第三章 白秋の『爛』葉 PART8 (完結)

  8.


 一時間後、宮崎空港に到着したリーは空港外にある監視カメラのないトイレで変装を施した。もみあげから繋がった髭を結わえ、黒縁眼鏡に髪をオールバックにする。このまま眼鏡をサングラスにすればマスターにでも変装できそうだ。今回の作戦は極秘中の任務で誰にもばれてはならない。


 タクシーを捕まえフォンの住んでいるアパートへ向かう。今頃葵の予定では、大学でかつての友人と会っているだろう。


 その人物は楸田馨(ひさぎだ かおる)という名だ。何でも大学を卒業して研究にはまっている根っからの理系男子らしい。


 タクシーの窓からバイパスの中心に生えている椰子

やし

の木に目がいった。地平線が見える所まで眺めても、椰子の木は永遠と続いている。見渡す限りに山が視界に写りのんびりとした空気を作っていた。本当に田舎という言葉がぴったりと当てはまる所だ。


 バイパスを抜け一般道に入ると、穂を実らせた稲がリーに向かって挨拶するように垂れている。しばらく田んぼ道を進んでいくと、フォンが住むアパートが目に入った。


 目的地についた所で、リーはタクシーの運転手に声を掛けた。これからの選択肢次第で、再び車を使う必要があるからだ。この近くにはタクシーが常駐していない。そのため運転手に一時間ほど待機しておいて欲しいと告げ規定の料金以上を払うことにした。


 マスターから預かっていた鍵を使って調査をする部屋に向かう。サンライズというアパートのB棟302号室だ。名古屋で住んでいる自分と同じ名称だったが、こちらの方が明らかに格が上だった。


 カーテンを開けて身を潜めながらフォンの部屋を眺める。ここからだとフォンの部屋は見通しがよく、監視するにはもってこいだ。


 理想でいえば、監視部屋はフォンの隣の部屋・A棟205号室がよかった。だがそこにはすでに住人がおり叶わなかったのだ。


 フォンは予定通り自宅にいるようだ。彼のアパートは壁際にあるA棟の206号室。その番号に止まっている車もある。彼には都合がいいように軽自動車が用意されており、アパートの番号に駐車されていた。何でも宮崎は車がなければ交通手段がないといわれるくらい不便らしい。先程の田んぼ道を見れば、誰でも納得することだった。


 作戦内容を再び考察する。

 今回のスパイ偵察作戦は二つの場合を想定されて策が練られてある。


 ①フォンが出発してすぐにスパイが現れた場合と、②スパイが現れない場合だ。



 ①スパイが現れた場合。


 敵のスパイの目的は二つに絞られる。フォンの尾行を行いフォンがスパイであるか確かめることだ。または、部屋の形跡からスパイと判断する情報を手に入れることのどちらかになる。


 自分が敵の立場であれば手堅い方法は、フォンの部屋の中に入る後者だ。ターゲットが彼の部屋の中に潜入した場合はマスターから預かったキーでターゲットを捕らえればいい。そのための道具をこの部屋に準備して貰っている。


 ターゲットがフォンの尾行を始めた場合は用意したタクシーで尾行し、ターゲットの正体を明らかにすることが目的になる。



 ②スパイが現れない場合。


 この場合はフォンが帰ってくるまで原則として待機しなければならない。フォンが帰ってくる頃を見計らって葵に連絡し、葵と合流するのだ。合流する場所は葵が泊まる市街地のホテルになるので、その時はタクシー以外の交通手段でも問題ない。



 ……恐らく日本のスパイは確実にいる。


 リーは再び思考を開始した。スパイがいるとすればこの最大のチャンスを逃すはずがなく、確実に動くはずだ。①の作戦を再び反芻する。


 再び時計を眺める。もうすぐフォンが自宅を出る時間だ。葵はきっと楸田という人物と共に、お世話になった教授との会合を終えているだろう。教授との会合は前々から予定を組んでいるらしく、十五時までとっているとのことだった。その後、天岩戸神社に向かう予定になっている。


 葵が通っていた大学は、現在フォンが仮面をつけて通学している所だ。きっと葵が近いうちに宮崎に来ることを予測して予め彼を潜入させていたに違いない。


 ……彼が疑われるようなことをするはずがない。


 疑われた時点でスパイとしては失格になるのだが、彼がそんな些細なミスをするわけがない。彼より優秀なスパイを見たことがないからだ。呼吸をするように人を殺し、自分を欺ける彼が疑われること自体、おかしいと思う。


 ……久しぶりだな、フォン。


 彼の姿が視界に入る、どうやら部屋から出てきたようだ。注意深く彼を観察するが、一年前に会った時からほとんど変わっていない。変わっている所があるとすれば、この蒸し暑い気候に対応するために緩いシャツを着ている所と髪の色が赤く染まっている所くらいか。


 フォンは気だるそうに車のキーを開けて運転を開始した。スパイが来るならこのタイミングだろう。車で外出すれば部屋を長期不在にするという意味を含み、潜入するには絶好の機会だ。


 フォンが外出した後、しばらく彼の部屋を眺める。ぼんやりと周りの景色を見ていると、この熱い中、黒いスーツにスラックスを穿いた人物が視界に入った。背は中くらいだが、華奢な体格だ。男か女かは遠目からではわからない。就職活動をしている学生かもしれない。


 しかしそれはないと思った。ショートカットだが、茶髪に染まっており明るい。とても面接を行なう身なりではない。


 その学生はフォンの部屋がある二階で止まった。そのまま彼の部屋に向かって歩き出す。

 双眼鏡の倍率を上げて、スーツの人物に焦点を当てる。そこに映っていたのは自分の知っている人物の面影を引いていた。


 ……どうして彼女がここに?


 リーは驚愕し再び双眼鏡を見た。やはり見間違えではない。どこからどう見ても彼女にしか見えない。


 レンズの奥に映っている人物は先ほど食事を共にした柏木美里だった。 

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