第四章 灰秋の『爛』葉 PART1
1.
……なぜ美里がここにいるのか?
理解はできなかったが、自分の仕事を止めるわけにはいかない。神経を逆立てて彼女の動向に注意する。
彼女はフォンの部屋の前に立っている。今はそれだけの情報で十分だ。
ターゲットはドアの中の郵便受けに何かを放り込んだ。もしや内部の映像を盗みとるカメラだろうか。
そのまま彼女はスラックスのポケットに手を突っ込み静止している。
……もしかして誰かが美里に扮しているのかもしれない。
そう思いながらも、その考えを即座に打ち消した。そんなことをしても何の意味もないからだ。
フォンは美里とは接点がない。彼の動きを掴むために美里の変装などしても無意味だ。
……本物の美里である可能性が高い。
スパイだと感じさせる要素はなかったが、目の前にいる以上は彼女をスパイだと認識せざるをえない。
ターゲットは何事もなかったかのように、隣の部屋・205号室の鍵を開けて中に入った。
美里がここの住人のはずがない。自分の中で動揺の波が強くなっていく。
仮にもし、彼女の近しい人物がここに住んでいると考えたとしてもおかしい。彼女は今日の夜、名古屋の街で飲みに行く予定を立てていたのだ。彼女こそが日本のスパイで間違いない。
三分後、彼女は何の代わりもなく部屋から出て来た。黒のスーツのままだ。階段を降り205号室に駐車してある車に乗り込む。フォンと同じ軽自動車だ。
念のため、彼女以外のスパイがフォンの部屋を訪れることを予想しカメラをセットしておく。これでとりあえず追跡はできる。
ターゲットの車のナンバーを確かめた後、リーは先程のタクシーに乗り込み彼女の跡を追った。彼女の運転は速度制限をきちんと守っており、早くもなく遅くもなくといった感じだ。慌てていない所にドライブを楽しんでいるようにも思える。
運転手が突然口を開いた。
「しかし、安全運転だねぇ。おたく、彼女の彼氏かい?」
「……ええ、そうなんです」
リーはなるべくおっとりとした声を出すよう心掛けた。
「このまま行くと、どこに向かいそうです? 僕の予想では神社に向かうと思っているんですが」
「そうだねぇ、この道を進んでいけば高千穂峡に繋がっているから天岩戸神社にもいけるよ。よかった、本当におたく、彼氏なんだね」
運転手は笑いながら答えた。
……どうやらうまくいきそうだ。
リーはほっと胸を撫で下ろした。尾行を頼む時はなるべくターゲットの親類を演じるのがいい。もしくは異性の繋がりだ。今回は彼氏の設定の方が都合がいいと無意識の内に連想していた。
「行き先もいわないで尾行してくれといわれたから、てっきり怪しい人だと思ったよ」
「……本当にすいません。彼女とはしっかりと面識があるのでご了承を」
運転手に配慮を見せるような声に変える。
「彼女は一人で天岩戸神社に行かなければならないといっていたんですが、心配で様子を見るためにわざわざ名古屋から来たんです。だからなるべく気づかれないように距離をとって下さい」
運転手はよし、と掛け声を上げた。
「わかった。前金も貰っているし、しっかりと後をつけさせて貰うよ」
気のいい運転手でよかったなとリーは思った。疑うことを知らない人物なのだろう、それはこの土地特有のものなのかもしれない。運手手への対策も立てていたが、どうやら不要に終わりそうだ。
先に進んでも、ターゲットの動きに変わりはなかった。コンビニに寄ったり、途中で車を止め携帯電話で誰かと話をしたりして、フォンの動向を抑えているような動きではなかった。しかしこの道は天岩戸神社に通じていることは確かだ。
なぜターゲットはフォンが天岩戸神社に向かったとわかるのか。それともすでにフォンをつけているスパイがいて彼女は陽動要員なのか。
何度も考えるが、もちろん答えなど出るはずがない。最善は彼女の動向を注意するしかない。
ターゲットは天岩戸神社のパーキングで車を止め、そのまま神社の中に入っていく。タクシーの運転手に礼をいって、彼女の跡をつけることにした。
マスターに連絡を入れると、フォンはすでに葵の尾行に成功しているとのことだった。天岩戸神社に滞在しているらしい。今までの経緯を報告し、ターゲットを尾行していることを告げて連絡を切った。
目の前にいる人物が誰なのかはわからない。本物の柏木美里なのか、日本のスパイなのかも確証はない。
ただ一つわかっていることは、役者は全て天岩戸神社に揃ったということだ。
先に進むにつれ、ターゲットとの距離を確認しながら尾行を続ける。ターゲットは正殿の中に入り賽銭を放り込みながら拝礼していた。誰かをつけているような感じは全くしない。純粋に神社のお参りに来ているような感じだ。
……よく見ると、美里ではない気がする。
美里よりも背が少し高く華奢な感じではない。どちらかといえば、葵のようにすらっとした鋭さを兼ね備えた美人タイプだ。動揺して見間違えたのだろうか。
ターゲットを眺めていると、正殿が目に入った。正殿の作り方に違和感を覚え、吟味していると矛盾点に気がついた。
……ここの鰹木は五本しかない。
奇数ということは男性の神ということになる、ここの神は本当にアマテラスを祀っているのだろうか。
再びターゲットの尾行に移る。ターゲットは正殿を出た後、踵を返し右に曲がった。その方向には天安川原
あまのやすかわら
という場所に通じている。近くに咲いている蜜柑色に染まった秋桜(コスモス)を愛でながら、ゆっくりと進んでいる。まるで緊張感とは無縁の存在のようだ。その姿が葵のイメージと重なる。
まさか彼女は葵なのか?
……それはありえない。
リーは首を振った。フォンが葵をつけているのは確かな情報だ。それだけは絶対にない。
のんびりと進むターゲットに苛立ちを感じ始めた頃、ターゲットの先にフォンの姿が目に映った。ついにターゲットの視点からでも彼を捉える距離に入っている。
……必ず何らかの動きを見せるはず。
気持ちを切り替え、注意深くフォンの動きを目で追う。
彼の動きは空気に溶け込んでいるようで、そこに本当に存在しているかどうかも疑うようなイメージを覚えた。注意しなければ、フォンとわからないほどだ。彼自身尾行されることには馴れている。きっとつけられていることを予測した上での動きなのだろう。
フォンの隣には女性が同行していた。仲良く談笑しながらゆっくりと歩を進めている。確かに若い男が一人で神社に来ることは珍しく思われるかもしれない。前もって約束を交わしていたのだろう。任務中は誰とも関係を作ってはならないというルールだったが、彼は当然のようにそれさえも無視しているようだった。
フォンの先に葵がいると思うと、気が気ではなかった。彼女のことを想像していると、今までの不可解な矛盾が一本の線で繋がったように感じる。
……ターゲットの狙いは葵に変装することではないか?
葵が宮崎に来なかった場合、フォンは彼女を追うことができなくなる。そうなれば当然、日本のスパイは彼を誘(おび)き出すことはできない。そのためのフェイクなのかもしれない。
……しかしどうやってフォンがスパイだと調べ上げたのだろうか。
確かに日本のスパイは彼が中国のスパイだとわかった上での行動をしている。そうでなければ、彼の部屋の前に立つことなどできはしない。その情報源はどこから来ているのかは自分では判別できない。
やはり日本のスパイは何か掴んでいる。もしかしたらすでに自分にも……。
……この説が当たりだとすると、葵も危ない。
このまま彼女が白の勾玉を手に入れれば残るは伊勢神宮の勾玉だけになる。ターゲットはフォンを狙いつつも、彼女を潰すことを念頭に置いているのかもしれない。尾行している人物はフォンだけではない可能性もある。
……今回の作戦に失敗は許されない。
リーは気を引き締めて監視を続けた。坂道を下ると、耳を清めるような川の音が聞こえてくる。木で出来た趣のある橋が目に入ると、その先には若い女性と老人が仲良く談笑しながら進んでいた。
双眼鏡で覗くと、ついに自分の目で葵を捉えた。
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