ディーノの左目

南枯添一

第1話

 エミリアは街で一番美しい女だった。そして、街で一番傲慢で性格の悪い女だった。男たちはみんな彼女に夢中で、女たちはみんな彼女を憎んでいた。

 こんなことがあった。

 当時、僕はサラと付き合っていた。エミリアのように美しくはなく、引っ込み思案だったけれど、手芸が趣味の、気立てがよくて家庭的な女性だった。

 その日はサラの誕生日で、僕は彼女の部屋で二人だけのパーティをすることになっていた。なぜか、そのことを知ったエミリアはその日、僕の手をずっと握って離さなかった。僕に興味があるわけでなく、サラに恨みがあるわけでもなかった。それなのに、次の日、泣きはらして赤く腫れたサラの目を見たときの、エミリアの勝ち誇ったような表情を僕は忘れられない。

 それから一月、僕は謝り続けてようやく、サラに許してもらえた。それでも、あの穏やかなサラに明らかにエミリアと分かる、顔を潰した蝋人形を見せられて、ぞっとしたことを覚えている。

 けれど、言い訳になってしまうが、エミリアにあんな風に引き留められて、振り切って行くことのできる男がいたとは思えない。だけれども、僕がそう漏らしてしまったとき、サラは「いるじゃない」とつぶやいた。

 そう、いた。一人だけ。それがディーノだった。

 ディーノは僕と同じで孤児だった。両親はファミリーの抗争で自宅で殺され、彼だけが生き延びたのだと言う。叔父のジャコモに引き取ってもらえた僕と違い、里親を転々として育ったせいか、ひどく無口な男だった。中に蒸気機関が入ってるんじゃないかと思えるほど、胸板は厚く、丸太のように太い腕は奇形的に長かったから、体型だけを見るとまるでゴリラだった。けれど、四角い顔立ちは、案外と整っていて、彼はどんなときでもきれいに髭を剃ることと、髪に櫛を入れることを怠らなかった。

 そして、ディーノの腕っ節の強さはもはや伝説だった。元々、裏路地の殴り合いでは無敵だった。その上、様々な格闘技のジムやドージョーに通って腕を磨いた。ファミリー間のいざこざで、武装した5人組と一人でやりあい、5人全員を叩きのめした話は語りぐさだ。

 エミリアに興味を示さなかったのは、このディーノだけだった。自分の身体を鍛えることと、ファミリーの敵をぶちのめすことだけが彼の生きがいだったのだ。

 当然のことだが、ディーノの存在そのものが、エミリアのプライドをひどく傷つけた。

 その日、大通りで偶然エミリアはディーノと行き交った。彼女はとびきりの笑顔を見せて、買い物に付き合ってくれないかとディーノを誘った。僕を含めて、街中の全ての男が何もかもをほっぽり出して、彼女の後に付いて行ったろう。けれど、ディーノはあっさりと首を振り、「ドージョーへ行くんだ」と答えた。

 男たちは唖然とし、女たちは聞こえるように忍び笑いをした。エミリアは柳眉を逆立てると、ディーノの前に立ちふさがった。

「そんな大きな身体をして。あなたは臆病者だわ」

「なんのことだ」何の感情も見せずにディーノは答えた。

「わたしのことが恐いんでしょう」

「なんのことだ」無表情のまま、ディーノは続けた。「どいてくれ」

 その態度が彼女を激怒させた。「臆病者。意気地無し」そう叫んで、彼女はディーノの唾を吐きかけた。

「こんなことはするな」顔に掛かった唾を拭ってディーノは言った。「今度したら、ただじゃ済まさない」

 エミリアは高笑いをした。「意気地無しに何ができるって言うの」もう一度、唾を吐いた。

 ディーノはその唾をもう一度、無表情に拭い、そして、誰もが想像もしなかったことをやった。

 岩でできているような特大の拳を固めると、彼女の顔の真ん中を殴りつけた。エミリアは吹き飛んで、棒のように倒れた。ディーノは彼女の上に馬乗りになると更に十発ほども殴りつけ、そして、そのまま何事もなかったかのように歩み去った。

 ことはこれで終りだった。

 ディーノには何のお咎めもなかった。男たちは内心は激怒していたかも知れないが、女たちが恐かったし、ディーノのことも恐かった。それに建前から言えば、悪いのはエミリアだった。

 病院に担ぎ込まれたエミリアは半年経ってようやく帰ってきた。けれど、それはもうエミリアではなかった。医者がどれほど努力を重ねようと、ディーノに叩き潰された顔は元には戻らなかった。そして、顔以上に潰されてしまっていたのは心だった。彼女はもう、あの火のような女ではなかった。いつも何かに怯えているような臆病な女だった。誰かが「ディーノ」と囁くだけで、狂ったように怯えて、泣き叫んだ。おそらく、彼女は少し気が変になっていたのだと思う。

 もう男たちは誰も振り向かず、女たちはせっせと意趣返しに励んだ。

 彼女が死んだのはそれから3年後の冬だった。頭のおかしい乞食女に成り下がっていた彼女は、悪ガキたちにディーノが来るぞとはやし立てられて、冷たい雨の中を走り回り、風邪を肺炎にこじらせて、あっさりと息を引き取った。むしろ、3年前にあのまま死んでいた方が、彼女にとってはよかったのかも知れない。

 そして、時は流れた。

 先も言ったように孤児だった僕を引き取ってくれたのは、叔父のジャコモだった。叔父には一人息子のロレンツォがいた。僕にとってロレンツォはいとこであり、兄であり、同時に無二の親友だった。

 ぼくらはそろって大学へ進み、僕は経済を、彼は法律を学んだ。僕は大学を出た年にサラと結婚をして、叔父の家を出、小さな家庭を持った。そして、ジャコモやロレンツォとともにファミリーのために働き始めた。

 そう、時代は変わりつつあったのだ。既に、ファミリーはぼくらのように大学を出た人間が就職をするような組織だった。暴力の時代は過ぎていた。仮にもめ事が生じても、刃物や銃を持ち出す代わりに、話し合いと金で解決するようになっていた。僕は時折、自分が堅気の会社に勤めているんじゃないかと錯覚したほどだ。

 それは多分、ファミリーの誰にとってもいいことだった。

 けれど、一人だけそうではない人間がいた。またも、それはディーノだった。

 時代が変わって、暴力沙汰が減り、力の頼ることがなくなるにつれて、彼の居場所もまた無くなっていった。溺れはしなかったが、彼の酒量は少しずつ増え、細かい失策も増えていった。奇行が目立つようになり、つまらないトラブルを次々と起こした。それでも、皆は本当に破局が来ることは信じかねていた。あの日までは。

 切っ掛けは酒場でのつまらないケンカだった。アイルランド人たちと些細なことで揉めたディーノはその場で一人を殴り殺し、もう一人が病院で死んだ。ここまではまだ救いがあった。アイルランド人たちは激怒していたが、困惑もしていた。それに、先に手を出したのも、得物を持ち出したのも彼らの側だった。だから、話し合いの余地は無いわけではなかった。

 けれど、ディーノはそこで止まらなかった。腹を刺されたにもかかわらず、ディーノは医者にも行かず、隠れ家に籠もっていた。その彼の元を、今後のことを相談するために訪れたロレンツォを、ディーノは殺した。そして、隠れ家からも消えた。

 ドンの屋敷の一階には大広間があった。一度も火を入れたことのない暖炉があって、その手前からにシチリアから運んできたと言う大テーブルが部屋を横切っていた。その上座に座ったドンは、集まった者たちの顔を見回して「誰が行く」とだけ言った。

 僕は叔父のジャコモと同時に立ち上がった。

 叔父は自前でショットガンを用意し、僕はジュゼッペからメキシコ製の32口径を借りた。クロームメッキでピカピカのリボルバーは如何にも安っぽく見えたが、「撃たれたら死ぬことに変わりは無い」とジュゼッペは言った。

 ディーノの居所は直ぐに割れた。もはや、かくまってくれるような味方は彼にはいないのだ。校外のモーテルの302号室。ジュゼッペが持ってきた、ぼろぼろの中古車でぼくらは出かけた。

 その夜は小雨だった。モーテルには7部屋があり、北側3部屋、東側に4部屋がL字型に並んで、駐車場を兼ねた中庭を取り囲んでいた。管理人室は南西の隅で、その手前の一つだけの蛍光灯がわびしく中庭を照らしていた。ぼくらは少し行きすぎてから車を停め、徒歩で戻った。僕は手ぶらで、叔父は散弾銃を隠したショッピングバッグを提げていた。ロレンツォからディーノが奪った、真新しいフォード以外、中庭に停まっている車は見えなかった。

 302号室は4部屋並んでるうちの2つめで、灯りは消えていたし、人がいる気配もしなかった。「なんで、302号室なんだろうな」と叔父がつぶやいた。

 ぼくらは真っ直ぐに302号室に向かった。打ち合わせた通り、叔父はドアの正面に立ち、僕はヒンジの側に立った。僕が腕だけ伸ばしてドアをノックし、それで、誰かが出てくる気配を感じたなら、叔父がドア越しにバックショットを打ち込む予定だった。

 けれど、僕がノックする直前に、いきなりドアが吹き飛んで、叔父にぶち当たった。

 何が起こったか分からずに、僕が立ちすくんでいる間に、戸板を失って洞穴のようになったドアからディーノがのっそりと現れ、気が付けば僕は頭からモーテルの庭に叩きつけられていた。手にしていたはずのメキシコ製のリボルバーはどこにもなかった。ディーノは僕の方に一瞬だけ視線を向けると、直ぐに戸板の下から這い出そうとしていた叔父の方へ向かった。彼は素早く散弾銃の銃身を踏み付けると、大きな拳で叔父を殴った。

 僕はディーノが僕に向けた視線を想い出していた。あれはあのときと同じ視線だった。エミリアを殴っていたとき、何もできなかったぼくらに向けた視線だった。

 おそらく、彼は僕のことを臆病者だと思っていたに違いない。それはその通りだ。だけど、ディーノ、臆病者は用心深いんだ。万が一を常に考えているんだ。どんなときでも奥の手があるんだ。僕はちっぽけな22口径のオートマチックを内懐に呑んでいた。ディーノは叔父を片手で吊り上げていた。もう片手を振りかぶった、ディーノの大きな背中に向けて僕は引き金を引いた。

 撃ち尽くすまでに、3発か4発が彼の背中に吸い込まれたはずだった。それでも、ディーノは倒れなかった。けれど、叔父のことは手放した。それから、ディーノはのろのろと振り向いて、僕を見た。今でも彼は僕の首くらいならへし折れることが、僕にも分かった。

 僕は22口径を放り出して、周囲を見回した。庭で何かが光っていた。薄暗い蛍光灯の灯りでも反射する、ピカピカのクロームメッキだ。僕は走り出し、ディーノも走った。彼が走る毎に水音がした。雨ではなかった。革靴の中に血が溜っていたのだ。

 3メートルの差を付けて、僕はクロームメッキのリボルバーを拾い上げた。ディーノはもう走れなかった。それでも、僕に向かって進むことを止めなかった。僕はその胸板に銃弾を撃ちこんだ。2発撃っても、彼は止まらなかった。3発目で、彼の膝がついに砕けた。大きな掌が庭を打って、水煙が上がった。彼はそのままの姿勢で、荒い息を吐いた。僕が近づくと顔を上げて、無表情に僕を見た。

 僕はディーノの左目に銃口を突きつけた。多分、僕はこう言うべきだった。「ロレンツォの敵だ」。けれど違った。僕が言ったのは、

「エミリアの敵だ」

 それからは後始末だった。

 僕は叔父をモグリ医者の元へ運び、ディーノの死体を乗せた中古車をスクラップ工場へ持ち込んだ。問題は銃器だった。ジュゼッペに連絡を取ると、引き取りに行くから、少しの間、預かっていてくれと言う。

 自宅へ真夜中過ぎに僕は帰り着いた。こっそりと書斎に潜り込んだ。サラには今夜は帰らないと言ってあった。それに、僕は彼女を起こしたくなかった。今サラに会えば、自分が何を言い出すか、分からなかった。

 気付けのつもりのブランデーを飲み干したとき、不意に恐くなった。おそらく、安心したせいで心の歯止めが外れてしまったのだろう。なにより、銃が恐かった。ジュゼッペが到着するまでのわずかな時間が恐ろしく、僕は隠し場所を捜して、家の中をうろつき始めた。

 足を踏み入れるのはこれが初めてではないかとさえ思える、奥の小部屋に入ったのもそのためだ。そこはサラが趣味の手芸に使っていて、彼女の作品や手芸の道具がきちんと整理されて並んでいた。その整然とした並びを見たとき、僕は自分の狼狽が恥ずかしくなった。

 だから、棚の少し隠れるような位置に置かれていた小箱を手にしたのも、単なる照れ隠しだった。直ぐに戻せばよかったのだが、僕は箱を開けてみた。

 そして、僕はエミリアの人形のことを想い出した。サラに見せられた蝋人形のことだ。箱の中に人形が入っていたからだ。ゴリラを思わせる体型の人形で、左目にピンが刺してあった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ディーノの左目 南枯添一 @Minagare_Zoichi4749

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ