第三章 白秋の『爛』葉 PART3

  3.


「そうか、ターゲットが向かうことになったか……」マスターは眉間に皺を寄せていった。


 彼の眼には冷徹な光が帯びていた。その光は何かを狼狽しているようにも見えた。


「じゃあ、お前には一仕事して貰わないといけないな」


 ……一仕事。何だろうか?


 ヘイの心の中で嫌な煙が広がっていくのを感じた。人殺しだけはできれば避けたい。


「わかりました、何をすればいいんです?」


「連日出勤の中、申し訳ないが久しぶりに体を使った仕事だ」マスターはにやりと笑いながらいった。「だが安心してくれ。殺しじゃない。ただの偵察だ」


 ヘイは心の底からほっとした。人を殺した後にターゲットに会わせる顔がないからだ。


「今回の相手は敵国のスパイだ。我々の動きをこそこそと探っているものがいる。まあ、俺達がいるから探っているんだろうがな。そいつの動向を探らなければ今回の計画が全て漏れる可能性がある」


 思考が自動的に切り替わる。日本にもスパイがいることは想定していたが、誰を付け狙っているのだろうか?

 もちろん自分ではないという自負はある。


「わかりました……うちの班ですか?」


 マスターはぐいっとグラスを傾けた。毎回練習と称してカクテルを作っているが、その度に飲む量が増えていた。相変わらずザルのように酒を飲む男だ。


「そうだ、フォンが狙われているらしい。あいつは今、単独で宮崎に乗り込んでいる。もちろんターゲットが持ってくる情報に間違いがないか、尾行するためだ」


 ……なるほど。


 葵を一人で行かせるからといっても、きちんと人はつけるわけか。当たり前といえば当たり前だが、うちの班から出ているとは考えていなかった。

 しかし――。


「つまり、私自身も宮崎に向かうということですか?」彼は抗議するような口調でいった。「それでは、ターゲットと一緒に行くのと変わらないのでは……」


「いや、全く違う」


 マスターはかぶりを振った。

「二人で同時に向かうとなれば、間違いなく日本のスパイはお前らをマークし、お前にもスパイがつくことになるだろう。


 だが別々に行けば、男が女を追って向かったという図になる。敵のスパイは先に向かう女の方を強くマークすることになるだろう。その間、お前はフォンのスパイが誰かを発見しろ。その後、連絡をとってターゲットの元へ向かえ。わかったな」


 要するにターゲットを囮にし、日本のスパイを追えということか。中々簡単な仕事なようだ。


 ヘイが頷くと、マスターは両肘をカウンターにつき、おかわりといった。そろそろウイスキーに変えるつもりのようだ。最近スコッチではなくバーボンに嵌っているらしい。


「お前達は四つのうち、すでに二つを辿っているんだ。お前は敵のスパイに出会ってないと思っているかもしれないが、それは間違いだ。すでに敵の諜報機関にマークされていると考えていい」


「もちろん、わかっています。……一つ質問してもよろしいでしょうか? 敵のスパイが我々の一人ずつをつけているという考えはないのでしょうか」


「その点なら問題ない」


 マスターは手を振って否定した。

「お前に尾行はついていない。つまりターゲットについている可能性が高いわけだ」


 ……なぜそうきっぱりと断言できるのだろう。


 ヘイは訝った。ここ最近のマスターは断定した物言いが多い。何か有利な情報源を得ているのだろうか?


「何しろ神社で務めている巫女だからな。下手すれば我々にばれるよりまずいかもしれんぞ」


 それは冗談が過ぎると彼は心の中で笑った。こっちは日本を脅そうとしているのだ。どうして日本に住んでいる巫女の方が危険なのだろうか。


「なぜそう思うんです?」


「もし神社で務めている人物にばれてみろ。巫女なんかは血族関係にない人間を雇っている所がほとんだ。血の繋がりがない者にばれたらどうなると思う? 日本中に噂は広まり、隠蔽できるものではなくなるだろう」


 ……そういうことか。


 ヘイは妙に納得した。我々が本当の日の神の正体を暴いたとしても、それはあくまで政治の交渉の一部でしか発揮されない。しかし日本で生活している巫女が漏らせばはるかに浸透することになるだろう。


 彼女は熱田神宮の娘ではないのだから――。


「確かに、仰る通りです。ターゲットにしても宮司の娘というのにその情報は全く知らないようです」


「それはそうだ。本当の娘じゃない奴に教える義理はない。だからこそ、あの娘をターゲットにしたんだ」


 マスターは次のグラスに手を伸ばしてから続けた。


「内宮の神の正体がばれても証拠がなければ、敵国はただのいいがかりとして処理することができるからな。我々はきちんと証拠物を手に入れなければならない。本当に大変な任務だ」溜息を交えつつグラスを空にした。


 いつもよりペースが早い。

 ヘイは妙な違和感を抱きつつ頷いた。


「……了解しました。フォンを付け狙っているスパイを探し出した後、ターゲットと合流しろということですね。目的を果たすまで彼女に自分の存在をばれないようにすればいいと」


「そういうことだ」


 マスターは要約していった。

「一言でいえば二重尾行になるな。さらにいえばフォンにもばれてはならない。フォンには今回お前に与えた任務は話さないつもりだ。理由はわかるな?」


 ヘイは首を縦に振って応対した。

「フォンの目的はターゲットのみですからね。それ以外の動きをして、フォンをつけているスパイに勘付かれてはいけないと」


「……そうだ、お前は飲み込みが早くて助かる。フォンなら尾行されながらも尾行することくらい朝飯前だろうがな。くれぐれも注意してくれ」


 確かにフォンにとっては簡単な仕事だろう。純粋にスパイの仕事を楽しんでいる彼にとっては――。


「私はいつ向かえばいいんでしょうか?」


「先にターゲットが向かってからだ。その後の便でお前は宮崎に向かえ。まずはターゲットの搭乗時間を調べておくことだな」


 マスターの説明は粗方理解できた。しかしその日に日本のスパイが確実に動くかどうかはわかるはずがないと思った。彼が日本側のスパイであるというのなら話は別だが。


「どうして私が宮崎に行く日に、敵国のスパイが動くとわかるのですか? 何か情報を得ているのです?」


「ふん。そんなのは簡単さ」


 マスターはふぅと溜息をついた。そして不敵な笑みを浮かべてこちらに視線をやった。


「お前がターゲットに九月九日に向かうように仕組むからだ」

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