長編小説3 『限りなく純粋に近いグレイ』
くさなぎ そうし
プロローグ
☆.
静寂に佇む夜に、男は一人で晩酌していた。今宵(こよい)の相手はスコッチのモルトウイスキーだ。香りを楽しみ、ちびちびと舐め仕事の疲れを癒すのが最近の日課になっていた。
窓を片面だけ開けてみると、春から夏へと向かう薫風(くんぷう)が流れ込んできた。本土では味わうことがない湿った風だ。それを目一杯吸い込めば夏がもうそこまで来ているのだと肌で感じることができる。
もう片面を開けて空を見上げると月が光っていた。一点の曇りもない満月だ。日本には月見で一杯という諺(ことわざ)があるが、まさに今がその時だと男は笑った。次は芋焼酎『霧島』に流れようと思った。
突然、男の部屋の扉がキィと怪しげな音を立てて開いた。そのまま扉はゆっくりと大きく広がっていく。金具が緩んだのかなと思い、男はグラスをテーブルに置きそっと席を立った。
扉の前まで行くと異様な雰囲気が辺りに立ち込めているように感じた。寒気を感じとり男は後ろを振り返った。だが誰もいなかった。
そのまま軽く吐息をつきながら扉を閉めテーブルに戻ろうとした。だがその時、男は自分が動けないことを知った。後ろに人影を感じるのだ。思わず手を上げる形をとってしまう。
「……そのまま前に進め」
ドスの聞いた声が部屋に響く。後ろを振り返りたいが振り返ることはできない。腰の辺りに何かを立てられているからだ。恐らくこの人物は刃物を持っている。相手のいう通りに進むしかない。
「……どうやってここまで来た。警備は万全だったはずだ」
一時の沈黙が流れた後、後ろから再び男の声が聞こえた。「その警備を頼んでいるのはどこだ?」
「……なるほど」彼は落胆した後、大きく溜息をついた。「お前もスパイというわけか」
「……そういうことだ」
男は両手をさらに上げて、身を細めながら懇願した。
「……俺が悪かった。俺がしたことは確かに裏切りだ。だがちょっと待って欲しい。この場でお前が俺を殺すとしたら、敵国への大事な情報網を失うぞ。もう一度俺にスパイとして戻れるように手配してくれないか。いい情報はたっぷりあるんだ」
男の懇願もむなしく、刃物を持った人物は沈黙を貫いている。呼吸の音もなく本当に後ろに立っているのかさえ忘れてしまいそうだ。
それでも話し続けなければならない。喋り終えた時が自分の最後になるからだ。
彼は息を飲んでからゆっくりと続けた。
「あそこにあるスコッチで乾杯でもしないか? いい品なんだ。俺はあれが来るのをずっと待っていた。中々手に入らないものなんだ」
腰にズン、と何かがあたる感触があった。刺されたと思ったが鈍い感触だった。
「……悪いな。あれは苦手なんだ」
押し倒されて思わず男の方へ振り返った。そこには刃物を持った男が黒服に身を包んでいた。ナイフの歯を裏返して握り直している。
「そうか。じゃあ酒はまた今度にしよう。何でもいい、俺にできる仕事をくれ。頼む」
男は立ち上がり大振りなジェスチャーを交えつつ叫んだ。その時、近くにあったスコッチウイスキーの瓶が倒れ粉々に割れた。
「……この場に及んでまだ足掻(あが)くのか」
「俺はまだ秘密をばらしてない。本当だ、信じてくれ」
「……そうか。それは助かったよ」
黒のスーツを纏った男はナイフを構えながらゆっくりと進んできた。月の光が徐々に男の姿を照らしていく。
「頼む。命だけは……」
「……嘘はついてないようだな」
彼はナイフを向けたままいった。
「だが相談する相手が悪かった。まだ暗闇で目が慣れていないようだ。俺の姿を見てから判断するといい」
一歩一歩、窓際に後退すると、ナイフを持った男も一歩ずつゆっくりと前進してきた。その動きは慣れており、これが初めての殺人ではないことを表していた。
窓から漏れた月光が黒服の男に当たり始めた。その時彼の全体像が瞳に映った。
「…………そうか。お前だったのか……」
男は上げていた手を力無く下げた。この男に何をいっても無駄だと悟ってしまったのだ。
「ああ、俺にいっても何の意味もない」
一瞬の間に、男の胸にナイフが突き刺さった。声を上げることもできなかった。
「俺が殺し専門だということを、お前はよく知っているはずだからな」
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