第二章 朱夏の『絢』雨 PART8

 8.


「うーん……」

 リーの顔をちらっと見ると、目を閉じて何かを考えているようだった。


「少し時間を下さい」


「……うん、いいよ」


 グラスを傾けながら彼の答えを待つ。波の音が再び流れてゆく。


「答えて……いいでしょうか?」


 彼の真剣な瞳にはっと我に返る。


「うん、いいよ。お願いします」


「もし一年に一度しか会えなくなったら……葵さんを退屈させないように一年分の手紙を用意します」


「一年分の手紙?」予想外の答えだった。


「だって一年間に一回しか会えないのなら、その間とっても退屈でしょう? だから他の364日、退屈させない方法を考えます」


「……そっか」


 自分の心が落ち着いていく。

「リー君って面白いね。そうか、そういう考え方もできるのか……」


 リーは振り返って首を傾けている。

「何か、おかしなことをいったでしょうか?」


「んーん、そうじゃないの」


 葵は笑いを堪えながらいった。

「私の中では一日に一回しか会えないってことを変えようとするんじゃないかなと思ったわけ。それを受け入れて、その中で相手の幸せを望むなんてすごく、リー君らしいなって思ったの」


 それでもリーは納得していないようだった。頬を膨らませて反論している。

「条件を出したのは葵さんですよ? 条件を変えようとするなんておかしいじゃないですか」


 彼の怒った顔がまた自分の心を捉えてしまう。無邪気な心に自然と心温まってしまう。


「……葵さんなら、どうします? 僕と一年に一度しか会えないであれば」


「……そうね」


 葵は宙に視線をやりながら、ぼんやりと考える。二人が出会うためには星空に掛かる橋が必要だ。自分ならどうするだろうか。


「神様を欺いて逃避行するかな」


「どうやって逃げるんですか? 川を渡る橋はないんですよ」


「橋はないけど川で繋がってるじゃない」


 葵は力を込めていった。

「二人で時間を決めて川に入ればずっと一緒にいられるよ」


 葵はすくっと立ち上がって天の川を見た。それは天に掛かる橋のように無数の星の点が線となり、暗闇に一筋の道を作っていた。


「七夕の日にリー君と同じで手紙を渡し合うの。その後に別の日に飛び込むっていうのはどう? 決して二人にしかわからない暗号を使って日程を決めるの」


 リーはぽかんとした顔で口を開けている。そんな発想は思い浮かばなかったという顔だ。


「……流れる先は同じというわけですか。確かに一つのやり方だ」


 リーは再び顎を擦り始めた。慌てて彼女は彼の思考を中断させる。


「別に一番いい方法を探そうってことでこの話題を出したわけじゃないのよ。ただリー君の愛を確かめたかっただけ」


「何で、ですか?」


 彼はきょとんとした表情になっている。

「僕は葵さんのこと、好きですよ」


「もちろん、それはわかってるつもりだけど……」


 彼女は目を反らしていった。

「……その……まだ、してないじゃない」


 鈍感なリーでもわかったようだ。彼もまた彼女から目を逸らしシャンパンをがぶ飲みしている。


「女の子っていう年じゃないけど、こっちからこんなことをいうのは恥ずかしいんだからね」


 彼女はそういって自らで熱を作り出していた。今にも噴火しそうな灼熱が腹の奥底から沸き立っている。

「だから、その…………察して」


 彼女の思いが通じたのか、彼は真っ赤に染まった手を葵の方に向けた。力ないままリーの方に引き寄せられる。


 葵はそのままリーに体重を預けることにした。


「やっぱり体を重ねることが、一番愛を感じることに繋がるのでしょうか?」


 リーの体温が葵の中に流れていく。若干酒の匂いもするが、体温と共に彼の匂いも染み込んでいく。


「私にもわからない。でも体を重ねることは恋人同士でしかないじゃない?」


「まあ、そうですけど」


 リーは遠くを見つめながら何かを考えているようだった。


 葵は彼が話し始めるまでゆっくりと待つことにした。


「実はですね……僕には両親がいません」


 リーは丁寧な口調でいった。

「五歳の頃までいたんですが、事故で亡くなりました。それからは施設に預けられ生きてきたんです」


 何となくリーの境遇は察していた。彼の発言には所々に闇が伴っていたからだ。しかしこの場で告白されるとは思っていなかった。彼が家族の話題を拒否しているような感じがあったからだ。


 彼女は恐る恐る尋ねることにした。


「そうだったの……。お父さんは日本人だったのよね? なぜ中国に?」


「はっきりとしたことはわかっていませんが……」


 リーは目を伏せたまま答えた。

「父親は神主をしており熱心な神道家だったみたいです。だからこそ日本を離れる理由がわからないんです。もしかすると何かまずいことがあって、日本を離れなければいけなかったのかもしれません」


 父親は何かを知って消されてしまったのではないか、自分が誇りに思っている神道に何か黒い部分があるのではないか。


 リーは神妙な顔をして、そう付け加えた。


 葵の腕には夏場にも関わらず鳥肌が立っていた。いいようのない冷ややかな空気が辺りを漂っている。


「僕自身、内宮には隠蔽された神がいるんじゃないかと思っています」


 彼は冷徹な声で述べた。

「外交官になりたいというのは名目上で、本当は父親の真相を辿るため日本に留学してきたんです」


 父親の真相を調べるために日本に来ていたのか、リーの神話への異常な関心を裏付ける内容だ。


「なので、今でも一つだけわからないものがあるんです」


 リーは窓の方を眺めながら続けた。

「……愛情です。葵さんと一緒にいたいという気持ちは確かにあります。でもそれが愛情なのかはわかりません。だって一緒にいたいという気持ちは家族でも持てるものですから」


 葵は息を呑んだ。胸に突っかかっていた思いが音を立てて崩れていく。それで彼は他人行儀な所があったのか。


 純粋な告白に心を打たれる。今なら自分のこともいえるかもしれない。


「そっか。リー君にも家族がいなかったんだね……」


 葵は一瞬息を殺して唾を飲み込んだ。


「……実はね、私もそうなの。今のお父さんは私の本当のお父さんじゃないんだ」

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