第21話 乙女の汗
木村綾子は抜け殻のように、いつもの庭園のベンチにもたれながら青く透き通る空を眺めていた。
制服はロングスカート故に多少足を広げた所で中身が見えることはないが、そんな少々お嬢様らしからぬ恰好でうなだれる綾子の隣で、美李奈は凍らせたペットボトルのお茶と格闘していた。
「まぁよろしいじゃないですか。追試は免れたのですから」
中々溶けないお茶に悪戦苦闘しながら美李奈はカシャカシャと振ったり太陽に当てたりしながらテストを終えてすべてを出し尽くした綾子をねぎらう。
綾子のテストの点数は良くも悪くもないと言った具合だが、それでもクラスでは下だ。元々学園のレベルが高い故にそれでも綾子としては頑張った方なのだが、この散々たる点数は親には見せることは出来ないだろう。
どうあれ、親というものはテストの内容よりも結果を見るものだから。少なくとも木村家ではそうである。
「おかしいよ……静香ならまだしも、体育祭の練習ばかりしてた朋子まで点数いいなんて」
静香と朋子は綾子を大きく引き離して中々の点数を取っている。一方的にこちら側の人間だと思っていた朋子が、思えばやはり向う側の人間だったなとつきつけられてしまい勝手に落ち込んでいるのだが、それは美李奈の知る所ではない。
「はぁ……ま、いいや。テスト終わったし開放的ね! 体育祭なんてなくなればいいのに!」
と、いう感じにあきらめがついて吹っ切れたようにテンションを上げてみても待ち構える憂鬱な行事は迫ってくるものだ。
強制参加のリレーだけやってしまえばあとはもの好きな体育会系の生徒が盛り上がるだけとはいえやはり面倒臭いものは面倒臭い。
「あら? 体を動かすことは良いことですのよ? レディであるからこそ最低限の体力はもっていなくていけませんわ」
「体育祭は最低限じゃありませんよぉ」
綾子はベンチへとさらに体を沈ませると、日差しが暑いので顔を右腕で覆う。
「社交界で一日中ダンスをしたり、大勢の人々に挨拶をするよりは気楽ですわよ」
どんどんだらしなくなる綾子を咎めるわけでもなく、美李奈は少し苦笑しながらそんなことを言った。
かくいう自分もそんな社交界など幼い頃に出たきりのものだが、はっきりと言えば好きな空気ではなかった。
「そんなもんなんですか?」
「そんなもんなのです」
綾子はまだ経験したことはないが、美李奈が言うには社交界という煌びやかな舞台では、わりとドロドロとした感情も少なくはなく、それの被害を受けないように立ち回るのも大変なのだと。
「花の社交界……お金持ちのパーティーも大変だぁ……というかそんな漫画みたいなもの本当にあるんだ」
「親の側からすればそれらの催しに出席することでコネを作ったり、自分を売り込むのですから、必要なことなのですよ。綾子さんのお父様もそろそろそういう場に出られるのではなくて?」
「うちの父親が? 似合わないなぁ」
「似合う似合わないではなくて、出なくては示しが付かないのです」
幼い頃は夢にすら見ていたお嬢様の生活も案外楽ではないのは、この学園に編入してからというもの理解はしてきたつもりだったが、綾子は自分がまだそういう世界の奥底までは入りこんでいないんだなという、どこか安心したような気持ちもあった。
「ほら、もうじきリレーの練習でしょう? 本番までに体を慣らさないと怪我をしますわ」
美李奈は凍ったお茶をタオルに包みながらベンチから立ち上がる。綾子ものそのそとそれについていく。
「まぁ、怪我はしたくないよね。静香に海に誘われてるんだし」
そう面倒な行事が終われば待っているのは夏休みであり、海だ。夏休みの宿題などという恐ろしいものは最初から頭の隅に放り投げていて意識もしていないが、どの学年であってもこの長期休暇というのは天国のようだ。
綾子は一気に背伸びをする。リレーが終われば友人らと水着を買いに行かなければならないし夏の計画もさらに練りこんでいかなければならない。
お嬢様であろうと女子高生は忙しいのだ。
***
清楚かつ穏やか、騒げば鬼の風紀委員がすっ飛んでくるこの如月乃学園でも時としては熱気に包まれ、声援の嵐が飛ぶ。
五月、地獄のテスト期間はとうに過ぎて授業の合間に行われる億劫なリレーの練習を汗まみれになりながら乗り越えた六月、早速の体育祭というものはやはり覚悟していても気が滅入る……はずだったのが、参加して周りの熱気に当てられると意外なぐらいに自分もノリノリであることを綾子は自覚した。
そんなに盛り上がりは見せないとは言ってもしんと静まりかえっているわけではなく、応援の声であったり競技で流す音楽であったりが合わされば無意識のうちに大声を出したり、競技を前に妙にやる気をみせるものである。
「ほら! イケー!」
クラスリレーが終わって息があがり、べたべたとする汗が張り付てくる体操服は少し気になるが、綾子はそれすらも無視して額や頬を伝う汗をぬぐって、叫んでいた
グラウンドとそれ以外を区切るロープを掴みながら、身を乗り出すようにして競技中の生徒たちを眺める。現在行われているのは一〇〇m走であり、参加しているのは朋子だ。
すらりと伸びた手足に健康的に日焼けした肌、そこに体操服という姿は朋子には似合っている。
半ば独走気味にコーナーを曲がる朋子に向かって声援を投げかける綾子のすぐ横ではくたくたになった静香がロープにもたれかかってへこたれていた。申し訳程度に腕を振って朋子を応援しているが、声は出ていない。
「ほらほら、静香! 朋子速いって!」
「私たちは走るようにはできていないんですぅー」
男女は別に競技を行うのだが、朋子の独走っぷりを見ていると男子生徒の部でも十分トップを走れるんじゃないかと綾子は興奮する。
誰も朋子の背中を捉えることもないまま朋子が白いテープを切ると綾子は飛び跳ねてはしゃぎまわる。
「キャー! 一位だよ一位!」
周りのクラスメイトたちも同じように騒いでいる。特に男子生徒たちは妙な熱気に包まれている。
「うおぉぉぉ! 関口ー!」
「次も頑張れよー!」
意外な事だが朋子は人気があるようだった。カメラ係に任命された男子の一人は異様な程に気合を入れて彼女の写真を撮っている。
「ちょっと殿方たち、そんなに元気があるならあなた方も参加してくださいな!」
そのすぐ傍で優雅に傘をさして観戦している女子生徒たちに至ってはリレーで碌に頑張りもしていなかった男子生徒を批難するような視線を向ける。
「いや、ほら走るのだってこうスポーツ科学に乗っ取った……」
「男らしくもない!」
やいのやいのと言い争いができるのも体育祭の熱気のおかげなのかもしれないし、お嬢様もお坊ちゃまも綾子の知らない所で色々とストレスを抱えているのかもしれない。
綾子も他の女子生徒たちに同意しながら、「スケベ共! お前らも走れー!」と囃し立てる。最近では綾子も口調を作らなくなってきた。意外な事に受け入れられるもので、綾子のその一般的すぎる口調を気にするものはいなかった。
「綾子さん、ちょっと下品ですわ」
とはいえ、度々口にでるいくつかの単語にはこういう反応も返ってくる。
「失礼だぞ僕たちはスケベじゃない!」
「常に紳士たる僕たちがそんな体操服ごときに劣情を抱くわけないだろ?」
取り繕うに余裕を見せている男子生徒たちだが、そんな言い訳をするからまた女子生徒たちに嫌味を言われるのだ。
「うるさぁい! 女子が走ってるんだから男も走れー!」
この時に限っては自分も走ろうなどとは考えないあたり綾子も中々に卑怯だが、それはそれで置いておく話である。自分は女の子なのだから。
「あら、次のグループの番ですわ。綾子さん、真道さんが出る見たいですよ」
「え? あっほんとだ! おぉーい真道さーん!」
クラスメイトたちの騒がしい言い争いに参加せず、無気力のままグラウンドを眺めていた静香は朋子たちのグループと入れ替わるようにコースに付く生徒の中に美李奈の姿を認めた。
綾子も言われて気が付くと男子生徒を放っておいて遠くに並ぶ美李奈に声援を送る。流石に距離があるので聞こえてはいないようだが、綾子は大きく手を振っていた。
美李奈の体操服は、やはり制服と同じで継ぎはぎが目立つし泥で汚れている。普段はロングに下している栗色の髪をまとめた美李奈は腕や足をゆっくりと伸ばしていた。
「あれ、隣にいるの於呂ヶ崎さんじゃない?」
その途中、美李奈の横にいる麗美の姿も発見する。他の生徒よりも背の小さい麗美は生徒たちに埋もれてしまう為に発見できたのは偶然である。
いつ見てもどこから湧いて出てくるのかわからない自信に満ち溢れた姿は流石というべきかもしれないが、彼女がこういった競技に出場するのは意外であった。
「まぁ! 真道さんは前回参加していましたが、於呂ヶ崎さんが出るだなんて。いつもは日陰を作ってお茶をしていますのに」
体育祭なのになんでお茶会なんて開けるのかとは聞かなかったが、やはり他の生徒たちも同じ感想だったようだ。
それに、巨大ロボットのパイロットであるという麗美(本人は今だ隠し通しているつもりだが)の出場は多少なりとも注目を引き付けるようで、周囲はさらに熱気を上げた。
「あれー? 於呂ヶ崎さんって運動は……」
女子生徒の誰かがそんなことを言ったのが聞こえた。だがそれと同時にレース開始の空砲が鳴る。
パンッ! という乾いた音と共に一斉に走りだす生徒たち。同時に観客たちの声も大きくなる……のだが、次の瞬間にはどっと笑いが巻き起こってしまう。
綾子と静香もその光景を見てあちゃーっといった顔をして顔を覆った。
レース開始と同時に於呂ヶ崎麗美は見事に足をもつれさせて顔面から倒れこんでしまったからだ。
***
「ふぎゃっ!」
つぶれた猫のような声を出して動かなくなった麗美を背中に、美李奈は笑いをこらえつつもペースを維持する必要があった。
リレーであれマラソンであれ、徒競走であれ、陸上競技はこのペース配分が重要だ。そんな話を以前授業で聞いたこともあるが、それを実践するのは中々に難しい。
そもそもこの競技に出るということを提案したのは麗美なのだ。美李奈としてはクラスの流れに乗って出れそうな競技だけでもいいかなと思っていたのだが、そんな折に麗美がいつものように慌ただしくやってきて「特訓ですわ!」などと息巻けば事情を聞かないといけなくなる。
美李奈と麗美、二人は何度目かの戦いを通してわかったことだが、戦闘というものは神経を使うし体力の減りも冗談ではないぐらいにある。
特に麗美などは今までのお嬢様生活のせいか戦闘終了後は死んだように眠っているし日々のマッサージの回数が多くなったとぼやいている。美李奈としては普段の庭園の手入れや重要なタイムセールへの乗り込みのおかげかそれなりに自信はある。
それでも今まではその場の勢いで乗り切っている部分もあったし、麗美曰く「体力を作っておくことは今後にも役立つでしょう!」ともっともらしいことを言うので、美李奈もそれを快諾したのだ。
だから手始めにこの体育祭で自分たちの体力の限界というものを理解しておきたかったし、戦闘をこなしてきたという自信がどこまで通用するのかも知りたかった。
問題なのはその当の麗美が今も倒れてぴくりとも動かないことなのだが……
「麗美ったら……」
ペースが崩れる為に後ろを振り返ることはしなかったが、美李奈は溜息をつきなくなっていた。
だが、それをこらえてまっすぐとコースの先を見据える。運が悪いのかどうかはさておき、美李奈のグループには体育会系の生徒が集まっていた。皆、それぞれに成績を残しているメンツである。
金持ちとはいえ、中にはスポーツ選手であるとか道場の跡取りであるとか、そういった面々もいるのだ。
(一位になる必要はない……けど、それはそれで面白くない)
意外と負けず嫌いな美李奈にしてみれば、そんなメンツに対抗して結果を出してみたいという考えもある。
六人のグループで走り、美李奈は何とか三位に食い下がっているがそのすぐ後ろでは運動部員でない美李奈には負けじと迫る生徒が猛烈に勢いを増していた。
一位と二位との差は広がっていく一方だが、美李奈は追いつくつもりでいるし、抜かれるつもりもない。
腕を振り、なるべく足を速く降ろす。意識はしてみるが、それを優先すると今度は無駄に体力を消耗してしまい、すぐに息が上がってくる。
(運動不足なんてつもりはないのですけど……!)
本格的な運動になれている生徒たちは姿勢も良くスピードはあげても軸がぶれるということはない。
美李奈本人は気が付いていないが、彼女の体は上下に揺れている。それが余分な体力を使わせるのだ。
「くっ……!」
すぐ横を四位だった生徒が抜いていく。彼女は無理をているような走りだが、それでもフォームは良い。自力が違うのだ。
「…………!」
転落してしまっても美李奈は力を抜かない。運がいいのは、美李奈のコースは内側ということだ。加速をかければ何とか順位を取り戻すことができるかもしれない。
などと甘い考えは早々に捨てるべきだと気が付いた時には自分を追い抜いた生徒はトップメンバーと順位争いに参加していた。
走りだしが悪かったとは思わないが、侮っていたことは事実である。ここで多少の無茶を承知で走りこんでも良いのかもしれないが、脳裏にちりちりと残るペース配分という言葉がそれを抑制する。
しかし、体育祭という熱気に無意識に当てられたのか、美李奈は自分でも気が付かないうちに対抗意識の赴くままに加速していた。
普段……というにはあまりにも非日常的なアストレアでの戦闘では冷静さを保てるというのにだ。
「……ッ! ハァッ!」
数秒後、四着という結果に終わった美李奈は肩を上下させて、息を整えるように歩く。上位の三人も息は上がっているようだが、こちらよりは余裕が見て取れる。
美李奈はタイムなど気にしていないが、抜かれてしまったことが今になって悔しくなってくる。
「……ぐぎぎ!」
そんな風に上位陣を眺めているとすぐ後ろで恨みがましい声が聞こえる。美李奈は体操服の襟を軽く指でひっかけて風を送りながら振り返ると、額に擦り傷を作り、体操服を土で汚して、涙目になって麗美の姿があった。
「や、やり直しですわ!」
という風に騒いでみても結果は変わらないしやり直しも効くわけがない。理事長の孫であってもそこまではできないのだ。
審判役の教師は無言で首を横に振りながら麗美をコースから追い出すようにする。
「納得いきませんわ! あんな醜態をさらしたままなど!」
鼻血を出していないのが少しの救いなのかもしれないが、それ以上に麗美にとっては大勢の観客の前で恥を晒してしまったことが気に入らないようだ。
やれやれといった具合に美李奈は麗美の傍までよるとポンポンと彼女の肩を叩いた。
「おやめなさいな」
「ミーナさんもミーナさんですわ! なんで助けてくれなかったのです! 恩を仇で返すおつもりですか!」
麗美の言う恩とは前回の戦闘でのことだ。
「スポーツなのですから仕方ないでしょう? 次は転ばないようにお気をつけなさい」
「そうはいきませんわ! 於呂ヶ崎が恥をかいたままなど……! あっちょっと離しなさい!」
このままだと本気で運営委員会にまで噛みついていきそうな麗美の腕を美李奈は引っ張ってゆく。その間でもギャーギャーと麗美は文句を言っていたがこの様子ならリベンジと称して次の競技にも参加するだろう。
麗美を引っ張りながらも美李奈はなぜか自然と笑みがこぼれていた。幼い頃も麗美はこうやって結果に納得がいかないと騒いでは自分が治めていたなと思いだしたのだ。
「ちょっと何を笑ってますの」
「フフ、別に……さぁ、次の競技の準備をしましょう? そこで結果を出せばいいのですから。それに……」
観客たちが陣取るグラウンド上、丘のようになった芝生には生徒や教師の他にも生徒の親などの姿も見られる。多くは体育会系の生徒の親が大半ではあるのだが、そんな中にラフな服装の青年がいるのを美李奈は発見していた。
殆ど偶然ではあるが、その顔を美李奈は知っていた。霞城蓮司である。
「ほら、旦那様も麗美さんの頑張っている姿を見たいそうですし」
お世辞にもそういう風には見えないが単純な麗美を誘導するならそれ十分だ。
「本当ですわ! お兄様ー! 麗美はここでございますー!」
このようにパッと表情と思考を変えた麗美は満面の笑みを浮かべて両手を振った。対する蓮司は、反応を見せない。気が付いていないのか、はたまた面倒臭いのはか判断しかねるが、麗美はそんなこと気にせずまた大きな声で蓮司の名を叫んでいた。
「お兄様ー!」
まぁ、こういう風に騒がしい学生生活も良いものだなと美李奈は心から思うのだ。
昼過ぎを迎える予鈴の音楽が鳴る。
今日はヴァーミリオンの襲来はない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます