第三章 白秋の『爛』葉 PART7
7.
翌日。リーはいつも通り大学に向かっていた。
本当は少しでも早く空港に向かいたいが、誰かが自分をつけている可能性を無視できない。大学というのは学生以外にも容易に入れる場所だからだ。もちろん、学生の中にも自分と同じようにスパイが紛れ込んでいることも考えられる。
「あれ、リー君じゃん。おーい、リー君」
振り返ると、美里が大きく手を振っていた。裾の短いスカートに緩いセーターを羽織っていた。今日も男受けするような服装だ。
「こんにちは、柏木さん」
「リー君、今日も午前中まででしょ? ご飯はどうするの?」
「食堂で食べようと思ってます」
「そっか、じゃあ私と一緒だ。一緒に食べよ?」
時計を確認すると、今はまだ十一時だった。飛行機の時間までまだ二時間ある。少しくらいなら会話を交わしてもいいだろう。
「ええ、いいですよ」
「ほんと? じゃあ、一緒に行こっか」
食堂に入り美里と同じように軽い荷物を置き場所を確保する。オレンジ色のお盆を取ると、美里は並んでいる皿を眺めながら悩み始めた。
「うーん、何にしようかな」
目移りしている彼女を置いて、リーは迷わずハヤシライスを選んだ。考えずに食べることができるものなら何でもいい。
先に席につき美里を待っていると、彼女はパスタを盆にのせてやって戻ってきた。その麺の色は真っ黒に染まっている。思わず二度見した。
「……それは何ですか?」
「烏賊墨(いかすみ)のパスタよ」彼女はそういって美味しそうに啜り始めた。
「リー君、今日はバイトある? 友達と飲みに行こうと思ってるんだけど、お店開いてるかな?」
「店は開いてますけど、僕は今日休みなんです」
「……そうなんだ。じゃあ一緒に飲みに行かない? 別の場所でもいいよ?」
「すいません。今日も予定があって……」
「……ふうん」
美里は訝しそうな顔をした。
「わかった、いつも来ている大人っぽい女の人とデートでしょ?」
「いえ、あの人とはお店の中でしかあっていませんよ」
リーは首を振って否定した。図星といえば図星だが、デートではないなと心の中で笑う。葵を尾行しなければならないからだ。
「そんな隠さなくてもいいのに。別にリー君が目当てであのバーに通おうと思っているわけじゃないんだから」
「わかっています。マスターが目当てなんでしょう?」
そういうと、彼女は照れ笑いを作った。
……やはりか。
昨日からやけにメールが来るなと思えば、リーではなくマスターが本命らしいということが判明した。
自分に対して意味ありげな言葉を並べておいて、マスターに関する情報を引き出そうと奮闘していたのだ。
「……ばれてたか」
美里は頭を掻きながらいった。
「あの渋い親父がけらけらと笑う所が気にいったんだ。面白いもんね、マスター」
葵が帰ってから一時間後。美里が静かに飲んでいる中、マスターがふらりと帰ってきた。そこから一様にして店は盛り上がったのだ。
マスターと美里のトークは息がぴったりで、九月に入ったというのにエアコンを全力でつけなければならないほど店の中は熱気に包まれた。まるで仲のいい親子だなとリーは距離を置いて眺めていた。
「そうですね。今日は平日ですし、お客さんも少ないから狙い目だと思いますよ」
「そっか。今日は早めに行こうかな。それでリー君はどこに行くの?」
「ちょっとした旅行です」
……また口走ってしまった。
自分の中で動揺が走る。美里は本当にさり気なく情報を引き出すのがうまい。
「ふうん、明日から連休だもんね」
彼女の瞳がきらりと光る。
「暖かい所、それとも寒い所? それだけでも教えてよ、お店の売り上げに貢献するからさ。マスターにも話してないんでしょ?」
再び時計を眺める。もうそろそろ空港に向かわなければいけない時間だ。
……これ以上時間を取られている暇はない。
リーは簡潔に答えることにした。
「どちらかといえば暖かい所ですかね。すいません、そろそろ行かないと間に合わないので」
「……そっか。楽しんできてね」
そういった後、美里はリーの方を再び向いて手を合わせてきた。
「ああ、ごめん。時間がない中、本当に申し訳ないんだけど携帯を見せて貰えない?」
「どうしたんです?」
「この間リー君の携帯に私の番号登録したじゃん。ちょっと間違いがあったから、見せてくれる?」
「ええ、いいですよ」
美里は馴れた手つきでリーの携帯を再び扱った。
「……これで終わりっと。手間をとらせてごめんね」
リーは再び携帯の画面を見た。しかし特に何かが変わった様子はない。
「ん? 何が変わったんですか?」
「それは内緒」
彼女は口に指を置いて微笑んでいる。
「次に会った時に教えてあげるよ。宿題だからね」
このまま無駄話をしている暇はない。リーは話を切り上げて食堂を出ることにした。
そのまま電車をいくつか経由し、名古屋空港に向かう。空港内でも周りに気をつけたが、尾行をしているような人物はいない。
宮崎行きの便に乗り込み、シートベルトを締めた。尾行がいないことに安堵し気を緩めることにする。それと同時に定期的に眠気が襲ってきた。寛(くつろ)げる時間はこういった束縛された状況下だけだからだ。
リーは大きな欠伸を交えつつ、少しばかり夢の世界を彷徨うことにした。
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