02
ぎしり。と音を立てて、床が歪んだ。
「この家、結構痛んでるわ。気をつけろよ」
「……おう」
ぎいと扉が閉まっていく。
風の音。
蝉の声。
木の葉のさざめきが、本を閉じるように遠ざかる。
「タツ兄、明かり持ってねえの?」
「うーん、ここまで暗いと思わなかったかんなあ」
達也はジーパンのポケットの中をごそりと探った。
「あ」
握りしめた手のひらから、魔法のように出てきた物。
「マッチ?」
「入れっぱなしだったわ」
「これ使うん?」
「ないよりましだろ」
暗闇に、ぽうと赤い火が灯った。
「行くぞ」
確かに、ないよりはましである。
床が歪む。
一階には扉が二つ。
中央の階段を挟んだそこの右側は簡易な台所があるだけであった。
左側の扉をに入ると、暖炉と備え付けられた飾り棚。
「いいもんめっけ」
達也は飾り棚に手を伸ばす。三股の燭台だ。備え付けられている蝋燭も、まだ溶けきっていなかった。
その全てに火を灯すと、ようやく部屋が一望できるくらいの明るさとなる。
左の部屋は、どうやら書斎のようであった。
壁一面の本棚に、大小のソファセット。木彫りのローテーブル。
その上に、埃をかぶった本が置いてあった。ずいぶんと昔からそこにあったに違いない。本の上には分厚い埃が層となっている。
達也はそれを取り上げた。燭台でかざすと、どうやら日記のようであった。
「これ、じいちゃんのだ……」
埃まみれの革の表紙、その右下に、うっすらと雅号が記されているのが分かった。
「頼む」
燭台を和也に押しやると、達也は本についた埃をざっと払った。
ゆっくりとその日記を開く。
ぱらぱらと捲ると、その度に、埃が蝋燭の明かりにぶわりと舞うのが見えた。
「なんも書いてねえな」
「使う前だったとか?」
「あ、ちょっと待て」
ページを繰る手が止まった。
「これ」
――八月十三日。
――今年も、蓋が開いた。
――描かねばなるまい。
――導くものが、必要だ。
「八月十三日って」
「一昨日だ」
――八月十四日。
――足が、たりぬ。
――絵の具では駄目なのだろうか。
「足?」
きっもちわりいなあ、と、達也が呟く。
足。
和也の脳裏に、先ほどの足がよぎった。
膝から下の。やせ細った。
足が、たりぬ。
たりぬ、とは、どういうことであろう。
――八月十五日。
――どうやら上手くいったようだ。
――飛び立った。
――すべてのたましいにさいわいあれ。
二人は顔を見合わせる
「分かるか?」
「さっぱり」
「じいちゃん、ポエムでも書いてたのかな」
達也はそう言って、日記を机の上に戻した。
「よし、行くぞ!」
「え!? もう帰るんじゃないのかよ!!」
「何言ってんだよ。これからがメインディッシュだろ」
「はあ!?」
「に・か・い」
「二階!?」
「ほれ行くぞ!」
「あ、タツ兄!!」
燭台をもぎ取ると、達也はもう扉を出ていこうとしている。和也は慌てて後を追った。
中央の階段を一段一段、踏みしめながら上っていく。ぶわりとたわむその感触に、和也はぶるりと身を震わせた。
「腐ってら……」
達也はいち早く踊り場に着いたようであった。
「気をつけろよ。落ちたらやべえからな」
確かに、落ちたら洒落にならない。
一段。
一段。
階段をきしませながら、慎重に上る。
その音に。
音が、被った。
「えっ」
――おかしい。
「タツ兄。ちょっと待って」
達也は踊り場からこちらを見下ろしている。燭台の明かりが揺れ、踊り場を挟んで左右に上る階段に光が遊んでいる。
「どうしたんだよ」
「何か、変だ」
「は?」
もう一段。
――やっぱり、おかしい。
「タツ兄」
「だから、なんだよ!」
「……なんで」
――タツ兄は、動いていないのに。
もうひとつ、足音がするのである。
「おい」
燭台の光が乱反射する。
達也の顔から、血の気が引いていくのを、和也は見逃さなかった。
「た、たつ……兄?」
視線は和也を通り越し、その後ろに注がれている。
どうしたと、言うのだ。
和也はゆっくりと振り返り――。
「見るな!」
達也が、叫んだ。
「――走れ」
「は」
「走れ!!」
怒号に弾かれるように、和也は走った。
一気に階段を駆け上り、踊り場を駆け抜け、右の階段をまた駆け上る。
鼓動が跳ねる。
横腹が痛い。
気にしていられない。
達也の制止は、間に合わなかったのだ。
和也は、見てしまった。
燭台の明かりが照らし出した。
自らの後ろに。
無数の。
膝から下の。
足が。
もう振り返らなくても、分かっている。
来ている。
すぐ、そこまで。
回廊を走る。
二階には部屋が一つしかないようであった。
木製の枠にはめ殺しの曇りガラス。
そこから光が透けて見える。
明るい。
――あそこまで、行けば。
無数の足音が、迫る。
観音開きのそれを勢いよく開けて、二人は中に転がり込んだ。扉を勢いよく閉める。閂型の鍵をおろし、二人はようやく息を吐く。
走っているうちに、消えてしまったのだろう。達也は燭台を無造作に置いた。
「だい、じょう、ぶ、か」
「お、う……」
それ以上は言葉にならなかった。急な運動で肺が悲鳴を上げている。
その部屋は、明るかった。
ガラス張りの大きな窓から、西日が差し込んでいる。
そういえば、まだ明るい時間だったのだ。そのことを思い出し、和也はほうと息を吐いた。
「おい……」
達也が呟く。その、指さす先を見て、和也も息を呑んだ。
斜陽がちょうどかかる位置、その壁一面の、床から天井までを覆い尽くすように。
真っ赤な、絵が描かれていた。
まさに燃えるような絵であった。
壁一面に広がる橙色は、上は黄金色に輝き、下に行くにつれて赤く、黒くなる。
炎だ。渦をまいている。。
赤黒い炎の中に、黒い影が蠢いていた。
その燃える大地に、一羽のカラスが、いた。大きな羽を広げて、今まさに、飛び立とうとしている姿であった。
「じいちゃんの、絵……」
立ち上がり、そっと近づいた。
「この絵、なんか……」
達也がぼそりと呟いた。
「なんか、苦しい」
どん、と扉から音がする。
――やつらだ。
頭では分かっているのだ。
逃げなければ、ならない。
けれど、足が動かない。
絵から目を離すことができないのだ。
きっと達也も同じなのだろう。
和也の心を満たしているのは、恐怖ではなかった。
もっと奥をえぐるような、息をするのも苦しいような、例えるなら。
「た、つ、兄」
「……おう」
すう、と涙が流れた。
何故だかわからない。ただ途方もなく、胸が痛んだ。
――熱い。
急に温度が上がった気がする。
斜陽のせいではない。もっと直接的な、火であぶられているような。
泣き声が響いた。
いつの間に入ってきたのだろう、足が、二人を取り囲んでいる。
その、裸足から、火が吹き出した。
燃え上がる。
二人は、絶望に、包囲されている。
――ミズヲ。
――アツイ。
――ミズヲ。
――アツイ。
叫びは渦となり、金色の夕日に、赤黒い炎に照らされている。
燃える。
燃える。
全てが灰になる。
炎を纏ったその足が、黒に染まって崩れていく。
――かあ。
そのとき、カラスが、鳴いた。
声に呼応するように、窓から一筋の光が伸びる。伸びた光は、壁に描かれていたカラスの体を照らし出す。
その、太陽にあぶりだされるように。
三本目の足が。
光り輝く足が、描き出されたのである。
三本足のカラスは、黄金色に輝いていた。
「おい」
達也が呟いた。
「俺、わっかんねえけど」
「……うん」
「なんか」
「うん」
集まってくる。
膝から下だけの者たちが。
――そうか。
この者たちは、和也たちを追いかけてきたのではないのだ。
きっと。おそらく、この場所だけを、最初からひたすらに、目指していたに違いない。
カラスの目がくるりと動く。
――かあ。
その鳴き声とともに。
光が、部屋を満たしていく。
射られるほどの強いそれに、思わず目をきつく瞑った。
そのとき和也は、確かに聞いたのである。
空を駆けるカラスの。
力強い、風を切る音を。
目を開けると、そこにカラスは居なかった。
ただ、描かれているのは。
一面の黄金色の絵。
金に染まった山の稜線に、真っ赤な、夕日が沈もうとしている。
それだけの絵が、そこにあった。
遠くから、五時を告げる鐘が鳴る。
夕焼け小焼けで日が暮れて。
和也はぼんやりと、思う。
カラスと一緒に、帰ったのだ。
「カラスが、今年も飛んだねえ」
送り火の、準備をしていた時であった。
縁側に座り、南と笑い合っていた祖母が、唐突に、呟いたのだ。
「カラスはね、導きの鳥だからね」
「導く……?」
「そう」
うなずいて、祖母は笑った。何もかも知っているかのような、慈悲の笑みだった。
「飛んでたよ!」
南が、無邪気に笑う。
「あのね、お手手つないでね」
そうか。
達也と和也は、顔を見合わせ、微笑んだ。
そうか。
それならば、きっと。
お手手つないで皆帰ろう。
カラスと一緒に帰りましょう。
金烏 野月よひら @yohira-azuma
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