第一章 青春の『華』花 PART2

  2.


「おはようございます。今日もお勤めご苦労様です」


 葵は参拝に来た老婆にゆっくりと微笑み返した。


「おはようございます。今朝も冷えるわね」


老婆は丁寧に挨拶を返してきた。挨拶をする度にきちんと歩くのを止める彼女にはいつも尊敬の念を忘れない。


「ここにお参りに来るようになってから腰の調子がよくなって。毎日の日課になっているんです」


「そうですか、それはよかったですね」


「あれ? もしかして……」


 老婆は振り返りながら葵に焦点を合わせた。

「確か椿原さんの娘さんですよね?」


「ええ。そうです」


彼女は首を縦に振って肯定した。


「すいません、どちら様だったでしょうか?」


「覚えてないのも無理はないわねぇ」


老婆は小さく吐息をついて名前をいった。


「十年ほど前に、孫のお宮参りなんかでよく通ってたのよ。それにしても大きくなったわぁ。私も年を取るわけだ」


「……ああ」


葵は笑いながらごまかした。


「覚えてます。お久しぶりですね」


「本当にね」


老婆は嬉しそうに答える。


「そういえば、しばらく姿が見えなかったけどどこかに行っていたの?」


「実は宮崎、九州の方の大学に行っていたんです」


葵は笑いながら告げる。

「去年から正式に神社で務めるようになったので、その間だったのかもしれませんね」


「まあ、そうだったの」


老婆は微笑みながら驚きの表情を見せた。

「今年から私の孫も行ってるのよ。大丈夫かなぁ、あの子。ちゃんと勉強していればいいのだけど」


「大丈夫ですよ」


葵はきっぱりといった。

「おばあちゃんのお孫さんなんです。きっと真面目で努力家ですよ」


「……そう願うしかないわね」


老婆は力なく頷く。

「いけない。また邪魔ばかりして。それじゃ失礼するわね」


 正殿に向かっていく老婆を見送りながら、葵は桃の木を眺めた。最近は肌寒い夜も減ってきている。今年の桃は早く咲きそうだなと思った。


 ここ熱田神宮では朝早くにお参りする人が多い。それは日々の健康を願う者、スポーツ等勝負事に関して祈る人物が多いからだ。


 この神社では『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』が祭られており、多くの武将がここでお祈りをし戦に向かっているという記述が残っている。


 その代表となっているのが織田信長だ。織田信長が作らせた堀も現在残っているので、歴史に興味ある人物も多く参りに来る。


 朝早くから参拝に来る者に挨拶をしながら、葵は細い腕時計を何度も眺めた。待ち遠しい時間ほど中々進まない。もどかしい思いをしながらも、リーとのデートを頭で思い描いてしまう。


 リーと出会い初恋を体験しているようだと葵は思った。彼といるだけで心が軽くなり、彼の全てが知りたいという欲求に駆られるのだ。また自分のことも知って欲しいという思いも生まれている。


 リーの心に自分の存在を植えつけたい。それだけが日々募るばかりだった。


 今日のデートは名古屋市科学館だ。最近日本一の広さになったプラネタリウムがあり連日超満員である。チケットは予約制ではなく並ばなければ手に入らないものだが、リーの知り合いがそこで務めており、二枚くらいなら手に入るということだった。


 就業時間をきっちりと守り、葵は一度自宅に戻った。久しぶりのデートになるので丁寧に化粧をする。濃くなく薄くなくだ。まだ肌寒いが、薄着にして春らしい格好にしようと目論んでいる。バーにいくような落ち着いた格好では彼の心を奪うことはできないからだ。時間内に準備をすませ、彼と待ち合わせをしている名古屋駅に向かった。



 待ち合わせ場所の金の時計台を眺めると、リーが腕時計を見ながら背を丸めていた。昨日も仕事だったようだ、欠伸を連発しながらもぎりぎりのラインで立っている。


「リー君、おはよう。ごめんね、待った?」


 葵の姿を見ると、リーは目を引ん剥いたまま硬直した。


「い、いえ、そんなことはありません。椿原さん、とっても綺麗です。びっくりしました」


 綺麗です、という言葉が葵の気分を高揚させた。どうやらお世辞ではなく本当にそう思っていってくれたようだ。いつも冷静な彼がおどおどとした口調になっている。


「ありがとう、ちゃんとお洒落してきた甲斐があったよ」


「……僕もきちんとした格好で来ればよかったですね」


 リーは自分の格好を見て恥ずかしそうにいった。


「すいません、これじゃ椿原さんに釣り合わない」


 彼は白のワイシャツに深緑色のコートを羽織っているだけだった。どうやら自分がお洒落してくるとは思っていなかったようだ。


「関係ないよ。プラネタリウムを見に行くんだから。さあ、早く行こ?」


「そうですね、今日はよろしくお願いします」


 リーは薄い笑みを浮かべながら、葵の手をすっと掴んできた。彼の指は細く綺麗で、彼女の指に蔦が絡まるようにしっかりと重なった。すでに自分の心臓はトップギアに入り暴走し始めている。


 地下鉄に乗っていると、リーは目のやり場に困っているかのように、あたふたと葵から目を離した。ワンピースの胸の開きが少し大きかったのかもしれない。慌てて目を背く彼を見て葵は口元を緩めた。


「この格好、変だったかな? やっぱりワンピースに薄手のコートだけってまだ早いよね」


 彼のものよりも若干薄い青緑色のトレンチコートのボタンを閉じて、ワンピースの開きを隠す。


「いえ、とても似合ってます。ただ僕にはとても刺激が強くて……」


彼は天井に掛かってある広告を見ながらいった。


「白のワンピースって素敵ですよね。僕がいた地方では、白の服は喪の意味を表すのであまり流行ってないんです」


 そうだった、と葵は舌を噛んだ。日本も同様に西洋文化が伝わるまで喪服は白だったと聞いたことがある。中国では未だ白だということも知っていた。


「ごめんなさい、気が利かなくて。リー君にとってはあまり縁起がいいものじゃないんだよね」


 葵が首を垂らしてしょげてみせると、リーは冷静に弁解してきた。


「いえ、そういう意味じゃないんです。椿原さん、バーでそんな格好で来たことなかったじゃないですか。だから本当にびっくりしているんです。もちろんとっても似合ってますよ」


「バーにいるような格好の方がよかった?」


「いえ、デートをしているみたいでとっても楽しいです」


 事実デートなのだが、という言葉は何だか恥ずかしくていえない。


「そういえば、リー君、今日学校は?」


「この間、試験が終わったので休みですよ」


 リーは横目で葵を見ながらいった。


「なので、最近はほぼ毎日バイトに入ってます。昨日は朝の七時まで仕事でした」


 そういって彼は大きな欠伸を繰り返した。


 リーの留学には大きな夢が関係している。彼の一番の目標は日本と中国を繋ぐ外交官として働くことだ。日本人の父親と中国人の母親の間で育ったため、中国の歴史と日本の歴史を両方学んでいるのだという。


 どうやらバーテンダーという職種を選んだのも色んな人種と付き合いたかったらしい。昼間は学校に行かなければならないから、必然的に夜の仕事になる。その中で彼は最善のものを選んだという。


 夢を語るリーの横顔は彼女をときめかせる何かがあった。


「……この駅で降りるみたいですね」


 彼は優しく葵の手を掴んで引っ張った。だが相変わらず目は伏せたままだった。 


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