第五章 黒秋の『爛』葉 PART1
1.
「リー君、どうしたの? 顔色が悪いよ?」
「……いえ、何でもないです」
自分の中で何かの歯車が軋むような音を立てて回り始めた。それがこの先の行方を暗示しているのかはわからない。唯一わかっていることはこの歯車の流れは止められないということだけだ。
誰かがリーが死んだという事実を隠蔽し、生きているように見せかけている。
今現在、進行形で―――。
「葵さんのお母さんは天岩戸神社の出身ですよね? お父さんは……どこなんですか?」
「お父さんはね。伊勢神宮の小宮司をしていたみたい」
葵は微笑んでいった。
「だから私が男の子だったら、伊勢神宮の神主をしていたかもね」
驚愕から破綻へと変わっていく。最初のインスピレーションはやはり間違えていなかった。彼女とはどこかで会ったことがあると思っていた。
それがまさか、こういうことになるなんて――。
「……やっぱりカクテルはきつかった? 大丈夫?」
葵は眉間に皺を寄せながら彼の背中を優しく擦り始めた。
……あの時に約束を交わしたのはやはり葵だったのか。
悪夢を消そうと瞼を閉じるが蘇ってきてしまう。蒼介が子供を作れないのではない。ただ葵の父親がリーと同じというだけのことだ。
馨とは、戸籍上の名だろう。
自分の本当の名は――。
天岩戸神社の『白』を含み伊勢神宮の『黒』を含む。それは四神の一柱である『白』と『黒』の模様をもつ動物の名。
俺の真名は――。
『琥珀』
「……リー君? 大丈夫?」
リーは平静を装い葵に微笑みを浮かべた。視線の先にはバカラのグラスがある。先程までアンバードリームを浮かべていたグラスだ。
アンバードリーム。またの名を『琥珀』の夢。
琥珀の珀という字には『白』が入っており西の守護神、白虎を有している。天岩戸神社の子としては申し分ない名前だ。
それに天岩戸神社の宮司は虎は死後、石に変わるといっていた。
琥珀の琥を石に変えると、石珀。
これを一つずつばらすと、石、王、白。
さらにこれを並べ替えると――。
『皇石』
葵の父親が『黒』石を扱う時に使った別名だ。琥珀という名前には白と黒のどちらも含まれている。伊勢と天岩戸の子供としての条件は満たされている。
やはり琥珀こそが俺の名だ――。
……もし俺が琥珀であるならば、葵は双子の姉になるのか?
愕然としながらも拙い記憶を全回転させる。彼女の家で一緒にオセロをして遊んだ時、あの時に交わした約束は姉と呼ぶことを強制するものだった。小さいながらもあの頃はお互いに惹かれあっていた。今もこうして様々な境遇にありながらも、お互いに磁力が働くように結びついている。
あの頃の彼女はきっと兄弟以上の関係を超えないための予防線を張るために姉と呼ばせたに違いない。
「……そろそろ帰ろっか。やっぱりきつそうだよ。あんまり飲めないのに、無理させてごめんね」
彼女はボックス席にいるオーナーに声を掛けて勘定をお願いした。オーナーは能天気に千円でいいと告げている。
だがまだ店を出る前に聞かなければいけないことがある。
自分の父親の名は玄司だ。玄は黒を意味し伊勢神宮の子であることを象徴する。
大して母親は白を意味する名前が入っているはずだ。さきほど食べた日向夏蜜柑のシャーベットを連想する。
まさか母親の名は――。
「……葵さん、日向夏蜜柑に母親の思い出があるといってましたよね。それはどういった思い出なんですか?」
「私のお母さんの名前は日向(ひなた)というの」
葵は困惑した表情を見せながらいった。
「思い出という思い出じゃないんだけどね。それでただ気にいっていただけよ」
……やっぱり。
リーは愕然としながらも必死に意識を集中した。自分達はやはり姉弟なのだ。
日向という漢字の中に白は存在する。そしてこの味を覚えていたということはお互いに食べて育っていたのだ。
一筋の糸は一本の強固な紐になっていた。それは家族という絆だ。思えば葵には親しいものを感じていた。
それは匂いだった。どこかで嗅いだことがあり安心感のあるものだった。一緒に日向ぼっこした時の記憶が蘇る。
絶望を抱えながら、リーは近くのホテルまで足を引きずるようにして歩いた。今の状態では何を考えても、まともな回答は得られない。
葵が予約していたホテルにつき部屋に入ると、幅の狭いダブルベッドが用意されていた。きっと前もって連絡していたのだろう。
だがこのまま彼女と共に寝ることなどできるはずがない。ましてや体を重ねることなんて不可能だ。
「先に寝てて、リー君。ちょっとお水買って来るよ」
「いえ、大丈夫です。部屋に入ったら酔いが冷めました」
リーは笑みを浮かべて答えた。
「本当に大丈夫です、葵さんこそ先に寝て下さい」
――囚われるな。
マスターの言葉が頭の中で何度も繰り返される。感情に振り回されるスパイは無能だ。
自分はスパイだ。一度捨てた世界を受け入れるな、今の自分を肯定し騙し続けろ。
「やっぱり顔色悪いよ? ちょっと横になってて。ね?」
葵に為されるがまま、ベッドに横になる。頭を倒すと一気に眠気が襲ってきた。このまま体を溶かして泥のように眠りたい。
「……ごめんね、私が悪かったね。強いお酒ばっかり飲ませて……。本当にごめんなさい」
「いや、そうじゃないんです」
リーはもう一度微笑んだ。多少歪んでいるだろうがこの際仕方がない。
「ちょっと食べ過ぎただけです。あまりにも食事が美味しかったから。すいません、葵さんのせいじゃないんです」
「そうなの?」
彼女は安堵して肩の力を抜く。
「よかった。じゃあ、お水はいらない?」
「はい、大丈夫です」
そういうと彼女はリーの隣に入り込み、彼を暖めようとぴったりとくっついてきた。葵の匂いが自分の気持ちを穏やかにしていく。
懐かしいと思うのは当然だった。子供の頃に経験していたのだから当たり前だ。
……もはや自分にはどうすることもできない。
すでに賽は投げられているのだ。
不甲斐ない気持ちを胸に、彼は葵の体温を感じながら意識の線を切った。
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