満天の氷の下
波間
第1話
ずっと昔に、僕らの世界は、氷河期というものに突入した。
僕の聞いた話によると、氷河期の最初のころというのは、空に浮かぶ分厚い雲から、雪が延々と降り続けてきていたらしい。地上に落ちてきた雪たちは、当然のことながら、地面の上へと積み重なっていく。そうして積もった雪の厚みは、どんどん厚くなっていった。
みんな寒いのは嫌いだから、地上に積もった大量の雪を、一生懸命に雪かきしていった。けれどすぐに、雪の量は、人の手だけではどかせないほどになってしまった。
だから今度は、機械の力を使って、雪かきをしたり、雪を溶かしたりしていくことにした。そうやって人間は、生活をするために必要なスペースをなんとか作りだしていった。
しかしそれでも、空からは、際限なく雪が降り続けてくる。どれだけ雪を溶かしても、どんなに雪をどかしても、それ以上に雪は積もっていく。……そしてとうとう、人類は、氷河期という時代にの前に屈してしまった。今までどおりに地上に住むことは、もう無理だと諦めてしまった。
やがて、地上に降り積もった膨大な量の雪は、ついには空まで届くほどの厚みになってしまった。
雪というものは、強く圧縮されて固まると、氷になる。だから、世界中を覆った膨大な量の雪は、その重みで潰れて硬くなって、氷へと変化していった。
だから現在では、僕らの惑星は、どうしようもないほどに分厚い氷によって、すっかり覆われてしまっていた。
……しかし、こんなにも過酷な状況にもかかわらず、人類が雪と氷に埋もれて滅んでしまうことはなかった。
人間というのは、本当にしぶとい生き物だ。この世にいるどんな獣や虫が死滅したとしても、人間だけは、意地でも最後まで粘り強く生き残るのかもしれない。
この氷河期という時代の中で、人類は、大きく分けて2つの場所に住んでいた。一つは、土の中だ。地中に縦横無尽に広がる洞窟の中で、多くの人々が暮らしている。まるで蟻かモグラだ。
そしてもう一つの住み処は、氷の中だ。ひたすら氷を削り続けることで造り上げた、枝のように伸びる氷窟の中で、やはり沢山の人たちが住んでいる。
そして僕は、氷の中で住んでいる側の人間だった。
こんな冷気の充満した氷窟の世界の中で、今日僕は、一つの大切な役割を言い渡された。それは――僕のところに遊びに来ている従妹の面倒を見るというものだ。
この従妹というは、今年で14歳になる女の子だ。このくらいの年齢ということは、分別というものも、ある程度は身についているにちがいない。何をしたら他人に迷惑をかけてしまうのか、ということも、なんとなくは分かっている頃合いだろう。
だから、もしも僕が従妹を放っておいたとしても、そんなに危ないことにはならないはずだ。僕が、わざわざ苦心しながら、注意深く見張っている必要はないはずだ。
まったく、従妹の面倒を見るなんて、本当に簡単な役目を任されたものだ。
――そう、たかをくくっていたのが、僕の犯してしまった大きな間違いだった。
従妹は、僕がほんの少しだけ目を離している間に、どこかにいなくなってしまっていた。
それから僕は、氷の洞窟の中を大慌てで走り回りながら、行方をくらませた従妹を探した。
氷の中の世界には、きちんと電気は通っているので、ちゃんと電灯もある。だから、氷洞の天井部分ににたくさん取り付けられている電灯たちのおかげで、氷洞の内部は、とても明るい。
そんな中を、僕は一生懸命になって駆けずり回った。……それなのに結局、肝心の従妹の姿は、どこにも見当たらなかった。
――これは、従妹による何かの嫌がらせなんだろうか……。僕が従妹の面倒を見ることになっているということは、彼女も知っている。それなのに、どうしてこうも僕を困らせるようなことをするのだろう。もう少しくらい、僕に対する思いやりと優しさというものを持って欲しい。
ほんの少しだけやさぐれながら、僕が氷窟の中を歩き回り続けていると――とうとう、小さな女の子の後姿を発見することができた。
フード付きの赤い厚手のコートを着て、白い手袋をしている女の子だ。この位置からだと彼女の顔は見えないけれど、服装からして、間違いなく僕の従妹だ。なんとか見つけることができて、本当に良かった……。
それにしても、こんな人気のないところで、たった一人で、一体何をしているのだろう。
従妹の手には、どこから持ってきたのか、オイル式のランプが握られている。
この氷の中の世界には、あちこちに付いている電灯のおかげで、とても明るい。だから普段は、わざわざランプなんて使ったりはしない。
それなのに、どうして従妹はオイル式のランプなんてものを持ってきたのだろう。何に使うつもりなのか、まるで見当もつかない。
僕が不思議に思っていると、彼女はおもむろにランプを高く振り上げて、それを力いっぱいに氷の床へと叩きつけた! すると哀れなランプは、大きな音を立てて無残にも砕け散ってしまった。
突然の奇行……。ストレスでも、溜まっていたのだろうか……。何かを壊さなければ吐き出せないほどに、鬱屈した嫌な気持ちを、彼女は心の中に溜め込んでいたのかもしれない。
なんとなく、見てはいけないものを見てしまったような気がして、話しかけづらくなってしまった。
とはいえ、こうやって女の子の背後で一言も発さないまま、ただ立ち尽くしていると、まるで怪しい人物のようだ。このまま彼女の後ろ姿を凝視し続けているわけにもいかない。
僕は意を決して、砕け散ったランプを見下ろしている従妹に声をかけた。
「やあ……。こんなところで、な、なにをしているの?」
すると従妹は、勢いよくこちらへと振り向いた。
「……お兄ちゃん! どうして、こんなところにいるの?」
なんて言いぐさだろう。見つけるのに苦労したのに……。
「どうしてじゃないよ。勝手にいなくなったから、僕は頑張って探し回ってたんだよ……」
そう言うと、従妹は「えーと」と言いながら、少し慌てるような素振を見せた。
「ご、ごめんなさい……。別に悪気があったわけじゃなくてね。どうしてもやりたいことがあったから……。それで、つい……」
ランプを力いっぱいに叩き壊すことが、そんなにやりたかったことなんだろうか。
ただなんにせよ、従妹は、わざと僕のことを困らせてやろうとしていたわけではなかったようだ。僕のことは一切気にもとめずに、行方をくらませたということらしい。……それはそれで、酷い話だった。
とにかく、従妹はこうして素直に謝ってくれたわけだから、今回のところはそれで許してあげようと思う。
「別に僕も、怒ってはないから、大丈夫だよ。それにしても……。こんなオイル式のランプなんて、どこから持ってきたの? それにランプを叩き壊すなんて駄目じゃないか。そんなことを勝手にしたら、怒られちゃうんだよ」
「それはね……。私が、どうしても空を見たかったからなの!」
彼女の言っている言葉の意味がまるで分からない。これは、僕の言語能力が低いせいなんだろうか。
「もうすこし、ちゃんと説明してくれないかな……。こんな風にランプに酷いことをするのと、空を見ることは、本当に何か関係があるの?」
「それはね……。ランプの中で燃えている炎を外に取り出して、氷を直接燃やしたら、氷はたくさん溶けてくれるかなぁ……って思ったからなの」
従妹は、足元に散らばったランプの破片を悲しそうに眺めながら、事情を説明してくれた。
――僕らの世界は、空まで届くほどに分厚い氷によって、完全に覆われてしまっている。
だから、この氷の中に掘られた穴倉で生活している僕らにとって、氷の上側という所は、絶対に行くことのできない遙かに遠い世界だった。
それでも、もしもどうにかして空を見に行こうとするのなら、なんとかして膨大な量の氷を溶かすか削るかして、氷の上側までの道を切り開いていかなければいけない。
そのための素晴らしい方法を、この従妹は、思いついたということらしい。
その方法というのは、火をつけたオイル式のランプを、氷の壁のすぐそばへと近づけて、その熱で氷を溶かしていくという、とても地道なものだった。
しかし、どんなにランプを氷の壁に近づけても、固くてひんやりと冷たい氷は、ほとんど溶けてはくれなかった。
この調子だと、凍った世界を溶かして道を作るなんて、絶対に無理だ。遙か頭上にあるはずの空まで届くほどの通路を作るなんてことは、夢のまた夢だった。
そこで従妹は、今度はランプの中に入っているオイルを、氷の上に直接ぶちまけることを思いついたらしい。そして、氷の床に広がったオイルに火をつければ、まさしく、氷そのものを燃やしているようなものだ。そうなれば、きっと沢山の氷が溶けてくれるはず……。
そんな気持ちを込めて、オイル式のランプを、思い切り叩きつけて壊してしまったらしい。なかなか乱暴な発想をする女の子だ。
「――でもね、私は失敗しちゃったみたい。ランプは壊れて、中からオイルは出てきたけど、量は少しだけだったし。ついてた火も、すぐに消えちゃった。これじゃあ、ほとんど意味なんてないね」
「当たり前だよ……。僕らの頭の上で積み上がっている氷の天井は、僕ら人間が一生かけても溶かせないくらいに分厚いんだ。だから、氷を溶かして空まで行くなんて、できるわけがない。無理なものは諦めるしかないんだよ。……わかった?」
「ううん」従妹は当然のように首を横に振った。「今回は、オイルの量が足りなかったせいだと思う。世界中のオイルを集めたら、きっと山のような量の氷でも、溶かせるよ。だから私は、これから皆の持っているオイルを集めて回るの」
なんてことだろう。どう考えても不可能としか思えないのに、彼女は諦めていないらしい。ひとまず、その不屈の精神だけは褒めてあげたい。
「……けど、オイルをいっぱい集めて、火をつけたとしても、その後はどうするの? 氷というのは、溶けると水になるんだよ。溶かせば溶かすほど、たくさんの水が流れ落ちてくるんだ。それはどうするつもりなの?」
「それは……。が、頑張って私が飲むよ……」
さすがにそれは頑張りすぎじゃないだろうか……。
「お腹がガボガボになるまで飲んでも、飲みきれるものじゃないんだよ」
「……み、みんなで、一生懸命に飲むよ。お兄ちゃんも、一緒に飲んでくれるんでしょ?」
何故か従妹は、救いを求めるように僕に聞いてきた。
「僕は嫌だよ……。水の飲みすぎで、お腹を壊したくはないし」
そう答えると、従妹は悲しそうな顔をした。
少し可哀想だけど、僕にはどうしようもないことだった。
「そもそも僕には、そこまでして空を見に行きたいという気持ちが分からないよ。この分厚い氷の上側へと出たって、どうせ何もないよ?」
「何もないから、良いの! だって、天井もなければ、壁もないんだよ。すごく気持ちが良さそう! こんな氷の穴の中で、息が詰まりそうになりながら生活しているより、ずっと良い!」
彼女は氷の天井を見上げながら、元気良く言った。
広々としたところで、開放的な気分に浸りたい、ということなんだろうか。……その気持ちは、なんとなく分からなくもない。
「それはさ、確かに氷の穴の中は窮屈なのかもしれないよ。そう思ったことは、僕にだってあるし」
「本当に!? それじゃあ、私が氷を溶かすのを手伝ってくれるの?」
それとこれとは話が別だよ、と言いたいところだけど、なんだか少しずつ、冷たくあしらうのも可哀想な気がしてきた。
「そうだね、手伝ってもいいかもね。……ただし、条件があるんだ。もしも、僕がこれからするテストに合格したら、氷の壁を溶かすのを、僕も手伝ってあげるよ」
「テストって? 何をするの……?」
従妹は不思議そうに首を傾げた。
「どのくらい本気で空を見に行きたいと思っているのかを、調べるためのテストだよ」
この従妹の中で、氷の世界の上側に広がっているはずの空を見に行くということは、どのくらい強い願いなんだろう。
もしも、本当に心の底から強く想っているんなら、その気持ちは、簡単に揺れ動いてしまったりはしないはずだ。たとえ彼女の近くにどんなに魅力的なことがあったとしても、その誘惑に負けてしまうことはないはずだ。
彼女が空への道を切り開くことを、そのくらい強く決心しているんだとしたら、本当に感心してしまう。もしもそうなら、従妹の無茶に、僕は付き合ってあげたい。
けど逆に、これがただの彼女の思いつきなら、手伝うのは嫌だ。
だって、手伝う方の気持ちにもなって欲しい。従妹が、ただ気まぐれで思いついたことに、いちいち付き合ってあげていたら、大変なことだ。僕だって別に、溢れるほどの暇を持てまあしているわけじゃないんだ。
「それじゃあ、テストをはじめるよ。まずは……。今日は、特別なことがある日だよね。そのことは、もちろん覚えてるよね?」
「うん。今日は、氷のお祭りがある日……」
この従妹の住んでいる場所は、僕の住んでいるところから、片道で半日ほどかかるくらいのところにある。遊びに来ようと思えば来られるけど、それほど気軽には来られないくらいの距離だ。
そのくらい離れた場所に住んでいる従妹が、わざわざここまでやって来たのは、理由がある。それは、今日このあたりで行われる、お祭りに行くためだった。彼女は、この氷のお祭りを、結構楽しみにしていた。
「なんとかして氷を沢山溶かして、空まで続く自分の道を作りたいのは良いんだよ。でも、それを僕に手伝って欲しいというなら、その気持ちの強さを、少しは僕に見せてくれないと。……もしも今から、新しく別のオイル式のランプを持ってきたり、たくさんのオイルを集めてくるんだったら、とても時間がかかるんだよ。そうなったら、もう今日のお祭りには参加できなくなるんだ。……それでも良いの?」
「良くない! 早くお祭りの会場に行かなきゃ!」
即答だった。もう少し悩むくらいはしてもいいんじゃないだろうか……。
この答えは予想できたことだけど、なぜだか、とても寂しい気持ちになってしまった。
「やっぱり、空を見に行こうなんて、一時の気の迷いみたいなものだったんだね……」
「ち、違うよ!」従妹は慌てるように否定した。「今回はどうしようもないな、って思っちゃっただけ。でも本当に、今回だけだよ! だって、ランプじゃ氷はちょっとしか溶かせないのは分かったし、他の方法はすぐには思い浮かばないし、お祭りに行かないといけないし……。だから今は、涙をのんで引き下がるの……。けど、今度またお兄ちゃんのところに遊びに来るときまでには、もっと良い新しい方法を、必ず考えてくるからね。首を洗って待っていてくれると嬉しいな!」
やけに意気込みながら従妹は言った。
信じられないことに、諦めたわけではなくて、一時撤退してお祭りに遊びに行くだけらしい。てっきり、もう完全に気が移ってしまったんだろうと思っていたけど、実は僕の思っている以上に、彼女の意思は固いのかもしれない。
「それなら、いいよ。今度遊びに来きたときまでに、今言ったことを覚えてたら、次は僕も手伝ってあげる。楽しみにしてるよ。あまり、期待はしてないけどね……」
「期待もしててね!」
そうやって勢いよく言われると、なんの根拠も無いはずなのに、なんだか期待できるような気がしてしまう。
もしも本当に見られるのなら、一度くらいは、空というものを僕も見てみたい。
人間というのは、途方もなく分厚い氷が頭の上にあっても、押しつぶされたりすることも無く、今まで生き延びてきた生き物だ。だからいつか、空まで届くくらいの氷を全部溶かしてしまうことも、できるようになるのかもしれない。
満天の氷の下 波間 @namima1600
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