第二章 朱夏の『絢』雨 PART5
5.
躑躅(つつじ)色に染まった空が口を開けて夜の闇を吸い込んでいる。空の色は日が落ちるにつれて青さを増して菫(すみれ)色に変わっていく。旅行中の空の景色はいつも見る空より鮮やかさが増しており、綺麗だ。
夜空を見上げながら葵は茜がいっていた蕎麦屋で出雲蕎麦を頼んでいた。
「茜ちゃん、大丈夫かなぁ。やっぱり正殿の鍵なんて簡単に手に入らないよね」
リーは相槌を打ちながら蕎麦を啜っている。どうやら口に合うらしく、椀子蕎麦のように何度もおかわりをしている。
彼の蕎麦を食べ終わると同時に、茜は勢いよく葵のテーブルに足を運んできた。
「遅くなってごめんね」
茜は嬉しそうにたくさんの鍵がついたキーホルダーを回した。
「どう? 美味しかったでしょ? ちゃんと例のものは調達してきたよ」
「ほんとに持ってこれたの? 駄目だったんじゃないかと思ってた所よ」
茜は息を切りながらも続ける。
「私も駄目かなぁと思ったんだけどね。お父さんが出掛ける用事があるといって、どこかにいっちゃったんだ」
葵も食べ終わった後、三人は外に出る支度をした。目指すは夜の出雲大社の正殿だ。もちろん夜に進入するのは宮司の娘の茜でさえ、ご法度である。
菫色の空は闇を吸い尽くし漆黒の空に変わっていた。この一体は明かりが少なく、星が燦然(さんぜん)と輝いている。今日の夜は綺麗な星空が見えそうだなと葵は夜の星に思いを馳せた。
しかし今は正殿に侵入しなければならない。気を張って茜の後に続く。涼しい風が体を吹き付けているが、体中から冷たい汗が流れ出ている。自分はいけないことをしているという意識があるからだろう。
前にいるリーの袖を掴むと、彼は涼しい表情で振り返っていた。彼の顔には好奇心しか映っておらず、体にも表情にも動揺の色は見られなかった。よほど肝が据わっていると感心する他ない。
茜は本殿の錠を難なく外し中に踏み込んだ。本殿の奥にはオオクニヌシが祀られている宮が建っている。新しく建てられただけあって檜の香りが一層強く漂っている。辺りを見回してみたが、特に椿らしい白色を帯びた木は見当たらない。
「この辺りには榊
さかき
しかないね」声を上げると、茜が続いた。
「うーん、やっぱりただの空想の話だったのかな」
「茜さん、宮の中はどうですか?」リーは冷静な声で告げる。
「宮の中?」
「木が植えられているのではなく、花だけ飾られているのかもしれません」
「なるほど、そういう考え方もできるね」
三人は無言で手を合わせ、頭を下げて宮の中に入った。
宮の中は静謐な闇に覆われていた。踏み込むことさえ躊躇させる空気がある。しかしここまで踏み込んだからには背に腹は変えられない。恐る恐る一歩一歩踏み込んでいく。
すると、そこには両端の榊に囲まれて一輪の花が仄かに赤い光を発していた。
「ねぇ。あれじゃない?」葵は二人に聞こえるような声で叫んだ。「茜ちゃん。あそこ見て」
彼女は葵の視線の先を見た。呆然と光を放っているものに目を奪われている。「本当だ……光ってる、伝説じゃなかったんだ」
「……うわぁ、綺麗ですね」
リーは甲高い声を出した。だがその瞬間、眉間に皺を寄せて何かを考えるような顔になった。前回のように花に近寄る様子はない。
「リー君。どうしたの?」
「…………いえ、何でもありません」
しばらくして彼は顎を擦りながら目を閉じていた。
「そういえば、茜ちゃん。お父さんから勾玉とか貰ったことある?」
「ん? これのこと?」
茜は胸から勾玉を取り出した。勾玉は赤椿に反応するように暗闇の中で赤い色を吸い込み始めた。
「わっ、なんか少しだけ光っているように見えない?」
リーは目を見開いてその光に視線を移している。
「茜さん、この勾玉はいつも夜に光っているんですか?」
茜はぶんぶんと首を振った。
「ううん、光ったのなんて初めて見たよ。これね、おじいちゃんから貰ったの。瑪瑙って呼ばれる石で出来ているみたい。元から赤い石なの」
「え、これ瑪瑙で出来てるの?」
瑪瑙。三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉の瓊の部分が瑪瑙を表していたと葵は反芻した。
「これは本当に瑪瑙で出来ているんですか?」
リーの目も血走っている。放っておけば、そのまま茜に喰らいつきそうだ。
「うん、そうみたい。瑪瑙ってことがそんなに大事なの?」
リーは顎に置いた手を外した。表情は柔らかく何かを納得しているようだった。
「……なるほど。そういうことか」
「どうしたの? リー君」
葵はリーの顔をまじまじと見つめた。リーの顔はいつもの穏やかな表情に戻り口調にも冷静さを取り戻している。
「ここで話すのはまずいですね。先にここから出ましょう」
「そ、そうね」
茜と同時に同意した。
「神様の眠りを妨げたら罰が当たるわね。花も確認できたし、出ましょうか」
リーの提案により三人は逃げるようにして来た道を戻り出雲大社を出ることにした。幸い騒ぎになるような事態にはなっていない。
「はぁ、はぁ、まだ心臓がバクバクいってる……」
茜は興奮し顔を真っ赤にしていた。
「こんなことやっちゃいけないってわかってるのに、いざやってみると癖になりそうな快感があるなぁ」
「茜ちゃん」
葵は子供を宥めるような声でいった。
「そそのかしたのは悪いけどこれっきりにしようね」
息を整えようと深呼吸を繰り返す。だが中々落ち着かない。
「うん、もちろんわかってるよ。こんなこと何回もできないよ」
彼女の返事を聞いても心臓の高鳴りは止まらない。神社に勤めている身だからこそ事の重大さを思い知ってしまう。
大丈夫、入った形跡が残るようなことはしていない。あったとしてもそれは宮司にしかわからないはず。後は茜に任せるしかない。
葵と茜が呼吸を整えている間に、リーは再び顎に手を置いていた。すでに息を整えており再び何かを考えているようだ。
「リー君、さっき何か閃いたような顔していたけど、何がわかったの?」
「伊勢神宮に祀られている本当の神様ですよ」
「えっ? どういうこと?」
茜と同時にリーを見つめた。
「先程、茜さんが仰ったじゃないですか。神有月には全ての神様が集まる。つまりアマテラスも合わせた全ての神様がここに集まるんですよね」
「うん。でもそれが何の関係があるの?」
葵はできるだけ冷静にいったつもりだった。だが言葉の端に少し棘が出てしまったようだ。リーは萎縮したように声のトーンを下げた。
「……すいません。憶測でものをいっています。気を悪くしないで下さい」
葵も頭を下げて謝った。
「ごめんなさい。別に私も責めてるわけじゃないの。ただ、どういった考えがあるのかなと思って」
茜がまあまあと両手を広げてお互いを宥めようとする。確かにここで感情を昂ぶらせてはいけない。
「それで、リーさん」茜はリーを見つめていった。「話の続きを聞かせて下さい」
リーはわかりましたと呟き、話を続けた。
「隠蔽された神が他にいるという考えがあるといいましたが、多分これはアタリです」
リーは冷静に答えた。
「隠蔽された神、それはスサノオの血筋にあたる者だと思います」
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