第二章 朱夏の『絢』雨 PART1

  1.


「ねえ、リー君。ほら見て、紫陽花(あじさい)がたくさん咲いてるよ。綺麗だよ」


 葵は窓の景色を眺めながらいった。

「この天気なら今日もまた星が見られそうにないね」


「そうですね。でもこの感じは嫌じゃないですよ」


 リーは手に持った鉛筆を回しながら答える。

「日本の梅雨はじめじめとしていますが、この花を見れば風流に感じてしまいます。不思議ですね」


 牡丹(ぼたん)色と藍(あい)色の紫陽花が雨に打たれ震えている。今の時期はどこを見ても紫陽花が美しい。


「うん、でも来月は晴れて貰わないと困るけどなぁ」


 今日はリーの部屋で旅行に行く計画を立てていた。二人の目的地は島根にある出雲大社(いずもたいしゃ)だ。


 出雲大社には大黒様で親しまれている大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)が祀られている。大国主大神とはアマテラスの弟・スサノオの祖先といわれ土地を仕切る神様で有名だ。また縁結びの神様でもあり、カップルに人気があるスポットでもある。


 今回の旅路はレンタカーを借りて行くことになっている。交通手段があまり発達しておらず、車なしでは不便だからだ。リーも運転免許を持っているので交代で運転しようという話になっている。


 リーとは週に一度、彼の部屋で会っていた。サンライズと名がついているが、日当たりはよくないアパートだ。どうやら家賃が圧倒的に安かったのでそのまま決めてしまったらしい。


 彼の部屋は無愛想でほとんど物がなかった。目に入るものといえば窓際にある天体望遠鏡くらいのものだ。晴れている日は二人で北の星空を眺め、彼と知識を共有しながら星の観察に没頭した。


 彼は酒を作るのが得意だが、料理はほとんどできなかった。それがまた葵の見せ場を作ることになった。彼の部屋にはガスが通っているので一通りの料理はできる。葵が得意としている料理に彼女お手製の味噌を加えると、彼は喜んで食べてくれた。その表情がまた子供っぽく自分の心を掴んで離さない。


 しかし不満はある。付き合ってから三ヶ月が経つというのに、彼は自宅まで送ってくれるだけだった。その度に心の中ではストレスが積もり積もっていく。


 もちろんリーの気持ちもわかる。彼はきっと自分を大事に扱ってくれているのだろう。


 彼は葵が思っている以上に真面目な人間だった。何をするにしてもまず論理から考え、物事の全体を捉えてから行動に移している。考える時には顎を擦り、どこか遠い所を見るように目を細める。その姿が最初気取っているように見えたのだが、彼がごく自然にやっている所を見ると、自分だけが知っているのではないかと優越感に浸れてしまうくらいにまで惚れていた。


 ……それでもリーともっと親密になりたい。


 その考えが膨張するばかりで今にも破裂しそうな状態にある。自分ばかりの気持ちが強いというのもなんだか悔しい。


 そこで今回の旅行だ。ようやく彼と一線を越える日が見えた。確実にリーの心を繋ぎ止めようと心に誓う。


「葵さん、一泊するのであれば出雲大社の他にもう一つくらいなら観光名所に行けますよ。最近世界遺産になった石見銀山とかどうです? 日本庭園で日本一になった足立美術館っていうのもありますよ」


「んーん、私は出雲大社に行けるだけで十分よ」


 未だに敬語のリーに戸惑う。彼とは自分と二つしか変わらないのにだ。彼の国では年上を敬うのは当然らしい。


「私はリー君とのんびりできる時間が多い方がいいわ。忙しいと回ることに捉われちゃって、楽しめないってこともあるしさ。それに……」


「それに?」


「計画の予定では七夕の日なんでしょ? だったら、出雲大社の後は星が見れる所に泊まろうよ」


「……わかりました」


 彼は微笑しながら予定していたホテルに二重線を引いた。

「それじゃ泊まるのは海岸の方にしましょう。七夕の日となれば値段は張るかもしれませんが、いいですか?」


「うん、もちろん」


 葵は即答した。

「泊まりがけの旅行に行くのって初めてなの。楽しみだなぁ」


「そうなんですか?」


 リーは戸惑ったような声で葵に尋ねてくる。

「御家族で旅行などには?」


「お父さんが宮司だからね。子供の頃、旅行なんて行ったことがなかったの」


「そうなんですか。失礼ですが葵さんは他の方とお付き合いしたことはないんです? 他の彼氏さんと旅行に行ったりしてないんですか?」


 彼氏、という言葉が葵の心を動揺させた。リーが彼氏になっているというニュアンスを含んでいたからだ。付き合っているということを言葉にされると何だか照れくさい。


 葵は俯きながら答えることにした。


「……一人だけ。大学の時にね。でもリー君みたいに厳密に付き合うって公言した相手じゃなかったな。この年でいないのは変でしょ」


「別に変だとは思いませんけど」


 彼は真剣な表情を見せながらいった。

「葵さんは宮崎の大学に行ってたんですよね? どうしてわざわざ遠い場所を選んだんです?」


「と、特に理由は無いよ」


 葵は戸惑いながら否定した。今ここで話したら重い話になりそうで怖かったからだ。

「九州の方に行きたかっただけ。そういうリー君こそ何人と付き合ってきたのよ?」


 リーはゼロです、とぴしゃりといった。


「僕は葵さんと付き合ったのが初めてなんです。そもそも付き合うということがまだわかっていません。いつも疑問に思っているんですが、こうやって僕と話していて楽しいと思いますか?」


 彼の発言に面食らう。リーの話し方、女性に対する気の使い方、全て今までの経験から来るものと思っていた。なんと返していいかわからず、しどろもどろになる。


「またまた。そんな、私に合わせなくてもいいよ? リー君は完璧過ぎて私と付き合っても楽しくないんじゃないかなと思ってたの。だからそんなこと、考えなくていいよ」


 そういうと彼は心の底から安心したように吐息を漏らした。その姿は演技ではないように見える。


「……それならよかったです。それでは新しい宿泊先は考えておきますね」


「うん、お願いします」


 リーは再び旅行書を見ながら悩み始めた。

 その様子を見て葵は慌てて彼のノートを取り上げた。


「もうっ、これは今度会うまでの宿題。せっかく二人でいるんだから、もっと他にないの?」


 そういうとリーは合点がいったようで、何もいわず葵を抱きしめてきた。暖かい感触が彼女を包み心臓を加速させる。


「そうそう、それが正解っ。本当に私と付き合ったのが初めてなの?」


「本当です。葵さんには嘘をつきませんよ」リーは目を逸らしながら答えた。


「……ほんと?」


「……ハイ、本当です」まだ目が泳いでいる。


「じゃあ、怒らないから本当に付き合った人数を教えなさい」


「……ごめんなさい」


 リーはぶんぶんと何度も頭を下げて指を一本伸ばした。


「すいません、一人だけいます」


「やっぱりっ」


「といっても、子供の頃にです。キスを一度だけしただけですが」


「え?」


「五歳の頃に一度だけです。それ以外には本当にいません」


「ええっ? それだけ?」


 葵は声を上げて笑った。

「ふふっ、リー君って本当に正直なんだね。それは付き合ったというのかどうかわからないけど……。リー君のそういう所、好きよ」


 彼と口づけを交わす。彼の仄かな体温が葵の気持ちを穏やかにする。少し前まではこの体温が高揚感に変わっていたのに、慣れとは本当に恐ろしい。


 そのままリーにくっついて目を閉じていると、雨の音が優しく耳にすっと溶け込んでいった。


 ……いつまでもリーと繋がっていたい。


 彼女はそう思いながら再び彼との甘い一時に身を委ねた。

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