他人になる瞬間 満月と花火

8proof

他人になる瞬間

左側から見る彼女は時々細い目をしている。

それは視力の悪い彼女が遠くを見る際に現れる癖だった。


「目、悪かったっけ?」


「0.02あるから、まだマシな方よね」


「眼鏡すればいいのに。似合うと思うよ」


彼女の表情は変わらない。

もう何回も繰り返しする会話だからだろう。

僕は楽しいんだけどな。


「でも、君のそういう顔を見るのも好きだけどね」


僕は決まり文句を呟いた。


「どういう顔?」


彼女が僕を見ている。

瞳の白が透き通って見えた。

僕はただ彼女の世界に引きこまれる。


「目を細めた顔だよ」


僕はなんとか目を逸らす。

このまま見ているともう何もかも忘れてしまいたくなりそうだったからだ。

この先彼女が言うであろう言葉も僕は何も聞きたくなかったから。


「こんな顔?」


彼女がまた目を細めるともう世界は色を持っていた。


「うーん。やっぱり横顔がいいな」


「あ、そう」


彼女はまたそっぽを向くいたかと思えば突然大きな声で


「ねぇ、あれいこうよ」


踊りだすんじゃないかと思うほど目を輝かせていた。

彼女といると不思議だ。

僕は彼女の幼い頃を何一つ知らないけれど今の彼女を見ているだけで

僕はずっと前からこうして彼女を見ていたと錯覚できる。

それだけで幸せだった。


「ねぇってば、あれ、行こうよ」


僕がぼーっとしていたからか、彼女は急かす様に促した。

彼女の視線の先には夜空にとけ込む様にして光提灯がゆらゆらと揺れている。


「いまから?」


僕は時計を見る。もうすぐ21時になろうとしていた。


「もう終わるんじゃないかな。

 こういう小さなお祭りって早く始まって、夜遅くまではやらないよ」


「でもお祭りって毎日ないじゃない」


「毎日ないからお祭りは———」


「ねぇ、行こうよ。それに、私お祭りに行きたいんじゃないの。

 あなたと一緒に歩きたいだけなの」


茶化す僕の言葉を遮りながら彼女が言った。


「そうだね、歩こうか」


彼女が引き下がらないので、僕たちは歩くことにした。

いつ終わるか分からないお祭りへと向かって。


外は思ったよりもずっと夜だった。

生暖かい夜風が肌に触れる。

河原からきこえてくるカエルの声が物悲しく響き渡っている。

8月ももう終わろうとしている。

隣で歩く彼女はまた細い目をしていた。

けれど視線はどこを見るでもなくただ宙を彷徨っていた。

やっぱりなにかあるんだな。

僕は予感を拭いさりたかった。

彼女はなにか話したい事がある時も同じ様に細い目をするのだった。

その証拠に、歩き出してから一言も彼女は発しなかった。

彼女との時間が夜に溶ける様にして薄くなる。

踵に痛みが走ったと思えば、小石が靴に入り込んでいた。

先ほどまで土の上を歩いていたのにいつのまにか砂利が広がっている。

彼女はヒールを履いていて、歩きにくそうだった。

そう言えば彼女がヒール以外の靴を履いているのを見たことがなかった。


「て」


僕は手を差し出した。


「えっ?」


突然話しかけられた彼女は驚いたような表情だった。


「どうしたのさ、そんな顔して」


僕は取り繕う様に言った。


「ほら、手繋ごう。危ないから」


もう一度手を差し出すけれど、やっぱり彼女は黙ったままで僕の手を握らなかった。

彼女が僕に言いたい事は想像できる。


沈黙は夜をさらに色濃くしてゆく気がした。


「祭り終わっちゃうよ、歩こうか」


彼女の言葉を聞きたくなくて歩き出した。

彼女が次に発する言葉は、きっと僕たちが他人になる瞬間だろう。



とにかく必死だった。口も喉も皮膚もカラカラで体が重い。

僕はこの時初めて、自分が彼女と別れたくないのだなと理解した。

彼女との4年間を、彼女とのただただ甘い日々を終わらせたくなかった。



「秀二」


優しい声だった。他人のような。

夜に溶けてしまいそうなその声で僕の名前を呼んだ。

立ち止まるしかなかった。

僕は彼女の方を向かずにただ上を見た。僕の小さな最後の抵抗だ。


———あぁ、満月じゃないか。


夜を背にして僕めがけ真っ直ぐ光を届けていた。

今日は満月なのに。

そういえば、彼女と出会った日も満月だった。

いま、彼女はなにをみているのだろうか。

振り向かない僕を見て飽きれているだろうか。

情けないと蔑んでいるのだろうか。

それとも僕の視線の先を見つめているだろうか。

初めて出会った日を思い出しながら。


振り返れば全てわかる。


いま、彼女がなにを見ているのか。

全てわかる。

でも振り返ってしまったら、それが最後になるかもしれない。

彼女と僕が他人になる瞬間がきてしまうかもしれない。


悩む僕はやっぱり情けない。


僕はどうする事も出来ずにただ満月を見ているしかなかった。

満月は僕たちなんておかまいなしにただ煌煌と辺りを照らしている。

自然の法則に沿って。


「それでは皆さんお待ちかね、クライマックス花火です」


男性のアナウンスと歓声が遠くで聞こえてきたのと同時に空が淡く色づいていった。


せっかくの満月なのになと僕は思う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

他人になる瞬間 満月と花火 8proof @furaru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ