最終章 菫(すみれ)色と魂のクオリア 夢視点 PART6
▼.
目を開けると、ショパンコンクールが終わった後の会場が広がっていた。
灯莉は自分が入賞したことに驚きを隠せなかった。この演奏で、日本人初の2位になれるとまでは思っていなかった。」
「あかりぃぃぃっ」
海が全速力で走ってくる。手を上げると、彼は犬のようにはしゃぎながら向かってきた。
「よく頑張った。偉いよ、凄いよ、感動したよ。最高の演奏だった。オレの魂が震え上がったよ、本当に凄かった」
大袈裟だ、と灯莉は思った。海はいつも子供みたいに無邪気な笑顔を見せてくれる。それが心の支えになっていると気づいたのは難聴に掛かった時からだった。
「ありがとう、海」
精一杯の笑顔を見せると、海はそれには応えずに自分を見つめるだけだった。その瞳には憂いが宿っていた。
……もう次はない、私のコンクールは終わってしまった。
声を上げて泣くと、海は何もいわずに自分の体を覆ってくれている。そのまま目を伏せて彼の胸の中にうずくまった。
悔しい気持ちで一杯だった。第三楽章でテンポが遅れたのは、途中で右耳の振動が激しくなり左耳にまで及んだからだ。右耳を塞いで腹を括っていたが、それだけの覚悟では足りなかったと後悔するしかなかった。
この大会は五年に一度、もう自分の年齢では出られない――。
「もしオレ達の子供が音楽の道を受け入れてくれたらさ、またここに戻ってこよう」
海は灯莉の耳元で囁いた。左耳だった。
「二位ってことは次は一位が目指させるってことじゃないか。まだ終わっていない。君の子だったら、きっとピアノが好きになるさ」
海の肩に首を当て、顎で返事をする。プロポーズだと理解した上での返事だった。
「ありがとう、海。でも……私はあなたとはいられないわ」
「どうして?」
「気づいているのだろうけど、私は難聴を患っているの。これも知っていることだろうけど、今の医療では治しようがないのよ。そしてね、この難聴は遺伝するの。半分の確率でね。だから私はあなたの子を生む資格はないわ」
「それがなんだ? 半分の確率だろう? 半分は正常な子供が生まれてくるということじゃないか」
海は大袈裟に笑った。そんなことは予測しているといった感じだった。
「確かに二人の子供を生めば、お互いに不平等な形で生まれてくる可能性はある。だけど一人だけ生めば、それは起こらない。もし難聴の子供が生まれてきたとしても、二人で支えていけばいい」
再び感情の波に襲われる。海はきっと考えてくれていたのだろう。それは嬉しい。
だけど――。
「……もしね。双子が生まれたらどうするの?」
海の表情が固まった。予想外のことを聞いているような表情だ。
「難聴の子とそうでない子が生まれたらどうするの? その状態で難聴の子が楽器を弾きたいといったらどうなると思う?」
「それは……考えていなかった……」
「そうなったら家族はバラバラになるわ。難聴の子はきっとコンプレックスに思って二度と音楽を聴かなくなると思うし、生活すること自体が困難になるわ。確実に私の愛情はその子に偏ることになると思う」
海は黙っていた。無言の沈黙が痛い。
だけどこれしか道はない。この場で決着をつけることができなければ、自分は一生後悔する。
「確かにそうなれば君の愛情は偏るだろうな。けれど……」
海は灯莉の肩を掴んだ。
「オレの愛情はもう片方に注ぐことができる。何も問題はない」
「どうして?」
剣呑な目で彼を睨む。ここで彼にいいくるめられれば彼を不幸にしてしまう。
「さっきは二人の愛情があればいいといったが、楓を見て思うことがある。彼女は片親だけで育っているけど、何か不足している部分があるかな? オレはないと思うね」
……矛盾してる。
難聴の子が生まれたら、二人で助け合っていくといって、双子が生まれたら別々に育もうといっている。
海は音楽的な才能はあったが、頭で考えるのは苦手なタイプだった。ともかく自分を説得しようとしているのだと思うと、滑稽に思うしかなかった。
「無茶苦茶なことをいっているのはわかっている。何なら子供を生まなくてもいい。ともかくオレは君と一緒になりたいんだ。それだけなんだ、だから灯莉……」
「……何であんたが泣いているのよ。泣きたいのは私の方なのに」
「……しょうがないだろう。出るものは出るんだ。君の代わりにオレが泣いているんだ、ともかくオレは君と一緒になりたい」
……何をいっているんだこいつは。
再び彼と視線が合う。懸命に涙を耐えている海の姿を見て自分の心が揺らいでいく。彼とならどんな未来が待ち受けていても乗り越えられるかもしれない。
――結婚なんてタイミングと勢いよ。私には生まれた時から母親がいなかったから、あんまりピンとこないんだけどね。
遥と結婚した楓は今や音楽業界から離れ、毎朝花市場に向かっている。文字通り、勢いで今までの生活を一変させていた。
「……しょうがないわね。私も覚悟を決めるわ。その代わり、一つだけ条件がある」
「うん。なんだい? 何でもいいよ」
……まさか即答されるとは。
「本当に何でもいいのね?」
「ああ、オレの名は
彼の真剣な顔を見て覚悟を決める。彼がこういう場合は意地でも意思を通すことを知っている。
「生まれてくる子の名前は私が付けること。それと子供は一人だけ。それだけでいいわ」
「なんだ、二つじゃないか」
海はのほほんとした顔でいった。
「本当にそれだけでいいのか?」
「もちろん、それだけでいいわ」
「じゃあ、決まりだな」
海はとびっきりの笑顔を見せた後、スーツのポケットから小さい箱を取り出した。夕焼けを閉じ込めたようなルビーの指輪が入っていた。
「君に貰ったタクトのお返しだ。オレはあれがあったから今まで目標に向かって頑張って来れた。今度は君を支える番だ」
……楓もこんな感じだったのかな。
あんたもこんな気持ちで決断したの? でも悪い気分じゃないわね。
「……どうかサイズが合いますように」
海は念仏を唱えるように指輪を掴んだ。そのまま灯莉の指に滑り込まれていった。
……それくらい確認しておきなさいよ。
心の中で突っ込みを入れながら指輪の行方を見守る。指輪はきっちりと奥まで入ったが、少しだけ緩かった。
「……ごめんなさい」
海はその場で土下座をして懇願した。
「次はちゃんととした指輪を持ってきますので、どうか結婚だけは……」
「絶対だからねっ」
緩い指輪を回しながら答える。
「でも得しちゃった。この指輪も頂くわね。娘だったら、プレゼントするのもありかな」
「え?」
海は戸惑いながら顔を青ざめていった。
「もう貯金が……」
「頑張って溜めて下さいね、旦那様。それまで結婚はお預けです」
「…………はい」
海はそのまま崩れ落ちるように顔を伏せていた。
にやにやと笑いながら指輪を見つめると、先の未来が見える気がした。
新婚旅行は再びポーランドでもいいなと考えていた。
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