第三章 白秋の『爛』葉 記憶視点 PART2
★.
「こはく。遊びに来てやったぞ」
肌を焦がした少女が玄関で仁王立ちしていた。彼女は夏の季節に相応しい白のワンピースを着ている。
こはくと呼ばれた少年の胸は高鳴った。
「久しぶりだね、アオイちゃん」
自分よりも背丈がある少女は挨拶代わりにと抱きついてきた。少年の胸は急激に旋回し空中を舞う。
「アオイちゃん、今日こそは僕が勝つよ。アオイちゃんに勝つためにたくさん勝負してきたんだから」
早速囲碁盤を準備しようとすると、アオイは首を振った。
「今日はさ……オセロにしない?」
「えー、オセロなの? 僕は囲碁がしたいなぁ」
アオイに勝つために、様々なルールを覚え路盤を順調に増やしてきたというのに。こはくは上目遣いでアオイを見つめた。
「だって、こはく、わたしより囲碁弱いじゃん。わたしが面白くないよ」
確かにその通りだ。こはくはまだ九路盤までしか進んでおらず、彼女はすでに十三路盤まで打つことができる。それは決して対等とはいえないレベルだ。
その点、オセロならルールが簡単で今のこはくでもアオイといい勝負ができる。
「……しょうがないなぁ。その代わり、僕が勝ったら囲碁で一局勝負してよね」
「うんうん、いいよ」
こはくは囲碁盤をひっくり返してオセロ盤に変えた。
「じゃあ、わたしからやるね」
そういってアオイは四枚石を並べた後、黒石を置き白石を一枚ひっくり返した。アオイの勢いに飲まれないよう、こはくはじっくりと考えてから白石を置いた。
しばらく石を並べていると、アオイの目が虚ろになってきた。
「……うーん、今日は天気がいいから眠くなって来たなぁ。やっぱりオセロは止めて日向ぼっこしない?」
「だめだよ」
こはくは眼を細めていった。
「僕にオセロで負けたくないからって、ごまかそうとしてもさ」
「あはは、ばれたか」
アオイは笑いながら頬を掻いた。
「こはくは本当に強いね。囲碁だったら負けないのに」
「アオイちゃんの方が先に始めたんだから、当たり前じゃないか。僕はまだルールを覚えただけだ」
「男が言い訳するのは格好悪いよ」
こはくは一瞬たじろいだが、結局泣き言を漏らした。
「そうだけど、それでもやっぱりアオイちゃんの方が強いよ」
今回の勝負はこはくの勝利で幕を閉じた。いい気分だが、やはり囲碁で勝たなければ意味がない。再び路盤をひっくり返そうとすると、アオイは欠伸を上げて窓の方を指差した。
「……ねぇ。天気がいいから、日が当たる所で日向ぼっこしない? 囲碁の勝負はその後でもいいじゃん」
太陽が燦々と輝きアオイに日が差した。アオイはヒマワリのように屈託のない笑みを見せている。その光景に思わず息を呑んだ。
「……僕は眠くないけど」
こはくの返答を無視するかのように、アオイは彼の布団を押入れから出してきた。そのまま日が差す窓際によたよたと歩きながら運んでいる。
「こうやって日が当たる所で布団を引くでしょ。この中で一緒に布団の中で包まるの。気持ちいいよー」
アオイにされるがまま、こはくは布団の中に包まった。日が差し込んで暖まった布団の中は天国のように気持ちがよかった。
布団の中で抱き合ってごろごろしていると、突然アオイが口を開いた。
「……こはく、キスって知ってる?」
「キス? 何それ?」
知っていたが、口に出すのを躊躇った。思わず知らない振りをした。
「こうやって唇を合わせることをいうの」
アオイは有無をいわさず、こはくの唇を奪った。彼女の唇の感触が自分の唇を通して伝わる。あっという間の出来事に彼は一瞬何が起こったのかわからなかった。
「どうだった?」
真摯に見つめるアオイが目の前にいる。
……そんなことを聞かれても。
返答に困ったので、しどろもどろしていると再びアオイの顔が近づいてきた。こはくは咄嗟に避けた。
「止めてよ。なんだか、ドキドキしちゃうじゃないか」
「やっぱり? こはくも? わたしもね、心臓がドキドキしてるよ。ほら、触ってみて」
アオイの心臓音が手の平を通して伝わる。その音がなぜか心を落ち着かせていく。
「なんでだろうね。こはくの近くにいると、嬉しいんだけど恥ずかしいと思うことがあるんだ」
「……僕もだよ。アオイちゃんといると色んな気持ちが出てくるんだ。これが恋なのかな?」
「どうなんだろうね……わかんない」
日が沈むまで布団の中で過ごしていると、眠気に襲われしばらくまどろんでいた。アオイの匂いがこはくの気持ちを一層穏やかにした。
突然、こはくの耳をつんざくような声が聞こえた。大人の男性の低い声が部屋中に響いている。どうやら父親同士が口論を始めているようだった。
「お前は自分のしていることの意味をわかっているのか?」
そういったのはアオイの父親・蒼介の声だった。今までに聞いたことがないくらい怒りに満ちている。
「わかっているつもりだ」
こはくの父・玄司の声だった。こちらは冷静で、はっきりとした声だ。
「どうしても、お前が中国に向かうというのなら俺はお前を止めなくてはならない。俺だけじゃなく日本を敵に回すことになるぞ」
「……そうだろうな」
淡々とした口調で玄司がいう。こはくを叱る時と同じような抑揚だ。
「お前の子はどうするんだ? まさか、中国に連れて行くというのか?」
「そうしなければ、あいつは間違いなく殺される。何も知らない状態でもな」
こはくは耳を疑った。日本にいれば殺される? どういうことなんだ?
「なぜお前は掟を破ったんだ。誰よりも故郷を愛し模範を貫いていたじゃないか。やはり俺への当て付けなのか?」
父親が何かを破った。
こはく自身、その言葉を信じることができなかった。尊敬している父親が悪いことをするはずがない。それに蒼介とは兄弟のように仲がいい関係で、軽口を叩くことはあっても本気で喧嘩をした所は今までに見たことがない。
「……そうとって貰っても構わない」
玄司は蒼介の挑発を軽々と無視した。
「ただオレは全てを知りたくなったんだ。オレが仕えているものは本当に全てを捧げてもいいのかどうか確かめたかった」
「馬鹿か、お前はっ。自分の子を危険に晒しているんだぞっ」
蒼介の大声が飛ぶ。
「そんな危険を冒してまで調べるべきことではないだろうっ」
「……じゃあ聞くが、掟を破って子供を作ったのは誰だ?」
「それは……」
蒼介の声が一気に萎む。まさかアオイの出生には何か秘密があるのだろうか?
「……オレはお前のことを確かに恨んでる」
玄司は冷静な声でいった。
「だが日向(ひなた)が決めたことに口出しをするつもりはない。オレだってあいつのことを愛していた。だから双子の件はこれ以上咎めたりはしない」
……双子の件?
何の話なんだろうか? 自分には兄弟はいないし、アオイにも兄弟はいないはずだ。アオイを実の兄弟のように慕っているのは、血族ではなく純粋に親しい間柄というだけだ。
それに日向とは誰のことだろう?
「今回の件でお前を追い詰めることになったのは確かだ。本当に申し訳ないと思っている」
蒼介が詫びるようにいう。
「だが子供は別だ。もしお前が中国に行って、あの子が幸せになれると思うのか?」
再び中国という言葉が出た。もしかすると玄司は日本を離れる計画を立てているのかもしれない。
「それは行ってみなければわからない。それにここにいたら瞬(しゅん)の命も危ない」
瞬、こはくの母親の名だ。母さんの命まで狙われるとは一体、父さんは何をしたのだろうか?
わからないことが多すぎて彼の頭はパンクしていた。ただ家族に危険が迫っているということはわかる。
「お前はあの女に騙されているんだ。お前が知っているだけなら、まだいい。だが中国にその情報が渡ってみろ。お前の命だけではすまない」
あの女、といわれたことにこはくは憤りを感じた。母親が悪いことをしたみたいな言い方だ。優しい母さんが悪いことをするわけない。
……お父さんは一体、何をしようとしているんだろう?
「もちろん、中国にその情報を渡すつもりはない。ただオレは家族を守りたいだけなんだ」
玄司の言葉を聞いてから、蒼介は一度黙った。その後、先ほどの怒声とはうってかわって冷静に言葉を述べ始める。
「……そうか。お前にも信念があるということだな。ならば、俺も自分の使命を果たす。次に会う時は敵同士だ」
「……そうなるみたいだな」
怒鳴り声が飛び交ったため、アオイも目を覚ましたようだ。まどろんだ目を擦りながらむくりと起き上がっている。
「ありゃ……夜まで眠っちゃったみたいだね。今日は泊まらないっていってたから、囲碁はまた今度ね」
「それよりもアオイちゃん、お父さん同士が喧嘩してたんだよ」
「え、なんでぇ?」
「なんかね。もしかしたら僕、中国に行かないといけないかもしれないの」
アオイの目が大きく開いた。
「旅行じゃないの?」
「んー違うみたい。それにお父さんが日本にいられないとかいってた。それに双子がどうとか……」
「……双子?」
アオイは目を開いたまま、体を激しく揺らしていた。足が震え体を留めることができていない。
「アオイちゃん、どうしたの?」
「やっぱりそうなんだ……。わたしには兄弟がいたんだ」
アオイは声を震わせ布団の中に潜った。その中にこはくは引きずり込まれた。
「アオイちゃん?」
暗闇に目が慣れていないせいか、アオイの目の瞳孔が大きく広がろうとしていた。彼女はこはくをまっすぐに見て思いっきり抱きしめた。
「……こはく。これからはわたしのことをおねーちゃんと呼ぶのよ」
アオイの変貌ぶりに戸惑う。いつもの能天気な声とは違い鬼気迫る声だった。
「どうして?」
「……いいから」
彼女は彼に圧力を掛けながらいった。
「わたしのいう通りにして」
「いやだ、アオイちゃんの方がいい」
なぜアオイは一変してこはくに対する態度を変えたのか。なぜ姉と呼べと強要するのか。その原因が双子という言葉にあることはわかる。
だが理由はわからない。
「駄目よ。今はまだわからないかもしれないけど、大人になったら必ずわかる。だからわたしのことをお姉ちゃんと呼んで」
こはくは納得がいかなかったが、彼女のいう通りにすることにした。アオイの小指を掴み自分の小指を絡ませて折り曲げた。
「……わかったよ。アオイちゃんがそういうなら、今度からお姉ちゃんと呼ぶようにする」
お姉ちゃん、と呼ばれたアオイはほっと吐息をつきながら、胸を撫で下ろした。その小さな手でこはくの頭を優しく撫でてくれた。
「うん、いい子ね」
アオイは布団を外しこはくの服の上に涙を零している。何がそんなに悲しいのだろう。
「アオイ……お姉ちゃん?」
「ごめんね、こはく。もう少しだけこのままでいさせて」
淡い光が部屋の中に降り注ぎ、彼女の影が彼の体にぴったりと重なり合った。しかし時間を追うにつれてその影はゆっくりと二人を遠ざけるように離れていく。
……もう、アオイには会うことができないのかもしれない。
こはくは何故かそう確信し、彼女の温もりを忘れないようにと再び強く抱きしめた。二人の影は一つとなり時間が経つにつれ回りと同化していった。
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