第二章 朱夏の『絢』雨 PART7
7.
波の音が穏やかに鼓膜から染みこんできた。空を眺めると満天の星空が留まっている。まるでホロスコープがそのまま天に掛かってあるようだ。海沿いのホテルを選んで本当によかったなと葵は思った。
目の前にはシングルベッドが二つ、一つの壁を作るような距離をとって並べられていた。彼にはダブルベッドでも構わないといったのだが、きっと気を使ったに違いない。
ホテルも彼と同じく気を効かせており、照明は仄かについているだけで薄暗かった。
「いいホテルだねぇ」
「やっぱり値段の分だけ凄いですね」
リーを手でこまねくと、おどおどしながら彼女の隣にやってきた。
「名古屋で見る星とは全く違うね」
「本当に綺麗ですね、何だか故郷を思い出します」
そういってリーは嬉しそうに星を眺め始めた。
「リー君、あそこに北斗七星があるよ。やっぱり夏場でも見えるんだなぁ」
「ええ、年中見れる星ですからね」
「茜ちゃんが五行思想の説明をしたじゃない? 五行には木、火、金、水、土があると」
「ん? 確かにそんな話を聞いたような気がします」
「それにね、日と月を加えると七つの星になるでしょ? 神道ではこの七つの星を合わせて北斗七星というの」
リーは興味深そうに星を見つめた。
「なるほど、神道でも星は大事に扱われているんですね」
「うん。そうなの」
北斗七星を眺めた後、リーは天の川がある方向に指を向けた。
「葵さん、次はこっちを見て下さい。春には三角形の星があるといいましたが、夏にもあるんですよ。こちらの方が有名ですから、ご存知だと思いますけど」
そういって彼は天の川に掛かっている星を指差した。今夜のリーも絶好調だ。星の話になると饒舌になる彼は何度も息つぎをしながら葵に語りかけてきた。海の奥深くに潜り込む様に何度も呼吸を止めながら。
「こんなに晴れた星空が見れるのは実は珍しいんです」
彼は雲ひとつない空に視線を向けたままいった。
「七夕の日は半分の確率で雨なんです。それにちなんで七夕の日に雨が振ることを催涙雨(さいるいう)と呼ぶんですよ」
もちろん事前に予習している。だが敢えてリーに質問することにした。
「なぜ催涙雨と呼ぶの?」
「催涙雨というのは織姫と彦星の流した涙と呼ばれています。雨が振れば二人は会うことができませんからね」
「そっか。一年に一度と決められていても、会うことができないなんて切ないね」
「そうなんです」
彼はがっくりと肩を落とした後、すぐに朗らかな表情に戻った。
「さあ、気を取り直して一等星のアルタイルから望遠鏡で見ましょうか」
……え?
予想外の言葉が部屋にこだました。葵の予定ではそろそろ、二人の時間を共有しようと思っていたのだが……。
「……リー君。まさかここにまで望遠鏡持って来ていたの?」
リーは胸をぽんと叩いた。「もちろんです。今日こそ絶好のチャンスじゃないですか」
彼女の中で何かが音を立てて崩れていく。まさかこのまま、夜を過ごして別々の布団で寝て終わりになるのではないだろうか?
「リー君、それもいいんだけど。せっかく泊まるんだしさ、もっとゆっくりしない?」
そういうと、リーは申し訳なさそうな顔を作る。
「そうですね、すいません。長旅で疲れも溜まってますよね。ちょっとゆっくりしましょうか」
冷蔵庫を開けてみると、ビールからシャンパン、普通のホテルとは一味違う種類の酒が入っていた。ビールも様々な種類が入っており、彼が好きな黒ビールまである。グラスもシャンパングラス、ビアグラス、カクテルグラスとお洒落なグラスがそれぞれ対で置いてある。
「リー君、ギネス好きだったでしょ? せっかくの旅行なんだから一緒に飲もうよ」
「そ、そうですね。あ、でもジンジャエールなんかどうですか?」
「えっ? なんでジンジャエール?」葵は顔をしかめた。
「せっかく神社に行ったんですから、神社のビールで乾杯するのもいいでしょう?」
葵は大きく溜息をついた。リーに聞こえるようにだ。
「……リー君、それは掛詞じゃなくて、ただの親父ギャグよ」
「親父ギャク? 掛詞にはならないんですか?」
「なりませんっ」
ぴしゃりというと、彼は萎縮して身を丸めた。
……まったく、せっかく雰囲気のいい場所にいるというのに台無しだ。
目の端でリーを睨むと、びくっと体を震わせている。
……そんなに怯えなくてもいいのに。
彼の姿を見て彼女は笑いを堪えることができなくなっていた。すでに怒りはおさまっているというのに彼の動きはぎこちない。
「はい、どうぞ」
瓶の蓋を開け二つのグラスに注いで彼に手渡す。作り笑いを浮かべ怒っていないことをアピールする。薄暗い中でも黒ビールは少し濁った泡をぷくぷくと噴出しながら鼈甲(べっこう)色を作り上げていた。二人で乾杯すると、彼は一気に飲み干した。
「美味しいですね、すぐに酔っ払ってしまいそうですが」
「そうね。たまには酔っ払った方がいいよ、リー君は」
葵は目を細めて彼を睨んだ。
「何でですか?」
リーは意味がわからずぽかんとしている。
「……そういう所がよ」
彼女はグラスに口をつけてからいった。
「いつも真面目な顔してて疲れない? ちょっとは息抜きも大事よ」
「そう、ですかね」
リーは頭を掻きながらおかわりを自分で注いでいる。下戸といっていたが意外にいけるのかもしれない。
「リー君、飲めるじゃない」
「もちろん一本くらいは飲めますよ」
彼はぼんやりとした口調でいった。
「ああいった場所で一度飲めるといってしまえば、毎日浴びるように飲まないといけないですからね。マスターがいい例です」
マスターの姿を想像すると、彼のいうことに納得した。客がいない時は冷静沈着なのだが、一度飲み始めると文字通り、浴びるように飲んでだらしない顔をしている。
確かにリーにはあんな姿になって欲しくない。
彼は学校に影響が出るため、あえて下戸で通しているということだった。
「もちろん葵さんと賭けている時だけです。一杯飲むのは」
「……何で私だけだったの?」
彼女の発言が彼を硬直させていた。リーは口を滑らしたといった表情になっている。その仕草を葵は見逃さなかった。
「ねえ、どうして?」
「それは……葵さんに気があったからに決まってるじゃないですか」
心臓がどくんと高鳴った。付き合って初めて彼が見せる積極的な態度だった。酒が入ると、どんなに冷静な男でも舌が回るらしい。
「もちろん、デートに誘ったのだって、葵さんに気があったからです。ああでもしないと、僕は誘えないんですよ」
「そっか……」
ちらりと彼を一目見る。
「嬉しいよ、ありがとう」
葵はリーの顔を見て理解した。ビール一本で真っ赤になっている。いまにも首筋から湯気がでそうだ。
おそらく飲めないというのは本当だろう。それでも今は自分のために飲んでくれているのだ。そう思うと、それ以上咎めることができなくなっていた。
「いいのよ。飲めなかったら残していいからね」
「いえ、今日くらいは飲ませて貰いますよ」リーはビアグラスを空にした後、すくっと立ち上がり冷蔵庫に向かった。
「葵さん、まだ飲めますよね? 実は葵さんに飲んで貰いたいカクテルがあるんです。シャンパンを開けてもいいですか?」
「えっ?」
彼女は目を見開いた。
「ここにはカクテルを作る道具はないけど、できるの?」
「ええ」
彼は自信を持って答えた。
「バーテンダーとしての腕さえあればできるカクテルがあるんです」
「うん、じゃあお願いしようかな」
彼女の了解を聞くと、彼は細長いカクテルグラスを取り出し、シャンパンと先程の黒ビールの残りを同時に注ぎ込んだ。
一瞬にしてグラスは満たされ、グラスの中に光のグラデーションが描かれていく。上の方では黒ビールの黒檀色がくろぐろと輝き、下降するにあたって月色に変わっていく。まるで光と闇で作られたようなカクテルだ。
「……凄い綺麗。なんていう名前のカクテルなの?」
「ブラックベルモットというカクテルです」
彼は両瓶を置いて答えた。
「自分でいうのもなんですが、これを作るのは中々難しいんです。どちらも炭酸ですからきっちりと同じ量を入れないと美味しくないんです」
簡単そうに流し込んでいたが、やはり難しいのだろうと彼女は思った。全く同じ瓶であれば力加減は同じですむが、どちらの瓶も大きさも異なれば口径も違う。それに垂直に立てたグラスにビールを入れるだけでも難しいだろう。
「そうよね、お見事でした」
彼女が手を叩いて褒め称えると、彼は満更でもないような顔をした。普段の彼からでは伺えない表情だ。
「さあ、早く飲んで下さい。泡が消えてしまいます」
「そうね、じゃあ頂きます」
ぐいっとグラスを傾けると、黒ビールの苦味の後にシャンパンの芳醇な後味が残った。さっぱりとした喉越しの後に仄かに香るシャンパンの香りがなんともいえない。
「……美味しい。なんかバランスがいいカクテルね。お互いの長所が上手く生かされている感じ」
「そうなんです」
リーはにっこりと笑った。
「このカクテル、決して混ざり合わないと決め付けられた中で、できたカクテルなんです」
「決して混ざり合わないか……」
再びグラスを眺める。
「なんだか太極図みたいね。お互いが共存できない関係みたい」
「そうですね、まさしくその通りです」
私達の関係はどうなんだろう、と葵は思った。リーは超がつくほど真面目だ。その姿は夜空に浮かぶ星のように明るい。それに比べて私は……。
波の音が再び耳元に流れてくる。二人が無言になったため、周りの音が余計に響いてしまう。リーの背中に寄りかかり体重を彼に預ける。彼はびくともせずシャンパンをちびちびと飲んでいる。
「……ねぇ、リー君」
葵は彼に聞こえるようにはっきりといった。
「もし私と会うのが一年に一回だけになったらどうする?」
「そうですね……。どうしましょうか?」
冗談と受け取っているのか、彼の表情は明るい。
だがここは本気で答えて欲しい。彼の思いをきちんと彼の声で訊きたい。
「……ねえ、リー君ならどうするの?」
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