 しかし彼は殺すことだけでは満足しなかった。その後の展開についてまで、何度も思考を巡らせている様だった。


 結局、殺害方法は逢引をしている最中に、二人が飲むワインに仕込むことになった。ターゲットが二人の時間を楽しむために前夜にワインを冷やしていたからだ。そのワインのコルク片から毒物を入れ込む。たったそれだけの作業になった。


 警備を掻い潜り、ターゲットを目の前にして二人はワインの中に毒物を流し込んだ。リーは納得いかなかったが、彼に誘導されてその場を撤退することにした。


 次の日のニュースには二人が心中自殺を図ったということになっていた。その結果、ターゲットの会社は大きく傾き逆に中国政府に泣きつくようになった。


「殺すことは誰にだってできる。だけどな、相手が変われば相手に合わせて殺すのが基本だ。ただ銃を撃てば終わりじゃない。殺害方法を変えれば、相手への復讐は二倍にも三倍にもなるぜ」


 リーの中でパンを認めた瞬間だった。リーの暗黒の世界とは切り離された、たくさんの色に囲まれた別次元の世界に彼はいた。虹を纏っているようだと思った。


「……なぜ俺が復讐を望んでいると?」


 自分の話は彼にしていない。なぜ自分の心を見透かしたようなことをいうのか聞きたかった。


「お前の殺し方は早く片付けたい、それだけだろう?」


 パンはにやりと笑って答えた。

「何かをいき急いでいる感じがする。その場合は大抵、復讐しかない。自分の無力さを早く払拭したいだけなんだ。そしてそれが終われば潔く死にたい。そんな所だろう」


 図星だった。生きている理由はそれだけだったからだ。


 ……パンには全てのことが見渡せるのか。


 そう思い口を開こうとした時、彼は今いったことを簡単に覆した。


「っていうのは嘘だけどな」


 彼はへらへらと笑いながらいった。

「親父からお前の話を聞いた。大変だったよな、両親が殺されるというのはどれくらい辛いかオレにはわからない。だからお前が死にたいのなら、勝手に死ねばいいと思っている」


 リーは反論できなかった。パンの言葉には説得力があり、彼の心にすでに魅了されていた。自分の中に矛盾を抱えていることはわかっていたが、こうまで正直にいわれると返す言葉はない。


「……お前にこれをやるよ」


 パンは銀で出来た歯型を取り出した。

「これを奥歯に挟んでおけ。この銀歯には毒薬が仕込まれている。これを噛めば楽に死ねるぞ」


 パンから受け取った銀歯は以外にも軽かった。人の命はこんなにも軽いもので死ぬのかと思うと、体が軽くなった。


「でもな、任務中に死ぬことは絶対に許されない。それはわかっているだろう? 死ぬことを第一に考えている人間にスパイなどなれるわけがない。復讐を果たしたいのであれば、オレと一緒に行動しろ。生きることを第一に考えるんだ」


 ……ここまで感情を訴えるスパイがこの世にいるのだろうか。


 死ぬことはいつでもできる、そう思うと不思議と生きる力が沸いてきた。死にたいという考えは生きることへの逃避だった。ただ現実を受け入れることができなかったのだと自覚した。


 それからはパンと会うたびに会話を交わすようになった。スパイには素性を知られてはならないという絶対的な要素をパンは無視した。

 どんな人間にも過去はあり、隠すことはできない。隠そうとすれば、そこに囚われていつかは失敗に変わる。それが彼の持論だった。


 パンには何もかも話した。自分が体験してきたこと、なぜここで生活することになったかということ、復讐の目的。

 パンはそれらを冷静に分析し、リーに客観的なアドバイスを残した。


「感情をなくすことは人間には無理だ。現に復讐に囚われている時点でこの先に失敗があると思え。まず感情をコントロールするところから始めなければならない。今の自分を隠そうとせず認めるしかないんだ。今までやってきたことを全部、自分の中で消化しなければならない」


 自分にとってそれは不可能だった。闇の中にいる方が心地いいからだ。指令を受けてただトリガーを引く。何も考えていないということを改めて思い知らされた。


 それからはターゲットの存在を入念に調べるようになった。殺害方法はあらゆる手段を考慮し、どうしようもない時にトリガーを引く。銃は最後の手段ということにした。


 パンは暗殺者としても一級だった。彼と共に何度もターゲットの家に潜入することになったが、彼の動きはなめらかで無駄がなく、仕事が純粋に楽しみであるというように生き生きと動いていた。


 ターゲットの自宅に潜入する時はほぼ夜になる。そのため彼は必ず暗視ゴーグルをつけていたが、なぜか自分には必要なかった。そのことを問うと彼は嬉しそうに説明してくれた。


「お前の眼は赤外線まで見えているんだよ。羨ましいなぁ。たまにいるんだよ、そういう特殊な能力を持った奴がさ」


 どうやら自分の眼は温度の違いで見比べることができるらしい。常人で確認できる色の違いはわからないが、常人では見えない線まで確認できるのだ。


 その時は自分は特別なんだと気分がよかったが、それだけだった。パンには先天的な能力がなくても莫大な知識があった。特に暗号解読が得意であり、その知識の中で虫を殺すような感覚で仕事を淡々とこなしていくことができた。


 彼は一切の妥協を許さなかった。毒殺を目論む時でも何度もシミュレーションを行い、刺殺をする時にはナイフを自分の指で一度味わってから必ず相手の首に立てていた。


「ナイフで殺すのは本当にプロになった時だけだ。もちろん相手を殺すだけなら銃で殺す方が簡単だ。だが相手に近づき相手が持っている情報を盗むことができる。脅しを掛けるというのもナイフならではの手だ」


 彼のナイフ捌きは他とは一線を置いていた。刃物が彼の一部あるかのように動き、様々な形に変わっていく姿はまさしく生き物だといっても過言ではなかった。


「お前もこの先、スパイとして生きていくのならナイフを覚えた方がいい。そして一番大事なことはそのナイフが確実に切れるかということだ。ナイフで殺す場合、チャンスは一度だけと思ったほうがいい。失敗すれば、自分の命がなくなるからな。だからオレは自分の指で感覚を確かめる」


 そういってパンは自分の胸をトンと叩いた。


「次に大事なのは胸ではなく腹を狙うことだ。動いている標的に対して胸にナイフがあたることはまずない。よっぽどの腕があれば別だがな。一発で殺そうとは思うな。当てることを第一に考えろ」


 パンの持論を覚えることは純粋に楽しかった。最初は彼の真似事から入り、ナイフの使い方、毒物の扱い方、彼が持っている全ての情報を自分のものにしようと夢中になった。


 十五を越える頃には、単独でターゲットの部屋に潜入することを許されるようになった。ターゲットを調べていくうちに、様々な発見があった。家の中を調べれば、その人物の特徴をほとんど余す所なく調べることができるということだ。


 ターゲットの性格、身長体重、年齢、日常の癖、大事にしているもの、人間関係、生い立ちといったことが粗方わかった。相手の写真を見るより明らかにだ。そしてその人物にあわせて殺害方法を考えた。


 毒殺、絞殺、刺殺、撲殺、焼殺、水殺……。

 方法は様々に渡った。それにより様々な知識が自分の中に絡まり眠っていた好奇心を呼び覚ました。


 仕事がない時は、ひたすら本を読んだ。主にターゲットに関係している本だ。天体観測が好きな人間がいれば、それらの本を貪り相手の考えていることを想像するようにした。するとターゲットの予測が自然とできるようになっていた。


 今日のように北の空が晴れた日は天体観測にもってこいだ。ターゲットは確実にどこかの山に登り、時間を掛けて観測するだろう。登るとすればどこだろうか。


 今まで撮っていた写真の角度からすれば場所を特定するのは難しいことではない。そして天体観測をする時は確実に一人だ。お気に入りの構図を見つけるまで何度も撮る癖がある人物だった。おそらく他の人間に気をとられたくないためだろう。そう考えれば、殺害方法は容易だった。


 その日は絞殺を選んだ。


 自分の思考の中では、様々な職業につくことができる。


 教師、学者、医者、弁護士、建築者……。


 次第に人間社会というものに興味が湧き始めていた。自分は社会の歯車にすら入っていない。歯車が回っている世界を横でじっと指を咥えて眺めている生活だった。それが自分の中で劣等感になっていることに気づいていた。


 それからは人を殺すことに対して、次第に疑問を持つようになっていた。いつしか諜報機関というものに対しても疑問を持つようになっていた。


 終わらないイタチごっこ。悪を見つけ、悪を退治する。


 そもそも、悪とは何なのか? 悪というものは本当に存在するのだろうか? 正義とは一体何を指すのか?


 結局、各国の歴史書を漁ることによって正義などないという結論に達した。


 勝った方が正義、ただそれだけだ。二つの価値観の異なる正義がぶつかるだけなのだ。それはいわば、ただの領域争いの醜い喧嘩だった。


 ……それよりも俺は、自分の居場所が欲しい。


 今までに何人も殺めてきた自分が安定を求めること自体が滑稽だったが、それが本心だった。


 ――自分の感情を偽ってはならない。


 それは友であると同時にライバルである、パンの言葉だった。いずれは身を引こうという気持ちが日毎に膨張していった。


 ……どこか遠く、離れた場所に。日本でも中国でもない、どこか夜空が綺麗な場所へ。


 拙い夢を持った矢先に、初のスパイとしての仕事が舞い込んだ。暗殺ではないことに心の底から安心した。

 指令を送ってきたのは、あの軍人だった。男は順調に階級を上げ、手紙を受け取った時には大佐になっていた。胸が詰まる思いをしながら、恐る恐る便箋を開けた。

 タイトルは「私の可愛い息子へ」となっていた。



「今まで辛い訓練に任務、大変だったな。


 だがこれで最後の任務だ。やっと君の両親の無念を晴らすことができる。私もようやくか、と胸を撫で下ろしている所だ。


 今回の仕事は日本に潜入し、伊勢神宮の隠蔽された神を探し出すことだ。これを暴くことができれば、君を襲ったスパイに復讐を果たすことに繋がる。君のお父さんはこの神を暴いたため、殺されてしまったからね。


 君のお母さんは何も知らなかったのに、巻き添えを喰らって亡くなった。こんなひどい仕打ち、あってはならない。

 この仕事は今まで以上に厳しいものになるだろう。


 だが、今の君ならできると信じている。いや、君にしかできない仕事だと私は確信しているよ。何より他の人間とは熱意が圧倒的に違うはずだからね。


 今こそ、君の手で悪の根を断ち切って欲しい。

 それがきっと両親への恩返しになるだろう。

 いい報告を待っているよ」


 気がつくと、今まで押し殺していた闇が体を這って滲み出ていた。甘い世界は粉々に砕け塵になっていた。どこか遠くに行きたいと空想に耽っていた自分はすでに消えていた。


 ……幻の世界などいらない。


 両親を殺した相手に復讐を果たすために生きていることを思い出し、血を滾らせた。


 再び影に染まる日々が始まろうとしていた。

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