第三章 白秋の『爛』葉 PART1

 1.


 ……今日も風が冷たくて気持ちがいい。


 リーは店に出勤した後、果物を買いに近くのスーパーに向かっていた。暑い夏もようやく過ぎ去ろうとしている。夜になれば鈴虫がびーびーと柔らかい音を立てて鳴り始めていた。


 レモンとライムをそれぞれ六個ずつ買っておく。今の店ではレモンとライム、それにカクテルに使う果物は生を使っているのだ。瓶ジュースでも売っているが、果汁だけだとレモンの皮を使ったピールをすることができなくなる。


 このピールは酸味を味わうための隠し味として、カクテルのレシピに多数存在しているので欠かせないのだ。青果店の店員と何気ない会話を交わし店に戻ると、葵がすでに座っていた。


「あ、おかえりなさい。マスターは用事があるとかいって出て行ったよ」


 ……またサボりに出たか。


 彼は心の中で溜息をついた。きっと暇ならこのまま閉店時間まで帰って来ないつもりだろう。


「……そうですか。いらっしゃいませ、椿原さん」


 リーは肩をすくめていった。

「最近暇になると、すぐに出ていっちゃうんですよ。困ったものです」


「いいじゃない、二人っきりになれるんだし……」


 葵は嬉しそうにいう。

「それにしても店の中だったらまだ苗字で呼ぶの? 付き合ってもうすぐ半年になるのにさ」


「仕事中ですから、そういうわけにはいきません」


「あーあー、そうですかそうですか」葵はマンボウのようにぷっくりと顔を膨らませている。その姿さえ愛らしく思う。


 葵のカウンターを見ると、コースターも飲み物も出ていなかった。


「まだ注文してなかったんです?」


「うん、だってリー君に作って貰おうと思ってたから」


「そうですか。じゃあ何を作りましょうか?」


「いつも通り、おすすめといいたい所だけど。んーそうだなぁ、甘いやつがいいかな」


「珍しいですね。どうしたんですか?」


 葵は辛口の飲み物を好む傾向にある。甘めのカクテルを望んだことは数えるほどだ。


「たまにはいいじゃない。おすすめはある?」


「そうですね…………じゃあカルアミルクとかはどうですか?」


「そんな簡単にできるやつじゃ面白くないよ」


 葵は首をぶんぶんと振った。

「せっかくだからシェイカーで振る奴がいいな」


「んーそうですね……」


 リーは顎に手を置いて眉間に皺を寄せた。

「アレクサンダーというカクテルはどうです?」


「アレクサンダー?」彼女は目を丸くした。


「とっても甘いカクテルなんですが、度数がとても高いんです。酒と薔薇の日々という映画の中で登場するんですが、ヒロインが毎日このカクテルを飲んで、アルコール依存症になるっていう話があるんです」


「ふうん、私をアルコール依存症にさせてどうするの?」


 彼女の上目遣いの目が不気味に光る。長い睫毛も妖艶に輝く。

「……私はならないよ。すでにリー君に依存しているから」


 葵の瞳から自分を誘い込むような魔性の力が働いていく。心の中に動揺が走る。


 ……だがさすがに今日は無理だ。


「……奢りませんよ」


 彼は肩をすくめていった。

「最近何のために働いているのか、わからなくなってるんですから」


 さすがに一杯目のカクテルから奢るのはまずい。この間働いた分は全て葵の胃袋におさまったからだ。彼女は居残るため必然的に飲む量が増え、彼が払う日が多くなっていた。


「ばれたか……。じゃあそれをちょうだい」葵は細い指で頬を掻いてへらへらと笑った。


「了解しました。ジンとブランデーがあるんですけど、ブランデーの方が香りがよくなるから、ブランデーの方をお勧めします」


「じゃあブランデーでお願いしよっかな」


 ブランデー、生クリーム、クレーム・ド・カカオを三十mlずつシェイカーの中に注ぎ込み氷に浸し蓋をした。生クリームは混ざりにくいのでなるべく強めにシェイクする。水っぽくならないよう素早くシェイクし終わった後、蓋を開けカクテルグラスに注ぎ込んだ。


 チョコレート色のカカオに生クリームが混ざり、滑らかな栗色に変わっていく。このカクテルは甘さの後にブランデーが喉を熱くさせ、豊潤な香りを残す。


 彼女はグラスに満ちた液体を啜り、テイスティングするように舌で転がしていた。どうやら気にいったようだ。吟味した後、グラスを大きく傾けて口一杯に広げている。


「うん、美味しい。これは本当に何杯でもいけそうね」


「そうでしょ。だから程ほどにお願いしますよ」


 葵は舌を塗らすようにちびちびと舐め、カウンター越しにある囲碁盤を見て指を差した。


「そうだ、リー君。今日はオセロじゃなくて囲碁をしない?」


「そうですね。教えて貰って間もないですが、そうしましょうか」


 リーは二つに折れ曲がった囲碁盤を一枚の板に直し、テーブルの上に置いた。


「今日は十九路盤だね。難しいけど、大丈夫?」


 ――私はまだ九路盤だよ。


 唐突に、少女の声が脳内に響き渡る。


「ええ、もちろんです。大分コツを掴んできましたから」


「リー君は覚えるのが、本当に早いからね。今日は置き碁を教えてあげましょう」


 葵は九つの黒の石を並べ白の石を一つ置いた。石はオセロと同様の磁石でくっつくもので、裏と表が統一されてあるだけだ。


 彼女は置き碁の説明を始めた。


 一言でいえば、実力差があるもの同士で戦うための方法らしい。

 置き碁では白が先攻になり、黒は九つの石を最初に置くことができる。その場所は星と呼ばれ隅を囲いやすいとのことだ。

 そして星の中でも中心にあるものを『天元』と呼ぶらしい。


「天元はね、万物全ての根源のことを差すの」葵は淡々とした口調でいった。「また天皇のことを指すわ。囲碁には七つのタイトルがあるんだけど、この名前が由来の天元戦というものがあるの」


「囲碁の世界にも星があるんですね」


「そうなの」


 葵は碁石を掴んでいった。

「天元は昔、『太極』とも呼ばれていたの。黒と白の石が使われているのは太極図の陰と陽を表しているともいわれているわ。それに四隅が四季を表していて、真ん中の天元を合わせて五元を表しているみたい」


 囲碁は太極図と関係がある。すなわち神道との繋がりがあるということだ。

 その言葉がリーの心を捉えた。再び体温が上昇していくのを感じる。神道を調べれば調べるほど、『四』という数字が大きく関係していく。


「なぜ黒石が先手なんです? 何か理由があるのでしょうか」

 内にある疑問を尋ねてみる。


「時間が関係しているみたいよ」

 彼女はオセロの石をくるくると回して答えた。

「白石が昼で、黒石は夜ね。一日の始まりが真夜中の十二時だから、黒石から始まるみたい」


 彼女はアレキサンダーで口を潤して続ける。


「昔から黒石を掴みたがる人は多いの、ハンデが弱くて黒石を持った方が強かったみたいでね。お父さんも私に黒石を扱わせてくれていたんだけど、私が慣れてからは握らせてくれなかった。あれこれ理由をつけてね、本当に負けず嫌いなの」


 葵の父親の顔を思い返す。確かに融通が利かないような顔立ちをしている。娘に負けることが心底嫌だったのだろう。


「それだけ葵さんが強かったということでしょう」


「そうかもね」


 彼女はにやりと笑った。

「私達の間では黒石は必勝の石だったから、王が持つ石として『皇石』と呼んでいたの。それくらい囲碁の中では黒は強いのよ」



 ――ねえ、知ってる? 黒石は天皇様が持つ石なんだよ。



 皇石という言葉が脳裏で反芻される。閉ざされた記憶に一筋の針が刺さるような感じを受ける。


 ……俺はどこかでこの言葉を聞いている。


「……リー君?」


 彼女に目を向けると心配そうな顔でこちらを向いていた。


「いえ、構いません。続けて下さい」


 葵と何局か対戦した後、彼女は一間空けて、口を開いた。


「……物知りなバーテンダーさん、このカクテルはどうやって作られたんですか?」


「これはですね。イギリスの皇女、アレクサンドリアという方に結婚のお祝いで献上されたカクテルみたいです」


「……ふうん、そうなんだ」


 葵は抑揚のない声で答えた。

「結婚かぁ。さっきの映画の女性はアルコール依存症になってどうなるの?」


「最終的には家庭が破滅します」


「やっぱりそういう映画なんだ……。なんか暗そうだなぁ」


「ええ、あまり明るい映画じゃないんです。だけど面白いのがこの監督、ピンクパンサーなどコメディ映画も手掛けているんです」


「どんな人にも二面性があるのね……」


 葵はグラスを揺らしながらいった。

「コインの表と裏のようにさ」


 葵は目を伏せたままカクテルを飲み干した。その表情にいつもの明るさはない。


「どうしたんですか? 今日は元気がないように見えますが」


「うん……。やっぱりそう見える?」


「少しだけ。何か仕事で失敗したとか?」


「まさか。そんなことしないよ」


「葵さん、もし悩みがあるのなら打ち明けて下さいよ」


 彼女の名前をきちんと呼びながら続ける。

「二人の間には隠し事はなしっていったじゃないですか」


「うん……そうね」


 彼女は再び大きな溜息をつき、意を決して言葉を述べた。


「実はさ、九月に入ったら宮崎に行こうかと思っているの」

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