第一章 青春の『華』花 PART1

  1.


 ……今朝もやっぱり冷えるなぁ。


 寒さに身悶えながら、椿原葵(つばきはら あおい)は朝風呂にどっぷりと浸かっていた。今年の冬は例年より暖かいが、それでも体中が凍りつきそうな気温ではある。


 ……ジャケットを羽織ることができればいいのに。


 ぶつぶつと小言をいいながら風呂場で歯を磨いていく。仕事着は白衣に緋袴で統一されているため防寒服を着ることはできない。そのためこの仕事についてからは冬の朝風呂は必須だった。


 しばらく湯船に浸かっていると、今日のメインイベントが頭の中でぐるぐると回転し始めた。今日は午前中で仕事は切り上げで、その後リー・シュンとのデートが待っている。


 しかも今日は初デートだ。


 リーと会うことを想像するだけで自然と体温が上昇していく。こんなにも浮き立つ日は本当に久しぶりだ。


 出会いはある日、唐突にきた。赤く染まった紅葉が刈り取られていく十一月の後半だった。三重(みえ)県にある伊勢神宮(いせじんぐう)の新嘗祭(にいなめさい)に参加した帰りに立ち寄ったいきつけのバーだ。


 BAR『ソルティレイ』に足を運ぶと、見慣れない男がカウンター側に立っていた。男はマスターと向き合ってメモを必死にとっている。どうやら新しく入った従業員らしい。


 彼の発音はどこかぎこちなかった。日本人のイントネーションではなく外人が話すような固い敬語だった。

 カウンターに座りマスターに話し掛けると、新入りは控えめに頭を下げてきた。


「はじめまして、中国から留学に来たリー・シュンといいます。今日からこちらで働かせて頂きます。よろしくお願いします」


「こちらこそ、よろしくね」


 葵が返事を返すと、彼はにっこりと笑った。その笑顔に胸を打たれた。


 リーは仕事を覚える速度が早かった。よすぎるといってもいいくらいだった。


 彼はマスターの命で瓶を一つ一つ濡れた布巾で拭きながらリキュールの名前を小さな声で連呼していった。バーカウンターの後ろにはそれぞれのリキュールがぎちぎちに詰まっており、瓶の数は三十以上ある。


 全ての瓶を吹き終えるとリーはマスターの前に立ち、覚えました、と敬礼するような声で告げた。


 マスターは彼の発言を受けて立ち上がり、一つの瓶を取り出して名前を手で隠していった。


「じゃあ、この瓶の名前を答えてみてよ」


 マスターの発言に彼は再び軍の点呼をとるような響き渡る声で正解を口にした。


「ボンベイ・サファイアです。アルコール度数47%、ジンの種類の一つにあたります」


 マスターと話していた客は穏やかに笑い、次の瓶を催促した。彼は苦笑いを浮かべながら瓶を吟味する。その視線を追って彼は先程と変わらない口調で答え、どんどんと正解していった。


 このバーにはジンの種類が五つ程あったが、その全ての名前を間違えずに答えた。さらに生産国、アルコール度数、全てにおいて狂いはなく、表記されていることを全て記憶していたのだ。


「……こいつは驚いた」


 マスターはサングラスを外し驚きながらリーを見た。

「リー君はお酒を作ったことはないといっていたけど、飲むのは好きなのかな?」


「いえ、僕は下戸で全く飲めないんです」


 ……全く飲めないのにバーで働きたい人間がいるのだろうか。


 訝りながら彼のテストを眺めていると、彼は全てのリキュールを当て、店にいた客は声を上げて彼に賞賛を贈った。


 客の一人がリーに訊いた。

「何でここで働いてみたいと思ったの? お酒が飲めないのさ」


「カクテルを作るのって魔法みたいじゃないですか。様々なお酒を混ぜることで別の飲み物ができる、これって凄いことじゃありません?」


 店にいる誰もが言葉を失った。カクテルを作るための道具は充分に揃っているが、ここに飲みに来る客の大半が芋焼酎だったからだ。店の前に張られていた紙にはバーテンダー募集と書かれていたな、と葵は反芻した。


 客層は男性が九割、女性が一割だった。女性といっても男性の付き添いで来る客がほとんどで、最初の一杯にカクテルを頼み、後はキープしてある『霧島』に流れるのだ。


「……そっか。じゃあ仕事に慣れたらリー君にカクテルをお願いしようかな」


「本当ですか? やった、ありがとうございます。嬉しいです。頑張ります」


 マスターの一声でリーの表情はぱっと明るくなった。先程見せた愛想笑いとは違って少年が見せるような笑みだ。店の雰囲気も新品の蛍光灯に変わったかのように一気に明るさを増した。


 その時に不覚にも自分の心に火が点いてしまった。



 それからリーは暇さえあれば、カクテルの勉強に没頭した。客が来るまでは様々な本を読み漁り知識を蓄え、閉店時間が来ればマスターにレシピ通りのカクテルを作り味を確かめて貰っていた。たまに葵も居残って飲ませて貰ったがこれが美味かった。


 しっかりとした味わいになっており、アルコール度数が四十度を越すものでも体の中にすっと馴染むものになっている。美味しいというと、彼は白い歯を見せながら、ありがとうございますと丁寧に頭を何度も下げた。


 葵も客の例外に漏れず『霧島』好きだったのだが、彼がいる時は最初の一杯にカクテルを頼むようにした。リーに作って貰うようにお願いすると、彼は嬉しそうな顔でシェイカーを準備するようになった。


 日を追うごとに彼の技術は上達していった。彼が作るカクテルは素材の味を損ねないもので、完璧なものを追求するような純粋さが含まれていた。


 二ヶ月後、彼は流れるような仕草で次々とカクテルを作っていくようになっていた。注文を受けた時点で頭の中では完璧に材料を把握しているようで、メジャーカップを用いずに人差し指だけの感覚で注ぎ込み動きに無駄がなかった。


 また彼が作るカクテルは味だけでなく、パフォーマンスにも優れていた。客が要望すると中国雑技団のように瓶をアクロバットに浮かし、カクテルを作っている動きにさえ魅了された。何でもパフォーマンスをしながらカクテルを作ることをフレアというらしい。彼の残像を追っていると、瞬く間にコースターの上にカクテルが置いてあるといった風だ。


 カクテルを出す度にリーは親が昔話を子供に聞かせるかのように、優しく、それでいて穏やかな笑みを見せながらカクテルの物語を語った。カクテルの名前、由来、バリエーション、飲み方。日ごろの疲れを癒すつもりで来ていたつもりが、彼に会いに来ることが目的になっていた。


 リーの技術が上がると共に、店の客はだんだんと変わっていった。男性は九割から七割に変わり、女性が一割から三割に増えた。芋焼酎のキープは変わらずだったが、リキュールの数が増えていき店の中はカラフルな酒で埋まってバーとして本格的に活動していった。


 結局彼のカクテルだけを飲みに行くようになり、キープしてある『霧島』は一向に減らなくなっていった。



 そしてある日のこと。

 葵は彼との時間を少しでも延ばそうとカウンターでちびちびと飲んでいると、彼が、オセロをしませんかと提案してきた。


 この店にはマスターの趣味で、日本のメジャーな盤ゲームが多数あった。オセロ、将棋、囲碁……。葵は囲碁を得意としていたが、リーは打つことができないだろうと予測しそのまま頷いた。


「オセロなんて小さい頃にやっただけで全く相手になんかならないよ」


「そんなことないですよ、簡単です。四隅の端っこをとるようにすればいいんです。椿原さんが勝てば一杯奢りますよ」


「私が負けたら?」


「その時は僕に一杯御馳走してくれませんか」


 リーと会うのが目的になっていたので構わなかった。むしろ一緒に飲んで貰いたいという気持ちがあった。


「それはいいけど、リー君、お酒飲めないんじゃ」


「もちろん強くはありません。でも店の売り上げを上げるために、一杯だけは頂くことにしたんです」


「……そっか。じゃあ一回だけやってみよっかな」


 リーは馴れた手つきで四枚の石を並べ、白の石を一枚ひっくり返した。葵はつられてそのまま白の石を置くことにした。


 やり始めると、これが意外に熱中した。彼と時間を共有していることが何より楽しかった。わざとかどうかはわからないが、最初の一戦は葵が僅差で勝った。リーは飲み干した葵のグラスを下げて、マスターの目を盗みながら黙々とカクテルを作り出した。


 彼が作ってくれたカクテルは透き通った雪のようなものだった。


「ホワイトレディというカクテルです。ジンベースで強いですが、程よい酸味が舌に残り美味しいですよ。由来は色々あるんですが、ヴィクトリア女王をイメージして作ったという説があるんです。何でも初めてウェディングドレスに白を着た人物は彼女らしいですよ」


 リーは先程使ったシェイカーを隠蔽しながら平然といった。


「……ありがとう。リー君は私にこのカクテルを作るために負けてくれたのかな?」


 そういうとリーは苦笑いを浮かべ頭を掻いた。


「いえ、勝負は勝負です。椿原さんにぴったりのカクテルだったので、飲んで貰いたかったのは事実ですが」


「そっか……」


 意外に負けず嫌いなんだなと葵は心の中で笑った。

「じゃあ遠慮なく頂くわ」


 一礼してグラスに口づける。すっと体の中に溶けていくような喉越しで、その後にぴりっとくる辛口が絶妙なバランスだった。


「うん、美味しい」


「そうですか、よかった」


 この日から店に来ることがほぼ毎日の日課になり、リーとオセロの一日一回の勝負は恒例になった。いつの間にか店のルールとしても定着し、一杯掛けることが常識になっていた。



 賭けをするようになって一ヶ月後。


 いつものように初めの一杯はお任せで頼むと、リーはカクテルを作る前にぽつりと呟いた。


「今日は一杯賭けずにお願いしたいことがあるんです。僕が勝ったら、椿原さんの次の休みをくれませんか?」


 突然の提案だった。訳を聞くと、リーは天体観測が趣味でこの町にあるプラネタリウムを見に行きたいということだった。だがそこはカップルの名所となっており、相手がいなければ入りにくいらしい。


「リー君は大学生でしょ? 一緒に行ってくれる女の子くらいいるんじゃない?」


 この発言自体、賭けだった。ここでいるといわれれば、葵は自ら地雷を踏んだことになる。


「いえ、そんな相手はいません。大学には勉強に行っているだけですから」リーは苦笑いしながらいった。


「……ふうん、そっか。それならいいよ、私が勝ったらどうするの? 私の休みは高いよ?」


 平静を装うようにいった。勝つ気など全くない。一杯奢って貰うよりデートの方が大事だ。


「そうですね……」眉間に皺を寄せながら彼は葵に視線を向ける。「葵さんのお願いを一つ訊くことにします」


「うん、それいいね。そうしよう」


 どちらに転んでもいいな、と葵はにやりと笑った。自分が勝ったらリーと同じくデートにしてもいい。


 しかし勝負は勝負だ。できれば勝ちたい。葵は手から溢れる熱を込めて石を打った。


 リーの表情も真剣そのものだ。一手毎に悩み眉間に皺を寄せている。両者互いに熱を持った試合になった。


 結果は予想外のものになった。初めての引き分けだった。後ろのボックス席で飲んでいたマスターが盤を覗き込んできた。石の数を数えてぼそりといった。


「珍しいね、引き分けなんて。お互い意気込みがいつもと違ったように見えたけど、別のものでも賭けてたの?」


「いえ、いつも通りですよ。最近負けが続いていたので負けるわけにはいかなかったんです」


 リーは何事もないかのように黙々と石を拾い集め、次の勝負を進めようとした。マスターは顎鬚(あごひげ)を触りながら、とぼとぼとボックス席に戻っていった。


 その後、二人はお互いの顔を見て笑い合った。

 二人の願いを叶えるということで決着がついた。

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