第一章 青春の『華』花 PART3
3.
科学館に着くと、チケット待ちの人だかりができていた。プラネタリウムの券はすでに完売しており、通常の館内を楽しむものだけが売られているようだ。葵は心の中で見知らぬリーの友に礼をいい、プラネタリウム館へのエスカレーターに乗った。
十分ほど列の中でやり過ごし、部屋に入るとその広さに圧倒した。ここだけで一つのドームと呼ばれるだけのことはある。席だけで三百五十席、コンサート会場にでも入っているような雰囲気があった。
リーは薄暗い中、迷うことなく席を探しあて葵を先導し始めた。どうやら夜目が利くらしい。
リーの歩幅に驚きながらも彼に身を委ねる。彼の一歩は自分の約二歩分くらいあり、駆け足でちょうどいいくらいだった。何気ない彼の動作がプライベートであることを思い知らせてくれて、妙に自分の心を浮き立たせていく。
暗闇の中で席に座ると、年老いた学芸員が登場し、はきはきと喋り始めた。それと同時に真ん中の球体が光り始めていく。
どうやら始まるようだ。
リーを目の端で覗くと、彼は熱心に話を聞いていた。葵も話に集中しようとしたが中々できなかった。彼が動くたびに彼の肘が葵の腕に当たり、その度に意識が向かってしまうからだ。
五十分の公演は瞬く間に終わり、真ん中にある球体は光を失なった。入れ替わるようにして天井のライトが点き、席についていた大勢の客はぞろぞろと出口に流れていった。
「実に面白い内容でした。椿原さんはどうでした?」
リーに意識を削がれていたとはいえず、曖昧な返事をする。「うん……面白かったよ」
「それはよかった」彼は満面の笑みを見せて手を合わせた。「そうだ。付き合って頂いたので、夕食を御馳走させて頂けませんか?」
悪くない提案だった。むしろリーから誘いがなければ自分から誘う予定だった。
「うん、一緒に食べに行こう。だけど奢ってもらってばっかりだから、今度は私が出すよ」
「そうはいきません」
彼は大きく手を振った。
「僕から誘ったんです。僕の国では女性に奢って貰うというのは失礼なことになるんです。だから僕に奢らせて下さい」
あまりにも真剣な顔をして力説するので根負けし、申し訳なく思いながらも好意に甘えることにする。
近くに雰囲気のよさそうな店があったので中に入り、生ビールで乾杯した。
「今日はありがとうございました。とっても楽しい一時を過ごすことができました」
「いえいえ、とんでもない。私の方こそ楽しませて貰いました」
「実際の所、どうでした?」リーは葵の表情を探るように訊いてきた。「椿原さんはあまり星を見たことがないといっていましたが」
「もちろん、そんなに詳しいわけじゃないけど。それでも色々わかったよ。北の空にある星って年中見ることができるんだね」
そういって彼女は後悔した。小学生でも知っているようなことしか記憶になかったのだ。やはり話はきちんと聞いておくべきだった。
しかしリーは嬉しそうに葵に合わせて話を進めた。
「ええ、そうなんです。一番わかりやすいのは大熊座ですかね。北極星を中心にぐるぐると回るんです。五月三日には子午線を通過して一番高度が上がるんです。その時は北極星の上で逆立ちしたような形で出てきますよ。
それに今からの時期だと、大熊座と一緒に牛飼い座のアルクトゥルスと乙女座のスピカという星が出てきて、獅子座のデネボラと合わせて春の第三角形を作るんです」
星の話を始めると、リーは檻が外れた競馬の馬のように一気に駆け出した。彼は丁寧な日本語で一生懸命、葵に伝えてくる。相槌を打つ方も必死にならなければならない。
「そ、そうなんだ。リー君が好きな星座は何なの?」
彼女の一声で彼の表情が一気に変わる。
リーは手の上に顎をのせ、黙考し始めた。そこまで真面目に考えなくても、と付け加えたかったが雰囲気的に無理だった。
「そうですね……。たくさんあるんですけど、一番のお勧めは黄麟(きりん)
座です」
「き、黄麟座?」葵は思わず大きく唸った。
「えっ? すいません。何かまずいことをいいましたか?」
「い、いやそんなことないよ。初めて聞いてびっくりしただけ。そんな星座があるんだね」
「そうなんです」
リーは胸を撫で下ろし、再び語り始めた。
「黄麟座は明るい星がないので、なかなか見つけることができないんです。でも年中見れるので、見つけた時には心がほっこりとします。星座って無理やりこじつけられたようなポーズのものが多いんですが、この黄麟座は星を辿ればちゃんと黄麟の形に見えるんですよ」
たじろぎながらも葵は言葉を返した。
「へぇ、そうなんだ。いつが見頃なの?」
「残念ながら、すでにピークは過ぎているんです。二月の半ばが見頃なので」
「そっか、じゃあ今日は見ることはできないんだね」
「いいえ、見ることはできますよ。見たいですか?」
彼の真剣な瞳に心が揺れる。思わず頷いてしまった。
「うん、見てみたい。だけど望遠鏡がないと駄目じゃないの?」
「そうなんです、四等星の星ばかりなので肉眼ではきついですね。僕の家にありますよ。よかったら行きますか?」
「え?」
……事態は急変したようだ。
心臓が再び加速を始めている。まさか初デートからいきなり自宅に向かっていいのだろうか? 少し躊躇すると、リーは慌てて声を出し弁明を始めた。
「すいません、つい熱くなってしまいました。いきなり家に連れ込もうとするなんて失礼ですよね」
「いや、そんなことないけど……」
葵は大きく手を振った。心臓の鼓動はまだ高鳴っている。
「ただリー君、あまり寝てないみたいだからさ。家に上がったらお邪魔かなと思って」
「そうですね、今日はちょっと体力的にきついですね」
星の話が終わると、二人の間に沈黙が訪れた。
少しの間があいてから、リーは葵に尋ねてきた。
「そうだ、椿原さんの神社の話を聞かせてもらえませんか? 熱田神宮にお勤めなんですよね。行こうとは思うのですが、中々機会がなくて結局まだ行ってないんです」
「……へぇ、そうなんだ」
葵はにやりと笑った。ついにこの話題が来たと心の中でガッツポーズをする。
「お話したいんだけどさ、言葉で伝えるとどうしても語弊が生まれると思うのよ。だからよかったら今度一緒にお参りに行かない? きっとリー君の勉強にもなるし」
「それはいいですね、是非お願いします」
彼は笑顔を見せていった。
「実は僕も椿原さんと一緒に参りたいなと思っていたんです」
ぶるるんと心臓がパンチングボールのように揺れる。やはり彼の笑顔には葵の何かを壊す力が備わっている。
「そ、そ、そう? じゃあ今度一緒にいこっか。今度の土曜日、三月三日は空いてない?」
「三月三日ですか?」
リーは不思議そうな顔をした。
「確か雛祭りの日ですよね。空いてますよ」
……よしっ、ミッションの成功確率アップだ。
「なぜ三月三日なんです? 何か意味があるんですか」彼は首を傾けて再度訊いてくる。
「ヒ・ミ・ツ」
葵は微笑んで答えた。
「実はね、三月三日になら面白いものが見せられるの。一日空けておいてね。夜もだよ」
「……はぁ、了解です」リーは納得がいってない顔で頷く。
彼の不満そうな顔に再び心が揺らぐ。しかしここでいうわけにはいかない。口でいっては効果が半減してしまうためだ。
「約束だからね、絶対だよ」
次のデートの約束を取り付けた葵は勢いよくビールのおかわりを頼んだ。
今日の酒は格別だった。彼と一緒にいれば水でも何でもよかったのだが、彼の言葉には心まで酔わせるものが含まれていた。
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