第二章 朱夏の『絢』雨 PART9

  9.


 静寂が部屋を飲み込んでいく。


 葵は深呼吸した後に再び話し始めた。


「私のお父さんは本当のお父さんじゃないけど……血の繋がりがなくても……私の中では本当のお父さんだよ。その気持ちは家族が共有するものだと私は思ってる」


 リーの顔に歪みが生じていた。何か声を掛けなければと思っているのだろう。だが彼は黙ったまま、葵の言葉を待っていた。


「私の中で、リー君に対する気持ちはお父さんに対する気持ちとは全く違うわ。なんだろう、一言でいってしまえば気になるの、全部」


 彼女は思いの丈を全て彼にぶつける。


「あなたがどんなことが好きで、どんなことが嫌いで、どんな言葉で表情が変わるか、どんなことで喜んでくれるかって細かく知りたいの」


 彼は顎に手を置いて彼女を見つめていた。その姿を見ながら話を続けていく。


「リー君は考える時よく顎に手をのせて、唸るような声を上げているわ。そんな些細な仕草でも一つの発見になって、私の心は少し軽くなるんだ。付き合い始めて四ヶ月しか経っていないけど、新しい発見があるたびに私は君のことをさらに好きになれるの」


 リーの顔は綻んでいた。きっと彼女の言葉が届いてるに違いない。


「リー君はそういうの、ない? 毎日同じじゃないでしょ? 小さなことでもいいから何か変化はない?」


 リーは顎に置いた手を離し、唸り声を上げた。


「うーん、そうですね。葵さんが笑った姿を見ると、その日は心が軽くなりますね」


「え、どういうこと?」

 さっぱり意味がわからなかった。


「付き合うっていうのが今でもよくわかっていないんです。それで僕の中では何かがぐるぐるといつも回っています。だって付き合うということは何かをしなければいけないということでしょう?」


 リーはグラスで口を潤して続けた。


「僕は葵さんに喜んで貰いたい。だからそのことをいつも考えています。それが達成された時に一日の日課が達成されたなって感じるんです」


 ……そういうことか。


 葵は妙な引っ掛かりを覚えたが、納得することにした。いつも何やら難しく考えていることは全て私のためだというのか。目の前にいるのに彼のことがさらに愛おしくなる。


 だけど……それは少しずれている。


「意味はわかるけど、それは間違っていると思うわ」


「間違い?」

 リーはぽかんとした表情になった。


「うん。だって、私もリー君に喜んで貰いたいんだもの」


 彼女は彼に伝わるように心を込めた。

「リー君がそれで悩んでいるということが私の悩みになるの。だからあなたがそんな風に悩まないことが、私にとっていいことなの」


 合点がいったようでリーの表情が軽くなる。

「確かにその通りですね。じゃあ僕はどうしたらいいんでしょうか?」


「……リー君も幸せになる道を考えないといけないわね」


 彼女は彼の右手を掴んで自分の胸に当て、自分の右手を彼の心臓に置いた。


「こうするとお互いの心臓の音が聞こえるでしょ? 触らないとお互いの心臓の音は聞こえない。それは一人で考えたってわからないってことよ。だからこういう時は二人で話をしましょう。付き合うってことは二人の幸せを考えることなんだから」


「……なるほど」


 彼は冷静に頷いた。

「それもそうですね。じゃあ僕が葵さんに思っている気持ちは愛情で間違いないと思います」


「ん? どうして?」 


「葵さんと同じくらい僕も、葵さんの全てが知りたいから」


「……ほんとに?」


「……ほんとに」


 葵は長く吐息を吐いて、意識を空にしてみた。やっぱりリーになら全てを聞いて欲しい。慎重に言葉を選んで思いを告げよう。


「……私のお母さんね、宮崎の人だったみたい」


「宮崎っていうと、葵さんが大学にいっていた所ですか?」

 リーの声は裏返っていた。思いもよらないことを聞いたように、表情が固まっている。


「そう、天岩戸神社っていう神社の巫女さんだったみたい」


「なるほど、それで宮崎の大学に……」


 再び選択に迫られる。これ以上話していいか迷ってしまうが、やはり話すべきだと心がいっている。


「アマテラス様を祀る神社は日本にたくさんあるけど、大きな所で三つあるの。伊勢神宮、熱田神宮、それに天岩戸神社。これは前いったわね」


 葵は唇を舐めた。

「代々、その宮司に選ばれる子にはその神社の色がつけられるの。勾玉と同じ色がね」


「色、ですか?」


「うん。私の名前は葵、青っていう色が入っているでしょ?」


 彼女は胸にある勾玉を取り出していった。

「伊勢神宮の子には黒、天岩戸神社には白を意味する言葉が入るんだって。それはね東西南北の四神が関係しているの。そしてこれは季節を表す神様でもあるの」


 青龍には東が来て春、朱雀には南が来て夏、白虎には西が来て秋、玄武には北が来て冬が来る。

 全てに色が入り全てに季節が含まれる。


「もしそれでいくと、茜さんには赤という字が入っているので理には叶いますね」


「うん。だけど出雲大社がなぜ選ばれているかはわからないわ。アマテラス様が祀られていないのに変よね」


「確かに」


 彼は無言で首を縦に振っている。

「アマテラスの親族ではありますが、アマテラス自身は祀られていませんでした」


 葵は頷いてから、再び自分の話をし始めた。


「……私ね。きっと『葵』って名前じゃないと思うの。熱田神宮の娘じゃないから」


 リーの顔が一気に豹変する。無表情を装っているが本心では驚いているに違いない。


「今のお父さんには子供ができなかったみたい。それで私が養子として熱田神宮にいったの。だから私には本当の名前があると思うのよ」


 重い沈黙が流れ始める。


 せっかくいい雰囲気だったのに、結局自分が壊している。


 葵は心の中で舌打ちした。

「……ごめんね、いきなりこんなこといわれても困るよね」


「すいません。困ってはいないんですが、驚いて戸惑っています」


 リーは大きくかぶりを振る。

「それで宮崎に行ってお母さんには会えたんですか?]


「ううん。結局会えなかったの。いや違うわね、勇気がなくて行けなかったの」


「そうですか……」


 再び暗闇が音を吸い込み始める。冷蔵庫のじりじりと燻る音も、クーラーの風の音も、波の音も全てが掻き消されている。ただ、沈黙だけがじんわりと佇んでいる状態に入った。


 雰囲気を壊したことで再び自己嫌悪に陥る。今、話すべきことではなかったのに。憂鬱な気分が心に浸透していく。


「……じゃあ、今度一緒に行きませんか?」


 沈黙を破ったのはリーの声だった。


「えっ?」


「僕も葵さんのことが知りたいとさっきいいましたよね?」


 彼ははっきりとした口調でいった。

「二人で道を決めるんでしょう? 一人じゃなくて二人で行けばいいんです」


 そういって彼は葵の体を抱きしめてきた。彼の体温が再び彼女の体にそっと染み込んでいく。


「二人で決めましょう。一人じゃわからなくても、二人でならわかるかもしれません。さっきそういったじゃないですか」


「……リー君」


 気がつくと、葵の方から口づけを交わしていた。リーの唇は潤っており熱かった。彼の心臓音は先程と変わらず規則正しかったが、心地いい。暖かい液体に満たされたように体が緩んでいく。


「ありがとう、リー君」


「好きですよ、葵さん」


 彼の愛の言葉が二人の境界線をゆっくりと崩していく。


 息苦しいほどの静寂の中で、二人はお互いの心臓の音を確かめるようにぴったりと重なった。


 葵は二人の繋ぎ目がなくなるように祈りながら彼に身を任せた。

 リーが果てた後、葵は同じベッドで体を近づけた。


「……リー君、まだ起きてる?」葵は小さく呟いた。


「……起きてますよ」


 彼の声を確認して、彼女はベッドから起き上がった。昼間に買った二つの勾玉を鞄から取り出す。


「……私が買うのもおかしいんだけどさ、これ買っちゃった」


 勾玉のストラップを見せると、彼は眠そうに目を擦りながら微笑んだ。


「可愛いですね。白と黒の勾玉ですか?」


「うん。これね、くっつけることができるんだって」


 そういって彼女は袋から取り出して、二つの勾玉を繋げた。勾玉はぴったりとくっつき、太極図のような一つの球体を作った。


「これも……一つの恋ですね」


「えっ。どういうこと?」

 さっぱり意味がわからない。


「太極図がですよ」


 彼は嬉しそうに微笑んでいった。

「始まりと終わりがあるのに、決して最期がないもの。これはまさに恋だと思います」


 彼は淡々と持論を続けた。


「恋は二人が重なることを意味します。だけど、二人は同じ色には染まりません。自分の色は変わらないからです。一つになりたいのに、永遠に叶うことはない、これも一つの恋ではないでしょうか」


「なるほどね」


 葵は感心して思わず唸り声を上げた。

「繋がっていても、同じ色には染まらないか……。リー君にしては中々詩的なことをいうわね」


 そういうと、リーは頭を掻いて苦笑いした。


「……柄じゃないことをいいました」


 彼は葵を腕の中に包み込んだ。

「でも、だからこそ、思いを伝えようとする意思が生まれると思います。同じ色に染まらないからこそ愛の言葉がある。ずっと一緒にいたいという思いが持続する。僕はずっと葵さんと一緒にいたいです」


 心臓が再びどくんと脈を打った。

 どうして彼はこう、私の心を滾らせるのが上手なのだろう。


「私もよ」


 葵はまっすぐに彼を見ていった。

「同じ色に染まらなくていい。ずっとリー君の側にいたいよ」


「じゃあもう一回、します?」


 リーは細い声で葵の耳元に囁いてきた。熱い吐息だった。そのまま耳まで溶けそうなくらいにだ。

 葵は無言で彼の背中をぎゅっと掴んだ。



 目が覚めると、言葉を掻き消していた闇は消え去っていた。目の前には身を焦がすような光が窓から降り注いでいる。


 今日も一日、リーと一緒にいられる。


 そう思うだけで葵の心は瑪瑙の勾玉のように再び高鳴っていた。

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