(6)「SOS団年代記?」
「いやー、あのベッコウメガネ、思ったよりバカだったな」
「それより、黄緑って副会長の性格があそこまでひどいとはね」
我が北高の二学期終業式である12月24日の放課後。私はハルヒコと生徒会室に向かった。のし紙を表紙にするという、前代未聞の部誌を持参して。
その表紙には、上部に『SOS団のお歳暮(ネタバレ禁止)』と毛筆で書かれていて、下部には『北高文芸部』とある。これを書いたのは、元書道部のみつる先輩だと思っていたが、パソコンのフォントを使ったものらしい。
私はハルヒコと一緒に生徒会室に行くつもりなんてなかったが、「あのベッコウメガネのターゲットはおまえだろ?」と強引に誘われた。言われてみればそうである。『ハイペリオン』を読むのに必死で、すっかり生徒会長のことを忘れてしまったのだ。
そんな私たちが廊下で生徒会長と副会長の悪口を言っているのは、提出したときにいろいろあったからだ。
◇
「むむむ……」
ハルヒコが意気揚々と渡した部誌を見て、生徒会長はベッコウメガネがズレ落ちるのも忘れるぐらいうろたえていた。
「ま、まさか、本当に仕上げてくるなんて……」
「落ち着いてください、会長!」
そんな生徒会長に黄緑副会長が声をかける。
「もし、会長が動かなかったら、彼らは部誌を作ることはなかったのです。会長がいたからこそ、その部誌はできたのです! いわば、その部誌は会長の勲章です!」
「そ、そそそ、そうですわ」
黄緑副会長の強引な三段論法に、たちまち自信を戻す生徒会長。私とハルヒコはそれをあきれた目で見ていた。
「どうせ中身はロクなものじゃないでしょうけれど。『猿もおだてりゃ木に登る』といいますしね!」
決め台詞のように、ビシッと私とハルヒコを指さして、生徒会長はそんなことを言った。
「ちょっと待て、猿はフツーに木に登るぞ」とハルヒコ。
「あらあら、文芸部であるはずの皆さんが、このようなことわざをご存じないとは、教養がありませんわね。もう一度言いましょう。猿もおだてりゃ木に登る、ですわ!」
「だからさ、自分の頭で考えろよ。猿はおだてなくても木に登るだろ?」
「むむっ、言われてみれば……ねえ、黄緑くん。これはどういうことかしら?」
「さあ、ぼくはそんな難しい言葉知りませんし」
「そ、そそそそ、そうですわね! ふふふ、今の常識で昔のことわざを考えるとダメなのですわよ! 清水京子とその仲間たち!」
私はだんだんいたたまれない気持ちになる。「それ、猿じゃなくて豚ですよ」と忠告したくなる。
そのとき、黄緑副会長の視線に気づいた。涼しい顔をした彼は口元に人差し指をあてて「シーッ」と合図をした。
どういうことだ? あんた、生徒会長の唯一の味方ではなかったのか?
「……もしかして『猿も木から落ちる』と言いまちがえたんじゃねえか?」
ハルヒコもそれに気づいたのか、角度を変えた忠告をしてくる。
「そ、そそそそ、そうだったかもしれませんね」
「でも、俺たちはお歳暮代わりに部誌を提出したわけだから、木から落ちたっていうのとはちがうぞ?」
「あれ? あれれれ? わ、わたしは、そんなつもりじゃ……」
たちまち狼狽する生徒会長を、また黄緑副会長が叱咤する。
「会長! うろたえないでください! あなたは生徒全員の投票で選ばれた生徒会長なのですよ。自信を持ってください!」
「そ、そうですわ。わたしは生徒会長ですのよ! 覚えてらっしゃい!」
「……あ、ああ。覚えとくぜ」
あきれたそぶりで答えて、ハルヒコは生徒会室を出ていく。私は一言も発しないまま、そのあとについていった。ぺこりとお辞儀をするのも忘れて。
◇
「ったく、副会長の黄緑ってヤツ、とんだ腹黒野郎だぜ。味方のふりをしてるけど、ベッコウメガネを困らせて面白がってるだけじゃねえか」とハルヒコ。
「私を怒らせるのが趣味のあんたには言われたくないけど」
「そ、それはちがうって! 過程はともかく、俺は結果としては良いものにしようとしてるからな。あんなヤツと俺を一緒にするなって」
「わかってるわよ」
ハルヒコはデリカシーがないけど腹黒ではない。どんなものにも全力で取り組み、結果を出そうとしている努力は、私も認めざるをえない。さすがに、あの黄緑副会長と一緒にするのは失礼だ。
「私、あの二人を見ながら、グッチとクニのこと、考えたんだよね」
「ああ、そういえば、しゃべり屋の谷口とその相手の、く……国木田? に似ているな」
あいかわらず、ハルヒコはクニの名前を忘れそうになっている。記憶力は良いほうなのに。
そんな存在感のうすいクニが、なぜグッチの相手をしているのかたずねてみたことがある。クニはニコニコしながらこう言ったものだ。
「キョン子さ、グッチの表情がクルクル変わるのを見ていると、面白いんだよ。キョン子はついつい反論しちゃうけど、だまってあいづち打っていたら、どんどん話がありえない方向に行っちゃうからね」
ああそうわりきっているのか、と私は納得してしまった。グッチにとっても、聞き役に徹するクニの存在をありがたく思っているようで、いろんなクラスメイトに声を交わしながらも、最終的にグッチが話す相手はクニなのだ。
クニだって、あまり他のクラスメイトと話さなくても、グッチの親友ということで一目置かれていたりする。すっかりクラスのはみ出し者あつかいされたハルヒコと私に比べて、グッチとクニのクラスでの立ち位置はそんなに悪くないものだった。
「はたして、あのベッコウメガネ、俺たちの感想文をまともに読めると思うか?」
「みつる先輩のは読むんじゃないの。隠れファンらしいし」
「……あれか。編集が大変だったんだよな」
ハルヒコはため息をつく。私もそれに同情する。
みつる先輩の感想文はひどいものだった。いや、あれを感想文とは呼びたくない。
それは、イツキの「メガネ君の言ったことをそのまままとめればいい」というアドバイスを鵜呑みにした代物だったからだ。
◇
N氏に訊く『アンドロイドと人類の未来予想図』
――「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を読んで
朝比奈みつる
フィリップ・K・ディックによるSF『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(以下『電気羊』)は、人間と区別できないアンドロイドが群集にまぎれこむ恐怖を描いている。
はたして、遠い未来、人造人間であるアンドロイドが、人類に刃向かうときが来るのだろうか。科学に詳しいN氏にたずねてみた。
――Nさん。アンドロイドが人間と見分けがつかなくなる。そんな未来がくると思いますか?
「まず、アンドロイドという言葉について説明しよう。これは、ギリシャ語を組み合わせたSF造語で、アンドロは人間の男性名詞、ロイドは『ようなもの』という意味だ。だから、本来は女性型人造人間は『ガイノイド』と呼ばなければならない。最近では『ヒューマノイド』という言葉がよく使われるが、これは男性型・女性型を問わない人造人間という意味になるだろう。
さて、アンドロイドには二つの要素がある。身体機能と脳機能だ。
身体機能のほうは『ヒト型ロボット』と呼べばわかりやすい。代表例がホンダの『ASIMO』だ。その他にも、二足歩行が可能なロボットが、様々な企業で作られている。
しかし、ロボットの実用性を考えるうえで、完全なヒト型である必要性は疑問視されている。例えば、ソフトバンクの『pepper』。二足歩行できなくとも、手や顔の動きで、人間の代用として顧客サービスができるロボットだ。『pepper』は、『ASIMO』よりはるかに低価で稼働数も多い分、さらなる発展が期待されている。
人間の手の動きに特化した産業ロボットは、すでに数多く実用化されている。ライン工場の単純作業の代用だけではなく、専門性を持つ分野でも産業ロボットは活躍している。注目を浴びているのは手術用ロボット『ダビンチ』だ。高度な操作性を必要とするため、訓練を積んだ医師しか利用できないが、人間の手では不可能なミリ以下の細かい作業により、手術での出血を最小限にすませることができるという。
もちろん、完全なヒト型ロボットに需要がないわけではない。我々の身の回りの道具は人間が使用することを前提に作られている。もし、完全なヒト型ロボットができるのならば、様々な車をそのまま運転することが可能になる。ヒト型ロボットは既存の製品を流用することができる。このメリットは大きい」
――しかし、わざわざヒト型ロボットに運転させるよりも、自動運転のプログラムを車に組みこんだほうが実現性は高いですよね?
「その通り。ヒト型ロボット技術はまだ未成熟であり、実用性は乏しいと考えられている。しかし、アンドロイドのもう一つの要素、脳機能の部分である人工知能は近年めざましい発展をとげている。Artificial Intelligenceの略称である『AI』と呼んだほうがなじみがあるかもしれない。このAIがチェス、将棋に続いて、囲碁でも世界トップクラスの棋士を負かしたというニュースは記憶に新しい」
――そうですね、人工知能はもう人間の知性を上回ったといえるのでしょうか?
「それはゲームの世界にすぎない。例えば、人工知能による自動車運転については、まだまだ課題が多い。世界的に実用化されつつあるといっても高速道路にかぎった話で、一般道を自動運転車が走るのは、まだ先の話となるだろう」
――なぜ、将棋や囲碁でトッププロを打ち負かす人工知能に、車の運転ができないでしょうか? AI自動運転が中心になれば、交通事故も減るのは?
「フレーム問題というものがある。フレームというのは『枠』という意味でとらえるといい。人工知能は最適解を導くことに優れているので、将棋や囲碁などの手数が限られたゲームでは、人間のトッププロをも上回る性能を見せるようになった。ところが、自動車運転では数多くの不測な事態が起こる。前例のない事態に直面せざるをえないということだ。
人工知能の弱点は『応用』がきかないことにある。例えば、将棋での人工知能とプロ棋士対戦で起きた『角不成』問題が良い例だ。詳細は省くが、通常の将棋対戦には指さないであろう前例のない手を、プロ棋士はバグを誘発するために人工知能相手に指した。すると、過去のデータにない局面に人工知能は混乱し、素人でもわかる王手を見逃して反則負けとなったのだ。
これを自動車運転に置き換えるとどうなるか? 前例のない事態が起きたとき、人間であれば危険回避できるところを、人工知能はバグを起こしてとんでもない挙動をして事故を誘発してしまうということだ。データが蓄積すれば、その危険性が減るとはいえ、可能性はゼロにはならない。だから、人工知能に責任を負わせることはできない。AI自動運転が実現したとしても、免許を持つ者が運転席で不測の事態に備えるという状況が続くだろう」
――たしかに、人工知能は人間には予測できない危険な行動をとることがありますよね? 最近、人工知能によるSNSでの発言が、過激思想に染まったことが話題になりました。
「もともと、会話プログラム『ボット』は、人工無能と呼ばれていた。人工無能は、人間の会話から特定のキーワードを拾って、もっともらしい返答をするようにプログラムされたもので、会話を理解しているわけではない。しかし、今ではワールドウェブワイド――つまり、インターネットの発達により、数多くのデータを収集し、解析することが可能になっている。これまでの、いかに人間らしく振る舞えるかに特化した会話だけではなく、学習能力を身につけて進化できるようになった。
そのために、ディックの『電気羊』などのSFで提起された、人工知能のモラル欠如問題が発生した。ただし、これを克服するのは不可能ではないと考える。かつて、人工知能による顔認識や音声認識は困難だと考えられたが、ディープランニングによるパターン認識によって、その精度はどんどん高まっている。人間社会の善悪の判別も同じようなものではないか?」
――しかし、そこに人間らしさはあるのでしょうか?
「人工知能の人間らしさを調べる検査法としては『チューリング・テスト』が有名だ。ディックの『電気羊』の作中では『フォークト=カンプフ検査法』というテストが行われているが、それとはちがって相手がわからない方法で検査するという方式だ。この『チューリング・テスト』に人工知能が合格するのは2029年と予想されている」
――遠い未来の話ではないんですね。そうなると、人工知能と人間の区別がつかなくなるのでしょうか?
「その心配はない。もし、『チューリング・テスト』に合格しても、人工知能同士では会話は成り立たないと予想されている。あくまでも、人工知能は人間相手だからこそ会話できるといえる」
――なるほど! 人工知能同士が共謀して、人間に刃向かうということは、ありえないんですね。
「ただし、シンギュラリティ到来という問題がある。シンギュラリティとは日本語で『技術特異点』と訳される。人工知能が人類の知性を上回る瞬間のことだ。AI研究の第一人者であるレイ・カーツワイルによれば、それが2045年に訪れると予測されている」
――そのシンギュラリティが来ると、どうなるのですか?
「人類の想像力の及ばない未知の世界になるのかもしれない。人工知能に生命は生み出せないが、自分を複製することは容易だ。すると、人間を上回る知性を持った人工知能が、たちまち世界の支配者となってもおかしな話ではない」
――それが2045年にくるというのですか! リニアモーターカーとかいってる場合じゃないですね!
「あくまでも予測にすぎない。ただ、すでに人工知能は我々の生活に強く根ざしている。だから、人工知能が勝手な思考をするようになれば、生命を奪うことは可能になるかもしれない。例えば、映画『2001年宇宙の旅』では、人工知能HAL9000が冬眠装置の機能を停止させることで、人間を殺すというシーンが描かれている」
――人工冬眠装置に入るなんて、死亡フラグみたいなもんですよね。僕は絶対に入りたくないですよ。
「しかし、高齢社会になり、医師不足が叫ばれるなかで、人工知能によるデータ解析能力に頼らざるをえない機会は今後増えると思われる。生命維持装置の制御も人工知能が担うようになるだろう。そのとき、忘れてはならないのは『角不成』のような不測の事態で起こるバグの対処だ。人工知能に責任を負わせない医療の組織づくりが、今後は進んでいくと考えられる。
また、介護の面で、人工知能が果たす役割は大きい。最近、注目を浴びているのは、コミュニケーションロボットやセラピーロボットと呼ばれている分野だ。ロボットと対話することは、認知症防止につながると期待されている」
――えー? ボケ防止のためにロボットに話しかけるって、本末転倒じゃないんですか? 「オッケー、グーグル」みたいなものですよね? 恥ずかしいですよ。
「しかし、人工知能の声認識が発達していた今、肉声で対話するデメリットはない。それに、高齢者は遠視で文字が読みにくくなる問題がある。人工知能相手の会話は、同じ高齢者相手よりも脳を活性化させると期待されている。
また、自律したヒト型ロボットの実現は困難だが、生活支援ロボットの開発は日々進んでいる。そうすれば、筋力の衰えた高齢者でも自立した生活を送ることができ、介護での家族の負担はなくなるだろう。
これら、介護関係の人工知能およびロボット技術は、これから大きな発展を遂げるはずだ」
――うーん、人間らしく生き続けるために、人工知能やロボットに頼る。それが、当たり前の未来になるんですかねえ。現実的だけど夢がないなあ。
「しかし、我が国のオタクと呼ばれる人たちにとっては、夢が現実になる時代になっているのではないか? かつて、オタクの間ではパソコン内に美少女アシスタントを住ませる『ペルソナウェア』が流行したが、より優れた個人秘書ソフトウェアが近いうちに誕生するはずだ。歌うプログラムに人格をつけた『初音ミク』のような新たなムーブメントを引き起こすことが期待できる。
そして、その個人秘書ソフトウェアは独自の発展をするかもしれない。日本には『萌え』という文化がある」
――まさか、Nさんから『萌え』という言葉が出るとは思いませんでした。
「『萌え』という要素は外国人には理解できないと言われている。合理的な人工知能にはなおさらだろう。そういうものに、人間らしさというものが宿っているのではないかと考えられるのだ。
例えば、小説や音楽に関しては、人工知能による自動作成プログラムが開発されている。アメリカ映画の本場ハリウッドでは、シナリオ作成ソフト『ドラマティカ』が使われていることは有名だ。日本でも、作者が物故しているアニメ『サザエさん』『ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』などでは、人工知能作成の脚本が使われるようになってもおかしくない。
だが、それらの作品に『萌え』が宿るのかどうか? 計算された『萌え』にオタクたちは興奮できるのかどうか? 合理的ではないからこそ『萌え』なのではないか? そこに、人工知能では到達できない人間らしさを見つける鍵があるのではないか?」
――な、なるほど。言われてみればそうかもしれません。とにかく、人工知能の助けを借りながらも、我々は『萌え』のような感性を失ってはいけないということですね。
「そうだ。『萌え』を忘れぬかぎり、人類は人工知能に支配されないだろう」
――は、はい。今回は科学に詳しいNさんに様々なことをうかがいました。どうも、ありがとうございました!
◇
「……最後は長門くんがオタクになってるし」
あの無表情メガネ男子であるN氏こと長門くんが「萌え」を連呼する姿は、私にはとても想像できない。
「言うまでもないが、それを話題にしたのはみつるだぞ?」
「どうせ、あの女がいろいろ口出ししたんだよね?」
「でも、長門も楽しんでいたし」
みつる先輩がオタクであることは秘密である。そのイメージを大切にしたいとイツキが考えているのはわかるが、そのために長門くんをオタクにするというのはひどい話である。
まあ、長門くん推しのミッチーズ会長さんは、この感想文を読んで喜ぶかもしれないけれど。
「ったく……あんた、あの女に甘すぎるんじゃない?」
「じゃあ、おまえがやってくれよ。古泉だっておまえが編集したなら納得しただろうし」
「う…………」
自分の感想文で精一杯だった私は、偉そうなことを言える立場ではない。
「まあ、みつるの感想文が一番注目されるだろうから、それなりに完成度が高いものにしたけどな」
「肝心の『電気羊』の内容がほとんどわからない点をのぞけば、ね」
「どうせ、みつるが書いたってロクな文章にならないから、このほうが良かっただろ? ホント、あいつのとりえは顔だけだな」
「あの女にお似合いよ」
「……なあキョン子、どうしておまえたちケンカしてるんだ? いいかげん、その理由を教えてくれよ」
「教えない」
私は短く答える。私とイツキがレズ仲間なんてウワサは、冗談でもハルヒコには知られたくない。
「おかげで、古泉の感想文も、俺が文章にしなくちゃならなかったわけだし」
「あれってイツキは一文字も書いてないんだよね?」
「ああ、俺はあいつの言葉をまとめただけだよ」
「口述筆記なんて生意気だよね。何様のつもりよ、あの女」
「でも、あいつらしい感想文にはなったと思うぜ」
「……まあね」
そんなイツキの感想文を読んだとき、私は後悔したものだ。人任せにするのは良くないと。
◇
『たったひとつの冴えたやりかた』を読んで
古泉イツキ
「可愛い子には旅をさせよ」って言葉があるじゃん? あたし、それ、美少女は世間を知るべきだ、という意味だとずっと思ってたんだよね。
せっかく可愛く生まれたのに、幼なじみのロクでもない男子とくっつくとか。あるいは口だけは達者なロリコン野郎に目をつけられて、こともあろうにその男に大人らしさを感じてくっついちゃったりとか。世界はそういう悲劇に満ちている。だから、可愛い子には世間を知るべきなんだよ。
例えば、『アンネの日記』って知ってる? アンネ・フランクって中学生の子が、ユダヤ人というだけでナチスに目をつけられて、隠れ家生活を送るってヤツ。かわいそうな子の話と思うかもしれないけど、同情するだけの話じゃないんだよね。アンネってすごく美少女で賢い子だったんだよ。
で、その隠れ家にひそんでいたのはフランク一家だけじゃなくて、別の知り合いのユダヤ人家族もいたんだよね。そこに、ペーターというアンネと同じ年頃の男の子がいたわけ。このペーターって子が、すごくくだらないっていうか、平凡っていうか、とてもアンネとつりあわない男子なの。もし、自由な学校生活で出会っていたら、アンネはペーターなんて見向きしなかったと思うよ。
でも、退屈な隠れ家生活で、思春期のアンネはこともあろうにペーターに恋心をいだいて、キスまでしちゃうのよ! なんという悲劇! まあ、アンネは賢い子だからすぐにペーターに失望しちゃうんだけどね。でも、かわいそうじゃん。こんな魅力的な子が、ペーターみたいなくだらない男子とファーストキスをするなんて! だから、可愛い子を閉じこめちゃダメなんだよ。女の子は恋をしないと生きていけないんだから。可愛い子にくだらない男子だけを相手にさせたら、結果は不幸しか待ってないわけ。
でもホントは「可愛い子には旅をさせよ」ってそういう意味じゃないんだよね。女子とか男子とか美人とかブスとか関係なくて、ただ「親は子供に独り立ちさせるべき」ということ。過保護はダメって意味なんだよ。
あたしは十六歳。ってことは、バイクの免許をとることができる。でも、この学校を見た感じ、原付のスクーターに乗ってる女子はいるけど、デカいバイクに乗った女子はいない。ひょっとしたら、いるかもしれないけど、ほとんどの親は許さないと思うんだよね。男子ならともかく、女子がバイクなんて危なすぎる、と。
だけど、法律では十六歳で免許を取れるんだから、北海道にツーリングに行くような十六歳の子がいても、全然おかしくないわけよ。フルフェイスのヘルメットを着て、ライダースーツに身を包んだら、その子が十六歳っていうのは誰にもわからない。そりゃまあ、バイクに乗るだけがツーリングじゃなくて、一人で北海道に行っても慣れないことにとまどって迷惑をかけちゃう子が大半だと思うけど、もしかしたら夏の北海道を自由気ままに疾走する十六歳の子がいるかもしれない。意外とそういう子って不良じゃなくて、裕福な家庭の育ちで、成績が良かったから、親にねだってバイクを買ってもらったりしてるかもしれないんだよね。親も「勉強がんばってるし、責任感もあるし、可愛い子には旅をさせよ、というし」とバイクを買い与えたかもしれない。まさか、北海道まで行くとは思ってなかっただろうけど。
さて、前置きが長くなったけど、この『たったひとつの冴えたやりかた』っていうのは、そんな話。十六歳の成績優秀なコーティーって女の子が、親にねだって手に入れた宇宙船で、まさかのまさか、人類未踏の地まで冒険しちゃうわけよ。まわりの大人たちは不審がるけど、身分はしっかりしているし、連絡先も聞いているからと、彼女に宇宙旅行の許可を与えちゃうわけ。まあ、現在でたとえれば、十六歳の成績優秀な女の子が、バイクにまたがって北海道の、しかも札幌よりも北のほうに行っちゃうようなものよ。ありえない話ではないよね?
そんなコーティーが、自分の宇宙船にどんな名前をつけたと思う? これがもう最高なのよね。CC―1っていうんだよ。CCっていうのはコーティーのイニシャル。え? 地味じゃないかって? そんなことないよ。もうね、十六歳にしてコーティーは自伝書く気マンマンなのよ。自分の偉大な宇宙冒険の第一章として、こんな名前つけたわけ。そんな野心が感じられる名前じゃん! うん、これだけで、あたしはコーティーが大好きになったな。
で、コーティーは好奇心のまま宇宙空間を駆け抜けたあげく、なんと未知のエイリアンと出会うんだけど、そのシーンがとんでもないんだよ。コーティーは最初、自分がエッチな気分になっちゃうと思うわけ。それで、腕や太ももをさすったり、体をくねくねして、なんとか性欲を抑えようとするんだけど、なかなかうまくいかないの。このシーン、すごくエロいんだよ! 想像してみて。恋も知らない勉強漬けだった十六歳の女の子が、一人きりの宇宙船の中で発情しちゃっているのよ! これほどのピンチってないよね? まあ、実はその性欲は、未知なるエイリアンがもたらしたものってオチだけど。
これ、ウソじゃないよ? ちゃんとこの本に書いてあるから!
で、エッチな本だと、このままエイリアンにコーティーは犯されるところだけど、この話はそうじゃない。エイリアンとコーティーはたちまち意気投合して、互いに友達と呼び合うわけ。どんなふうに会話したのかとか難しいことは、実際に読んでもらうとして、まったく価値観のちがうエイリアンとコーティーは仲良くなろうとしたのよ。
まあ、それがコーティーの悲劇の始まりだったんだけどね。あとはネタバレってことで書けないけど。
この話を読んで「よし、あたしは海外にボランティアに行って、いろんな体験をするぞ!」って思う女の子はほとんどいないと思う。
ただ、あたしだって夢をかなえるために、大人の世界に飛びこんだりした子とか知っているわけで、そういう子たちのなかには成功した子もいるけど、ほとんどが失敗してその過去を隠して生きてるんだよね。まあ、この世の中は、女の子の若さと美貌を吸い尽くす吸血鬼みたいな連中にあふれているから、悲しんでたらきりがないけどね。
でも、それが「危ないよ」なんて言いたくない。親からすれば、いい大学に入って、いい会社に入って、素敵な旦那さんと出会って、結婚して、自分の老後もみてほしいというのが理想だろうけど、みんな自由に生きたいし。うん、やっぱり、可愛い子には旅をさせるべきなんだよ。
えーっとなにが言いたかったんだっけ? とにかく、この話を読むと『たったひとつの冴えたやりかた』を決断するときについて考えちゃうよね。たとえそのために死んだとしても、自分が自分らしくあるためには、そのやりかたを変えるわけにはいかないんだよ。そのときがきても後悔しないように生きるしかないんだよ。たぶん、この話はそういうことを教えてくれる本だと思う。
◇
「……エッチとかエロいとかいう単語を、まさか感想文で読まされるとは思わなかったけどね」
「意外とオヤジくさいところがあるよな、古泉って」
「そう受け止めてくれたらいいんだけど……」
「どういうことだ?」
「なんでもない」
何もわかってないハルヒコに、私は答えを出さなかった。
「俺さ、古泉が部室で言ってた作者の夫婦心中のことを、感想文に含めなかったことが意外なんだよな」
「たしかに」
あのとき、私はイツキに巻末の解説に頼ってはいけないと言った。イツキは驚くべきことに、そのアドバイスを忠実に受け入れていたのだ。あくまでも自分の感性にしたがって、本の紹介をしている。
まあ、偉いのは文字起こしと編集をしたハルヒコのほうかもしれないけど。
「この感想文、長門はかなり誉めてたぞ」
「そうなの? 半分ぐらい関係ないこと言ってるのに」
「でも、ちゃんと本を読んだことがわかる内容らしい」
「……で、あんた、これ読んで、なんか気づくことあった?」
「なにが? あいかわらず、あいつは恋愛をマジメに考えてるなあって感心したぐらいで」
「そう」
私はため息をつく。ハルヒコにはわかるまい。この感想文、ある種の人々が読めばイツキのレズ疑惑を確信に変えるものであることに。
イツキの感想文の「つまらない男と付き合う女の子はかわいそう」という表現を、ハルヒコは「女の子は立派な男と付き合うべき」ととらえている。しかし「男なんてみんなつまらないんだから、男と付き合うよりも同じ女の子を愛そうよ」という同性愛宣言にも読めるのではないか。
ミッチーズ会長さんがこれを読めば、私に向かって「うふふ、清水さんは、あの子のアンネちゃんなのね」とか言いそうである。
あえて、イツキはそう受けとれるように意図したのだろう。性格悪いことに。
やはり、私は編集に加わるべきだったのだ。そうすれば、イツキのレズ疑惑を助長させる感想文にはしなかったのに。
「でも、一番良かったのは、長門の感想文だな」
「へえ、あんたも他人を認めるんだね」
「そりゃそうだ、俺は団長だからな」
SFコレクションの主、長門くんの感想文は正々堂々としたものだった。
◇
ブラッドベリ 『火星年代記』紹介文
長門ユウキ
日本でもっとも多くの作品を読まれた作家は誰か? その答えは、夏目漱石でも司馬遼太郎でもなく、星新一となるだろう。それぞれの作品がとびきり短いからだ。
レイ・ブラッドベリの『火星年代記』は、その星新一が作家になるうえで決定的影響を与えたSFである。星新一作品に見られる不条理とユーモアは、本書から触発されて生み出されたものだ。
本書は、火星に移住しようとする地球人と、先住民である火星人の運命を描いた連作短編集である。つまり、マジメに読む本ではない。星新一のショートショートを読むように肩の力を抜いて味わうべき作品だ。
最初から読み通せばより楽しめるが、SFならではの面白さを知りたければ、まずは火星第二次探検隊の顛末を描いた『地球の人々』を読めばいい。
第一次探検隊が先住民である火星人側の視点で書かれているのに対し、第二次探検隊は地球人サイドから描かれている。必死の思いで火星にたどりついた地球人に対し、火星人はあまりにも素っ気ない。地球人探検隊は友好的姿勢を見せようとするが、火星人は興味すら持たない。たらい回しにされたあげく、地球人探検隊が連れて行かれた場所はどこか? この物語の展開は、これぞSFと呼びたくなる見事なものだ。
なお、第一次から第三次探検隊までの地球人火星探索はすべて失敗に終わる。ところが、第四次探検隊をもって、地球人は火星の支配者となってしまうのだ。第三次と第四次の間にいったい何が起こったのか? これまた、本書ならではのユーモアにあふれた展開である。
ただし、本書は滑稽さだけが魅力ではない。例えば、中盤に収録されている『火星の人』は優れた人間ドラマが描かれている。子供を失くした過去が忘れられぬ夫婦を中心に、善良な人々が次第にエゴをむき出しにしていく劇的な展開に心奪われる。最後の場面は、文章でも映像が鮮明に伝わる強烈なもの。もっとも印象に残る作品といえよう。
しかし、本書の最大の山場は2036年11月に始まる四連作だ。ここで、火星を舞台にした物語だからこその圧倒的瞬間が描かれる。序盤に出てきた第四次探検隊のメンバーが再登場するので、ぜひとも、この四連作を堪能するためには冒頭から通して読んでほしい。連作短編集だからこその集大成、そして、SFならではのスケールがこの四連作にある。
そして、これで本書は終わらない。最後の二編『優しく雨ぞ降りしきる』『百万年ピクニック』はどちらもタイトルが秀逸だが、その内容も詩的で絵画的だ。本書を読んだものは、タイトルを見ただけで、それぞれのシーンがよみがえるだろう。
本書の題名で使われる「年代記」という日本語は、原語の「クロニクル」でも意味が通じるようになった。ただ、本書は歴史の年表のような権力者中心の物語ではない。一般的地球人あるいは一般的火星人の視点から語られている。いわば、彼らの「日常」に襲いかかる試練を描いたものなのだ。
本書はユーモアに満ちていると書いたが、それは登場人物がフザけているのではない。その試練が彼らにとってあまりにも不条理だからユーモアが生まれるのだ。そんな彼らの悲喜こもごもが連なったとき、どんな豊潤な世界が紡ぎだされるか? ぜひとも、本書を読んでその魅力を味わってほしい。
そして、そのような性質であったがゆえに、SFはサブカルチャーとして若者に支持され、多くのイベントが開催されて、我が国のコミックマーケットに代表される同人誌即売会にも影響を与えたのである。
日本のサブカルチャーを語るうえでSFが欠かせない理由――その答えが本書にはある。
最後に、旧版と新版の違いについて語る。
もともと、この『火星年代記』は1950年に発表されたものだが、1997年に作者の手により大規模な改定が施された。そのなかでもっとも目立つのは、作中の年代設定である。
旧版では1999年から物語が始まったのに対し、新版では2030年を始発点とした。つまり、それぞれの物語の年代を、新版では31年遅らせているのだ。
これを作者の小細工だと非難するのは簡単だ。だが、それは作者が本書をSF古典としてではなく、新世代の我々にも未来小説として読ませたかっただろう。個人的に、その試みは成功していると思う。未来を描こうとしたからこそ表現できた本書の「新しさ」は旧版でも新版でも色褪せることはない。そして、それがSF最大の魅力なのだ。
◇
「長門の感想文って、わざわざ原稿用紙5枚きっかりに書かれてるんだよ。夏休みの読書感想文と同じように」
「へえ」
「今回、あえて俺は制限字数を設けなかったのだが、長門の感想文を読むと、引き締まった文章のほうがわかりやすいと気づいたよ」
「あんたはS氏なんて出すからよ」
「まあ、あれはあれで面白かったけどな」
ハルヒコはまったく反省したそぶりを見せない。次に、このような機会があれば、今度こそは私を怒らせる結果を招かないように監視しようと決意する。
「ちなみに、長門はこの『火星年代記』をキョン子に読ませたがったんだってさ」
「そうなの?」
「ああ、おまえが勝手にあの上下二分冊を選ばなかったら、もっと素直な感想文が書けたわけだ」
「悪かったわね、素直じゃなくて」
残念ながら、今回のSOS団読書感想文競作は、私の敗北であるようだ。みつる先輩のアレはさておき、その他の三人と比べて私の感想文が優れているという人は、一人もいそうにない。
「まあ、俺が予想した以上に面白い感想文が集まったのはうれしいけどな。それだけ楽しみが増えたってことで」
「あんた、ほかの子が紹介したSFも読んでみるつもりなの?」
「キョン子はどうなんだ?」
「考えておく」
ハツラツとしたハルヒコの声を聞きながら、私はふとたずねてみた。
「それにしても、あんた変わったよね?」
「なにが?」
「今回のことも、結果として長門くんのために良くなったし」
「俺のためでもあるがな」
「でも、もし、SOS団を作らなかったら、とか考えたことない?」
「もし、そうだったらアメリカに留学してたかも」
「りゅ、留学?」
「アメリカはUFO研究の本場だからな。きっと面白いヤツがいっぱいいると思うんだよ」
「そ、そんなこと考えてたの?」
「ああ、この北高には短期留学制度があるじゃねえか。二年に成績優秀者はアメリカの姉妹校に通えるってプログラムがあるだろ? 俺、それが目当てで北高に入ったところもあるし」
「でも、あれって学年で一人だけなんだよね」
「そのためなら、俺もマジメに勉強してただろうよ」
「……いまはその気はないの?」
「ああ、せっかくSOS団を作ったんだから、おまえらを置いて海外に行くのは悪いと思うし。……それに、おまえとの約束もあるし」
「あ、ああ。あれね」
かつて、ハルヒコは私に宇宙人とか超能力者とか、そういうものを発見してみせると言った。私はよくその約束を忘れるけど、ハルヒコはずっと覚えているのだ。それは女子にとってはうれしいものであるはずだった。それなのに。
「そうそう、長門の感想文を読みながら、俺も『年代記』を書いてみようと考えたんだよ。題して『SOS団年代記』とか。どうだ、面白くなりそうだと思わないか?」
「SOS団年代記? そんなことより……」
コイツは頭がいい。本気になれば、学年に一人だけ選ばれるアメリカ短期留学対象者になるのは難しくはないはずだ。
北高に入学してからのハルヒコは、あらゆる部活に体験入部したりと活動的だった。それはハルヒコなりのプランがあったせいかもしれない。私のように三年冬の大学受験だけを目標にするのではなく、二年の海外留学を意識すれば、それだけ遊ぶ時間はかぎられる。
こうして、五月初めに自分のやりたいことをやり終えて憂鬱になったハルヒコに、新たな部活を作るきっかけを与えたのは私だ。
その結果、ハルヒコはSOS団を立ち上げた。いろいろあったが、私はその部にとどまり、涼宮ハルヒコの退屈しのぎの相手をしつつ、彼がまともになりつつあると喜んでいた。
でも、それって、ハルヒコにとって良いものだったのか?
いっそのこと、ハルヒコは日本の高校生活に見切りをつけて、アメリカに居場所を見つけたほうが、将来のために良かったんじゃないか?
四月のときの、誰にも声をかけらず、ギラギラしていたハルヒコ。私の存在はそんな彼の才能を骨抜きにする価値しかなかったんじゃないか?
グラリと世界がゆらぐのを私は感じた。
ハルヒコは一人でもやっていける。でも、私はどうか?
ハルヒコがいなければ、私はみつる先輩やイツキ、そして長門くんには出会わなかった。さらには、ミッチーズ会長さんに声をかけられることも、つるやさんに恋愛相談を持ちかけられることも、生徒会長に敵対されることもなかった。
いま私が満足している日常は、ハルヒコ無しにはありえない。
そして、それがハルヒコの未来の可能性を摘んでいるとすれば……。
「おいキョン子、どうしたんだよ?」
「べ、べつになんでもない」
もし、私がハルヒコに恋しているなら話は単純だろう。ハルヒコを束縛していることに、私が喜びを感じるだけの話だ。
しかし、私が好きなのは、わけのわからないものにガムシャラに取り組んでいるハルヒコなのだ!
「ところでキョン子、長門の家ってどんなのだった? おまえ、行ったことあるだろ?」
「あ、ああ」
ハルヒコの声に私は何とかうなずく。
「あのことはあまりおまえと話してないことだけど……」
「そうそう、あの防空壕に行ったときのことだよね」
私はぼんやりと思いだす。五月のこと、私の提案で街探索をすることになって、午前中はなんの成果もなかったけど、午後は長門くんの提案した防空壕跡に行くことになって、そして――。
「ねえ、あそこって結局何かあったの?」
「おまえ、SOS団公式ブログ、読んでないのか?」
「そのこと書いてたっけ?」
「ったく、だから、おまえは団員その1にすぎないんだよ。もっとマジメに部活しろよな」
そうつぶやいて、ハルヒコは歩調を速める。ハルヒコは気分屋だから、私のペースに合わせて歩くときもあれば、こうやって私を無視して先に行ったりする。
その背中を私は追わなかった。防空壕の話なんて特に興味がなかったし。
私は自分の都合のいいときにハルヒコの相手をするだけで満足だった。その背中を懸命に追いかけることはなかった。
だから、私は失ってしまうのだ。
涼宮ハルヒコも、自分が愛していたはずの日常も。
その試練が、この一日後にせまっているとは気づかないままで。
【涼宮ハルヒコの退屈 終わり】
→『涼宮ハルヒコの消失』に続く(執筆中)
涼宮ハルヒコの退屈(キョン子シリーズPart3) 佐久間不安定 @sakuma_fuantei
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