催眠述

はると

催眠述

乾いた空気に焚き火の香りが入り混じる頃、白瀬先輩はひょっこりと、僕の目の前にあらわれた。白い大型二輪を手で押して、いく道をふさぐと、「ひさしぶり」とはにかんだ。

いつか夢で見たようなといえば、少女が胸のうちに抱く、白馬にまたがった王子様のことだろうけど、僕にとっての白馬は懐かしさを感じさせるバイクの形をとって姿をあらわしたのだった。先輩の手なずけた白い巨体は従順でありながら、静まりかえった夕時の構内で、物言わぬ重圧を放っていた。ひとたびエンジンを吹かせば、すさまじい咆哮を上げて、どこまでも先輩を運んでいく。夕焼けを反射した茜色のバイクは、加速するほどに赤方偏移を重ねていくだろう。真っ赤な火球を随えて遠ざかっていく先輩のモノクロの後ろ姿を思い描く。夜をまとったようなライダースーツに身を包んだ先輩の長い髪は、どんな距離を隔てても、宇宙の果てのように色彩を隠している。

僕らは、久しぶりに挨拶を交わしたきり押し黙ったまま、大学の通用門まで歩いていった。門をくぐる段になって、先輩はいった。

「これから、スズメバチを退治するんだけど、来てくれるよね」

先輩から手渡されたヘルメットを僕はかぶった。ほんの一瞬だけ、季節外れの日焼け止めのにおいが漂った。

「帰りがけに、なんかごめんね」

先輩がバイクにまたがると、エンジンがうなり声を上げる。真後ろのタンデムシートから僕は腕を回す。暗黙の了解。これをしないと僕が死ぬ。

フルスロットルの始動に、先輩の髪ははためいて、僕の視界が分断される。耳をつんざくような風切り音に覆われて、なびく風圧にさらされて、まるで怒り狂ったスズメバチの大群に襲われているような心地になる。広い国道を直進している。

先輩はいった。スズメバチ退治だと。字面のとおり、かの猛毒を持った社会性昆虫の巣を撤去するわけではないはずだ。そもそも季節がちがう。春先から指数的な成長を経て夏に発見されるに至るのが典型的な蜂の巣だ。晩秋になってから破壊すべき巣に出会うなんて、発見者は怠け者か渡り鳥だったと疑わざるをえない。加えて、僕を誘う理由がない。僕はハチ退治のスペシャリストでもなんでもない。昆虫に対する知識があるわけでも、敵のコロニーを殲滅した実戦経験があるわけでもない。だから、これは素直なハチ退治ではないのだ。先輩のことだから、きっと気の利いた暗喩に違いない。

僕らは第一コーナーにさしかかった。右カーブ。先輩がバイクを右に倒す。しがみつく腕に力を込めると、先輩の緊張感も感じ取れた。カーブを抜けて車体を立て直すと、落ちついた呼吸のリズムに回帰する。

目的地へ向かうあいだ、僕らは乱流に阻まれて、ひとこと交わすことも叶わない。僕の前に座る先輩の、そんなに大きくない身体が、ひたすらに向かい風をねじ曲げていくのを感じながら、僕はただ想像するしかなかった。

まだ幼かった頃、僕は特殊相対性理論に関して間抜けな誤解をしていた。正の実数の静止質量を持つ限り、物体はいくら加速をしても光速を越えないという。光速に近づいた物体は、時間の進行を緩やかに感じるという奇妙な性質が記述されているのだとか。亜光速で地球を周回する宇宙船に一日乗って、地表に降り立つと、不思議なことにカレンダーは二枚も三枚もめくられている。ウミガメの背中で繰り広げられたかび臭い昔話が突然銀色の流線型に姿を変えて舞い戻ってきたことに僕の童心は不気味を覚えた。

時間も長さも相対的、言うなれば測り方の問題だ。さて、当時の僕はそんなこともつゆ知らず、一日というものが日付変更線に決められているのだと無垢に信じていた。東のハワイから日付変更線を越えた西のマーシャル諸島に赴けば、時間は一日進んでいる。逆向きに進めば、過去に一日さかのぼる。歴史上、はじめてこの疑似タイムトラベルを体験したのは、世界一周航海に挑んだマゼラン一行だったという。西回りの旅程を終えてスペインに上陸すると、航海日誌の日付が一日足りないことに気がついた。地球が丸いことに慣れていない彼らに大混乱をもたらしたことは想像にかたくない。

僕の犯した誤解も、その混乱に絡んだものだった。宇宙船でなくてもいい。とても速い飛行機で、西向きに飛んでいく。日付変更線を追い越すと、地表の日付は一日進む。これをくり返せば僕らは未来にいるではないか。小学生だったとはいえ、こんなアホなことを考えていた。もちろん、小学生であっても、この方法に欠陥があることはすぐに気がついた。まずは時差のこと。日付変更線で二四時間加算されても、赤道をなぞって進んでいけば、一万七千キロ進むごとに一時間ずつ引かれていく。光速のこと。日付変更線を追い越すのには大きな速度は必要ない。僕だって光がとてつもなく速いことを知っていて、一秒で地球を七周半するなら、彼らは一秒を一週間のように感じるのだろうかと怪しんだ。否、彼らにとって時間は停止しているはずなのである。飛行の向きのこと。西向きに変更線をまたぐことで未来にいることを仮定すると、東に飛んだとき、過去へいくことになってしまわないか。ナンセンスだと気づいた僕が、正確に特殊相対性理論を把握できるのは、その数年後のことである。

白くて獰猛な化け物は僕らを乗せてひたすら進んでいた。日付変更線へ向かっているのか、地球の自転にあらがおうとしているのか、僕にはもうわからない。空に浮かぶ雲からは夕焼け色が抜けきって方角のない対照的な世界をつくっていた。グレーに沈んだアスファルトは、規則的な街灯の明滅に照らされてタイヤの下を流れていく。一秒ごとに拍を打つ心臓が僕の固有時間を守っていた。

先輩がどんな時間に生きているのか、僕は知らない。国道脇から無灯火の自転車が飛び出してきても、このひとは避けることができるだろう。交差点にスフィンクスが立ちはだかっても怪物の謎々はこのひとを数秒も留めることはしない。そうかと思えば、未来なんてあっという間よと、いったりもする。珍しい皆既月食を曇天で逃しても、半年後の月食を待つことをいとわない。そういえば先輩が僕に姿を見せるのも、かれこれ一年ぶりなのである。

「十年は短いけれど、千年は長すぎるでしょ」

先輩は人生の長さを語るとき、よくこんな言葉を引き合いに出した。僕にいれば、人生で重きを占めるのは最初の二十年、百歩譲って三十年だし、その後に数十年続こうとそれは蛇足でしかない。人生の短さには絶望するほかない。きみは意外に恋愛至上主義なのねと笑われたけど、地球生命圏の一員として、僕は決して異端ではないはずだ。小市民的幸福が文明の原動力であることなんて今更指摘するまでもない。一日千秋の心持ちで過ごした出口で出会う、「千年は長すぎるでしょ」のなんて残酷なことか!

意地悪な先輩は、理想の恋人の三条件を挙げろといった。閾値を超えれば、弄ばれる心地よさに酔いしれて、先輩の小悪魔的断片への衝動は霧散する。

僕はこう答えた。

「好奇心旺盛であること。笑顔が素敵であること。思想を持っていること」

先輩は真面目な表情をした。

「美形、やさしい、お金持ち」

それで、いままでの僕らの会話をひっくるめて一笑に付すと、「わたしよりすごいひとなら誰でもいいわ」と、無責任を述べるのだった。

鼻腔をくすぐる潮のにおいで、バイクが海沿いにさしかかったのを暗闇の中で感じた。車は少なくなり、ときおり対向車が通り過ぎてゆくのみである。工業地帯の薄明かりを右手に、遠く開けた水平線の気配を左手に、湾岸道路を進んでいく。道筋は緩やかな左カーブで、遠く左前方で瞬いている灯台が、僕らを手招きしているようだった。

僕はどこへ連れて行かれようとしているのだろうか。

世の中には、自分は宇宙人に誘拐された経験を持つと主張する人々が少なからず存在するらしい。未知の技術に支えられた遠距離への宇宙旅行、エイリアンとの肉体的接触、地球には存在しない言語や文化を彼らは語る。それが事実なのか幻覚なのかはわからない。いずれにしても、人間のもつ、世界を観察し解釈する機能の産物なのだ。金星へ旅行するだなんて、現代科学の視点から以てすればあまりに馬鹿げている。しかし一世紀前の人類は温暖湿潤でジャングルめいた金星表面を夢想していたのだ。旅行者を笑い飛ばす資格など誰にも与えられまい。そもそも、僕らは錯覚の上に生きている。夢を現実から区別できると慢心している。現実の認識を夢で反芻していると確信している。

夢に胡蝶となるとは、よくいったもので、僕らの感じるこの現実が、夢の中で見ている入れ子の夢でないと誰が保証するのだろうか。卵が先か鶏が先かという愚問愚答をひねったような愚論だけれど、きっとこんな反駁もあるだろう。「現実世界では歴とした物理法則に従って物体は運動するが、夢の中ではそれら諸法則は破綻している」と。分からず屋の言い分だ。物理法則の存在する世界こそ、自由度の高い夢の世界に包摂されうる存在ではないか。夢を、抑圧された願望のあらわれと見る向きもあろうが、それは、実現しない現実にほかならない。もしも、この世界に生きる人間の脳に宿る幻視を夢とみなすのならば、実現しない現実が現に存在することになる。そんなはずはない。夢は現実の外にある。

こう言い換えるのがより妥当だろう。現実は夢の中にあると。いわゆる現実世界というのは、規則性という制約を課して計算量を削減したシミュレーションではないか。僕らの暮らす現実世界というのは明日見る夢の、あるいは未来の夢で見る不可思議のあらかじめはじき出された数値解でしかないのかもしれない。どんなに計算資源を費やしたところで、どんな実験を計画したところで、現実の現実性を担保するものを僕らは決して打ち立てられないだろう。

それでもかまわない。シャボン玉の内側と外側、どちらが僕らの住み処なのか、宇宙の果ての曲面がどんな曲率なのか、そんな妄想を役立てるには僕らの寿命の桁が足りないからだ。七色に光り輝く薄膜のその割れやすさに鑑みれば、僕らにとって大切なのはその球面の性質ではなく、わけ隔てられた空気という媒質ではないだろうか。

空気のように満ちあふれたもの、それは不可思議である。夢も現実も、不可思議の中に浮いている。夢に宿る不可思議は無分別に湧き出し続け、その残滓は現実世界を侵食する。漏れ出た現実の不可思議は物理法則の包囲網をかいくぐり、束縛からの解放を僕らは脳裏に想起する。僕らは不可思議に接して感じるに違いない。ああ、なんと美しい!

いかなる周期、振幅であれ、精神の活動は不可思議に掌握されている。

正方形は美しい、闇夜の星明かりは美しい、さざ波のささやきは美しい、金木犀の芳香は美しい、果実の一口は美しい、前腕から伝わる先輩の息づかいもなお、美しい。

先輩と二人乗りしたこの小さな空間が、僕にとって世界の全てのように感じられる瞬間があった。世界を包み込むシャボンの膜はゆらぎながら拡張と収縮をくり返し、そのたびに不可思議の流束が肌を撫でた。夢であれ現実であれ、これからどこへ向かおうとも、きっと不可思議で美しい場所が待っているのだろう。

手放しに褒め称えられるような、俗世の雑事から切り離された世界をひとは理想郷と呼ぶ。あるいはユートピアとも呼び習わされてきた。

不自由のない生活を約束された世界。その音をとれば、どこにも存在しない場所という意味で捉えることもできるだろう。竜宮城かイーハトーブかあるいはどこかの社会主義体制か。歴史上、ユートピアの建設は実際にもしくは創作の中で幾度となく試みられ、挫折することをくり返してきた。世界が多次元にわたるシーソーであるとみなせば、重要なのはバランスだといよう。秩序を重んじれば、思想や価値観は画一化され、混沌を好めば動乱の世となるだろう。平等な社会では個性が滅し、不平等には憎悪が巣くう。かといって、シーソーが水平を保てば、時間が止まる。理性は理想に達しえないのだ。

「万人の価値観が完全に不一致ならばいいのに」

先輩はそうため息を漏らしたことがあった。そもそも人間の感じる幸福とは相対的な位置関係の指標である。それも多次元の評価軸から構成されていて、三次元以上の空間をまともに認識できない僕らにとって、このシステムははじめから瓦解している。だから評価軸に偏った重みづけを施して簡略化する。資産、才能、人望、愛情などとカテゴリ化して、大胆な数値化を試みる。社会とは価値観の画一化に合意した衰弱思考の集合なのだ。

知性が厳密に多次元を把握できていたならば、おそらく僕らはみな平等に幸せだったはずなのだ。近似した演算で評価軸をそぎ落とすことで、幸不幸の幻影は生み出された。みんなで仲良く幸せになろう、というのは僕らが既存の認識方式すなわち低次元の価値観を脱却できない限り、原理的に不可能なのである。

より致命的なのはそれを比較する不等号である。僕らの不等号はイコールを欠いている。以上でなくてより大きい、以下ではなくて未満であることを重視する。

僕らの生まれ持った決定的欠陥だ。平常では不満なのだ。

実際の生態系に目を移せば、熱帯雨林の大木も、サバンナを駆ける哺乳動物たちも、海洋をめぐる魚群でさえも、常に飢えている。エネルギーを得るたびに、それをつぎなる発展のために投資して、体内に蓄えられたエネルギーが過剰になることはほとんどない。ひとつのフィールドで競争を続けた同志たちである。足並みをそろえた進化の結果、構成員全てがハングリーに甘んじるというのは、必然だったのかもしれない。

人間だって変わらない。精神的慢性飢餓に悩まされない日など来ない。経済だってそうだ。僕が物心つく遙か前にこの国で起きた軒並みの成長は、まったく不安定な現象で、ほとぼりの収束した頃には、高齢者も若者も企業も被雇用者も、そろって金欠に喘ぐ惨めな社会が残された。いつでも少し物足りない。それとも、いつもどおりを少し物足りなく感じるからこそ、ここまでやってこられたのかもしれない。泡とはじけた過去を懐かしむこともできない。

「妄想を膨らませすぎても、破裂するだけよ」

鼻提灯をつつき割るような、鋭い声に我に返った。

バイクを降りて地面に足をつける。

止まったのはどうやら柔らかな砂浜の上のようだ。地上で唯一の光源となったヘッドライトが波打ち際に延びていて、砂浜の細い煌めきは、置き去りにされた天の川に見えた。

行きつ戻りつ砕ける白波が、光の帯を躍動させる。

チャプチャプと先輩が裸足になって波に戯れていた。僕も靴を脱いで潮の香りを吸い込んだ。砂浜でひからびたヒトデに軽くつまずいて、勢いづいた足先が飛沫を散らして海を蹴る。僕に手を伸ばして先輩はうなずいた。手をとる。沖へと一歩を踏み出した。

生命は海で誕生した。一世代前の定説だ。有機物をたんまりたたえた原始スープの中で偶然に自己複製能を持つ分子が合成されたという筋書きだ。細胞内のイオン組成を根拠にした温泉起源説が昨今もてはやされるようになったけれど、多細胞生物の体液は比較的海水に近い組成をしていることに鑑みれば、生命が温泉で生まれたことが正しくとも、どうやら温泉由来の生命が海に下り、そこで多細胞化したというのが真実なのだろう。温泉につかれば身体は素直にほぐされるけれど、海を見ても心は癒やされるのだから、まさに人体に刻まれた進化の歴史を体現しているようではないか。

先輩が海を選んだのも、先輩なりの考えがあってのことだ。僕はなにもいわずに、ただただ胸元まで迫った海面とにらめっこをした。海底はなだらかに傾斜をする。岸を振り返ることもせず、ひたすらに海になる。

空を見上げた。陸は見捨てても、宇宙への未練を残していた。僕らの理解の及ばない幾光年もの遠くから光子が降り注ぎ、この惑星の夜空を彩っている。僕らは紛れもなく宇宙の一部であることを突きつけられ、些細な人生が癒やされたり、ちっぽけである不安を煽られたりする。

一波、あたまを越える水塊が僕らを包み込んだ。亀の甲羅にまたがった浦島太郎は、竜宮城への航路の中途、一度は海面を横切ったことだろう。助けた亀が潜水をはじめる瞬間、恐怖したのだろうか。握ったままの手が、強く海底へと引き込まれた。あらがいがたい潮の流れは僕を水面下へ押しやり、肺の空気を押し出した。

海は思ったよりも深く、明るかった。浮力に支えられた柔らかな着地が、這っているヒトデたちを軽く巻き上げた。鈍った慣性に隣の宇宙のゆがんだ物理を垣間見て安堵する。ほの明るいのは、ヒトデたちが黄色く燐光を放っているからだった。腰の高さで星のように舞っているヒトデを眺めて先輩はほほえんでいた。そういえば、僕だって海水の中で目を開けたのははじめてのことだった。よく見れば、赤や青のヒトデもいた。

海底は穏やかで、散策するにはもってこいだった。月面に着陸した宇宙飛行士のように、乾燥した大地で跳ねるカンガルーのように、大きな放物線を重ねていった。砂の上に、星の数ほどヒトデが散らばり、天井には全反射した色とりどりの煌めきが波の裏側で揺らめいていた。九二度、水の臨界角に規定された円形の窓が真上の天井に穿たれて、宇宙の景色を写しだしている。あまりの華やかさに、僕は呼吸することを忘れてしまった。

水深、一〇メートル。窓から覗いた天の川の奥行きは、一〇万光年。仰ぎ見れば、高圧電線のチリチリ音を耳元で聞かされているような落ちつかない気分になる。耳鳴りは増幅されたニューロンの雑音だという。無音状態に置かれた聴覚が、必死に信号を拾おうと試みて、不確定な混線、脳内の微弱な電流をうっかり聞いてしまうのだ。キャベツ一玉の空間に充填されたミクロな金平糖は、全か無かのパルス信号を縦横無尽に響かせあって、夢と現実を混ぜ合わせている。

開いた瞳孔に夜空が染みこむとき、視覚もまた戸惑っている。色彩に富んだ海中世界をくりぬいて大きく口を開けた頭上の暗黒に、僕は星屑を見いだした。水面で色収差を得て、水晶体の縫合線で回折し、彼らは網膜に、虹色のヒトデとして写る。いにしえの時代、天球を飾る恒星たちは、昼は海の底に沈んで眠ると、考えられることもあった。夜によみがえり輝きを取り戻す存在は、復活の象徴として捉えられ、その思想は、エジプト、ウナス王のピラミッドの玄室に描かれた天井のヒトデからも窺い知れる。

いまや僕は、帳の降りた暗い海にも、なおあまりある星たちが沈んでいることを知った。彼らの真の居所は、空なのか海なのか。もはや、これだけの星があるのなら、空も海も変わらないのかもしれない。

イルミネーションを数えながらの海底散歩は、長らく無音だった。ひとは水中で声を発することもできないし、握った指先から先輩の声が骨伝導で聞こえてくることもなかった。

「ねえ」

先輩の口からあぶくが漏れた。無から生じた泡の一粒は、猛烈な勢いで拡大し、瞬く間に僕はシャボンのような干渉縞に飲み込まれる。宇宙開闢を外から眺めるようだった。

「これから、どこへいこうとしているか、わかるかしら?」

僕らは呼吸ができるようになっていた。水の粘性は失われ、それでも屈折率と浮力が保たれていることが、あたりの様子から察せられた。

「たしか、スズメバチ退治ですよね」

「ちがうわ。それは、なにをしにいくか。わたしが訊いたのは、どこへいくか」

「深海ですか」

「それもいいわね。でもきみは宇宙にいきたいんでしょ?」

つぎのデートはどこへいこうか。こういう男女のもめ事をバッハ・ストラヴィンスキーゲームといったりする。このゲームの最適解は、パートナーに行動をあわせることだ。先輩が海にいくなら僕は海にいく。あるいは正反対に、僕のいきたい宇宙に先輩がついてきてくれるというのも解に含まれる。

しかして、歩き進んだその先の、カフェテラスで僕は答えにありついた。

飾り気のない丸テーブルを囲んで腰を下ろす。見回すと、四方八方、壁も天井も真っ白で、網膜に負担をかけそうな殺風景だった。

ちょこんと置かれたお品書きには、「展望カフェ」の字が躍っていた。なのに見晴らしはきわめて制限されていて、視線でぐるりと走査しても、その屋号に反して、奥行きのある眺めにぶつからないのだ。展望の名にふさわしい構造は、近くの壁についている手のひらほどの丸窓だけだった。窓からは、海の明かりが溢れている。

「近寄って、見上げてご覧なさい」

椅子から立ち上がって、壁へ歩み寄ろうとすると、身体が大きく浮かび上がった。前にも増して重力感が薄れている。そして、窓をのぞき込んで、ようやく現在地を認識するに至った。

窓を照らしていたほのかな光は、たしかに海の光だった。同時にそれは、地球の青だった。僕らがやってきたのは、高度約九万キロメートル、地球の静止衛星軌道の遙か上に設置された接続型プラットフォーム、つまりは宇宙エレベーター最上部の展望室だった。

「驚いたでしょ」

いたずらっぽく先輩がはにかんでいる。

窓から見上げたところに、磨き上げられたボーリング玉が浮かんでいるようだった。真っ暗な宇宙を裏切る青いぎらつきだった。この展望台では、公転による遠心力が地球の引力に勝り、天地が反転している。室内に目を戻すと、僕も机も先輩も、天井から生えてきているような錯覚に襲われた。ウェイトレスが置いていった紅茶は逆さまに波立つけれど、地球に向かって雨のように降り注ぐことはない。母なる地球が満水のバケツを振り回す遊びに興じているのだと想像するとほほえましいけれど、秒速六キロを超える速度で振り回されているのだからぞっとする。僕は宇宙から目をそらした。席に戻って腰を落ちつける。

机の上には、六角形を敷き詰めた図が示されていた。ハニカム構造、蜂の巣だ。先輩はほおづえをつきながら、数ある六角形の中に鉛筆で数字を書き込んでいった。

「セルマップっていうのよ」

蜂の巣は、六角柱の育房をひとつのモジュールとして、その組み合わせでできている。育房のひとつずつに卵や幼虫やサナギがいて、働き蜂に守られている。セルマップは、そういう巣の様子を記録する様式だ。六角形の中に卵があれば、○を書き込み、幼虫の齢にあわせて数字を記す。サナギの場合は斜線を引く。サナギが脱皮して育房が空になると、二度目の子育てがはじまる。そんなときはちがう色で、例えば赤色で新しい情報を加えていくのだそうだ。

「それで、先輩が描いたこの巣はどこにあるんですか」

先輩は無言で真上を指さした。天上天下唯我独尊とでも言いたげに。

宇宙に寄り道してから地表のスズメバチを相手にするなんてことはないだろう。きっともっとスケールの大きいものが相手のはずだ。でも、米国国防省は五角形だし、六角形を基調とした新都市計画というのも、今のところ実現したという話は聞いたことがない。

「いいえ。存在するわ。中心地理論を持ち出すまでもなく」

「どこにです」

「文明を覆い尽くす網の目が、きみには見えないのね」

やれやれとでも言いたげに先輩は眉を曇らす。

「まあ、目に見えないのは当然といっては、当然なんだけれど」

「インターネットですか」

「それもそう」

おかしな話だった。大小様々な規模の都市が幾何学的構造に収まるように配置されるのは、都市間の物流などが距離に大きく左右されるせいだ。

「でも、遠隔通信は距離の制約を受けませんし、特徴ある地理的構造をとるとは思えないのですけど」

「いいえ。実際の計量地理においても、都市間の単純な位置関係が六角形構造に収まることは滅多にないわ。費用、時間、労力を組み入れた経済距離によってようやくその配置が定量化されるの。同様に、張り巡らされたリンクを辿っていくことで、情報の距離空間を定義できる」

「それもハニカム構造をとるんですか」

「外から見るだけでは、わからないかな。スズメバチの巣だって同じでしょ。幾層にも重なる巣盤を、気の狂ったガス惑星のような縞々柄の外皮がとりまいている」

キイロスズメバチの巣は、外から見れば球体だ。その中にいわゆる六角形の反復が収められている。

「情報も、中心部のハニカムを包み隠した構造をとっているのですね」

「そう」

先輩は、書き上げたセルマップにテンポよく鉛筆を滑らせて、斜線の網に埋めてしまった。

「それを、退治するんですか」

「まあね」

「どうやって」

「それをいま考え中」

放り出した鉛筆が軽やかな音を立てて机の上を転がった。

「まじですか」

ここまで来て、先輩が考えなしだったというのは意外だった。

「わたしとしては、構造を破壊するつもりはないの。その内部に収まっているある種の毒を無効化したいだけ。でも、それが存外むずかしい」

いやな予感がして、僕は念を押すことにした。

「この展望台を自由落下させて、地表を物理的に攻撃する、とかやめてくださいよ」

先輩は吹き出した。横隔膜のけいれんを抱え込んで押さえつけ、深呼吸した。

「急になにを言い出すの。相手はネットワークよ。数キロメートル四方を穴だらけにしたところで期待するほどの損傷を与えられるわけないじゃない」

「僕の夢はいつも落下オチなんです。でも今回は高さ九万キロです。正気を保てません」

超音速で今日の時空に再突入するだなんてまっぴらごめんだった。

「いったいどうしたの。きみのいつもの夢の話を聞かされても知らないわ」

僕は、腕時計を確かめて、それから切り出した。

「非常に申し上げにくいことなんですけれど、実はそろそろ時間なんです」

ふうんと、取り澄ました顔をして、先輩は三回まばたきをした。

「わたしとしては、いつ切り上げてくれてもいいのよ」

まあ、夢にも限りはあるからねと、紅茶を一口すする。

「でも、もう一度、腕時計をよくご覧なさい」

いわれるがままに文字盤を睨みつけた。秒針は止まっていた。窓の外を見ろと先輩がいうから、身体を浮かせて窓辺に寄った。先輩も飛んできて、僕の裾をつかんで着地した。

球体と化した青い海が、静止している。先輩も隣に立って球を見やる。

「綺麗な星よね」

エレベーターの軌道は延々と真上に伸びて、根元は太平洋の南米付近に達していた。ガラパゴス諸島のあたりだろうか。

「ねえ、エッフェル塔がきらいだったモーパッサンという作家を知っている?」

「エッフェル塔を見たくないがために、塔の一階のレストランに通っていたひとですか」

「そう。きらいだったら中へ入ってしまえばいい。よくわかるわ。じゃあ、好きでたまらないひとはどうすればいいの」

「その論でいくと、外から眺めればいいということになりますね。正確にいえば、外から眺めるひとならばエッフェル塔が好きなひと、ではありますけど」

「そうよね。そしてわたしも、外へ飛び出してみたかったの」

先輩は地球を指さしていった。

「わたしたちは、空間的にも時間的にも、あの表面からなかなか抜け出せずにいる。重力が文明の進化時計を遅らせているの」

地に足がつかなければあたまだって働かない。僕たちの生活空間がいまだに地表と重力に依存していてるのはやむをえないことでもある。

「でも、そういうところを全部含めて、わたしは世界を愛している。こんな大仰な建造物をつくってしまおうって、想像するだけでもたいしたものだと思わない?」

先輩は丸窓の鉄枠をやさしく撫でた。

いまでは誰もが知っている青くて丸いイメージは、人類にとって当たり前だった地球という存在を、有限で守るべき対象に改めるきっかけになったけれど、冷戦下に熾烈を極めた宇宙開発競争の副産物なのだ。外から見ないとわからないことなんてきっと山ほどあるのだろうし、外部への脱出手段というのは往々にして刺激に溢れている。

「この宇宙エレベーターの重心は、高度四万キロ、静止衛星軌道付近に存在しているの。わたしたちは、ここではじめて重力からも時間からも解放されるのよ」

「時間からも?」

腕時計を検めた。先輩の言葉どおり、秒針は凍ったままだ。

「そう。考えてもみて。このエレベーター全体は地球の自転に同期する。このサイズの建築物だもの。そうしなければあっという間に崩壊するわ」

「それはわかりますよ。だから重心付近では無重量となって、さらに上がったこの展望室では天地がひっくり返るんです」

先輩はゆっくり首を振った。

「同期しているがゆえに、地球は常に等しい面をこちらに向けている。わかる?」

こんどは僕が曖昧に首をかしげる番だった。記憶をさかのぼる。間抜けな誤解。

「この展望室の時刻を考えるとき、それは地上基地の時刻と一致する。時差は存在しない。地球の自転と等速で運動する物体の時刻は」

僕は言葉をついだ。

「進みもしないし、戻りもしない」

日付変更線をまたがずに過去や未来へは行き来できないのだ。

「そのとおり。わかっているじゃない。大航海時代でいうところの時間停止というわけ。だから、いまはずっといまのまま」

「時間の矢と時差をごっちゃにしたようなこんな議論は、僕が小学生だったときのしょうもない話です。全然当てになりません」

「でも、これ、きみの夢の話よ?」

無限遠で虹色のシャボン膜がせせら笑うようにさざめきだった。ぐうの音も出ない。

「急いでいるというのなら、わたしは止めないわ。きみの勝手にしてちょうだい」

「僕の勝手といっても。そもそもはじめの目的は、スズメバチ退治でしたよね。その手段を考えないことには終われませんよ」

「やさしいのね。でもだいじょうぶ。方法はもう思いついたから」

悪だくみをしている表情だった。背筋に寒気が走る。

おそるおそる聞き出す。

「どんな方法ですか」

「エレベーターを断裂させるの」

いうが否や、衝撃音がして、心臓が止まる。ちがう。いままで止まっていた心臓が急に動きだしたんだと僕は気づく。すぐに展望カフェは浮遊感に包まれた。

「これ、落ちてますよね」

無重量感をこらえて声の震えを静まらせる。僕は内心で先輩のことを詰りたくてしょうがなかった。

「いいえ。下降でなくて、上昇よ」

窓の外では地球が遠ざかっている。重力より遠心力が勝っているのだ。先輩は上昇といった。見た目にはその言葉は正しそうだ。でも、向きがどうあれ、この運動が自由落下であることに変わりはない。

「いいじゃない。束縛されない運動というのも。ゆがんだ時空に沿って直線運動しましょうよ」

時計の秒針がごくごくゆっくり動き始めていた。海が偏移して赤色に見えている。相対論的速度で遠ざかっている。遠のくマーブル模様に、僕は任務を思い出す。

「これ、スズメバチの解決になっているんですか?」

先輩はほんの少し表情を曇らせたけど、すぐに口元を緩ませた。

「なっているわ。彼らの脅威は距離の二乗に反比例する。退治をするまでもなく、空間を隔てることで、わたしたちの安全は確保される」

僕は呆れて肩をすくめた。害を恐れて全てを追いやっては、手元になにも残らないじゃないか。

「なにも残らない? でも、ここにはきみがいてくれるもの」

この白い部屋に二人きりで閉じ込められて、なすすべもなく宇宙の果てへ沈んでいく。もう窒息してしまいそうだ。僕の心臓が高らかに拍を打ち始める。

先輩の手のひらが僕の頸動脈に伸びる。一秒、二秒と僕の脈拍を数えていく。

「そう、それがきみの感じるほんとうの時間」

心地よいくすぐったさが、加速する血液に乗って、脳関門を突破する。もう一秒がわからない。一瞬が永遠にも感じられ、あるいは永遠が一瞬のような気もしてくる。  了




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