最終章 菫(すみれ)色と魂のクオリア PART5
5.
当時、鷹尾鏡花として東京に住んでいた頃。
彼女は東京の全日本中学ピアノコンクールに出場していた。本選では課題曲はなく、各自好きな曲を披露していいことになっていた。
鏡花はリストの超絶技巧曲第5番『鬼火』を弾き、会場を沸かしていた。この曲はコンクールには不向きな作品だった。プロでもミスタッチを起こすような曲を選んだのは、自分自身に重荷を科したかったからに他ならない。
鏡花はピアニスト・観音寺灯莉を尊敬していた。彼女のピアノに出会い、エネルギーを受け懸命に練習を重ねていた。そしてある時、彼女のビデオを見て異変に気づいた。それはショパンコンクールのビデオだった。
鏡花も好きな『革命』を弾いている時だ。いつも以上に彼女は右手を激しく鳴らしていた。鍵盤を拳で叩いているような感じだった。それを見た後に本選のビデオを見て彼女は驚愕した。
彼女の本選のリズムのズレは音を正確に聞き取れなかったのだと確信した。右耳が聞こえていないため、高音を強く叩いていたのだ。それから鏡花は自分を追い込むように練習を重ねた。
自分は健常者だ。耳が聞こえていない人物でもあの舞台で二位になっている。自分なら一位をとれるはずだ。そして満を持して彼女に会いたい。それが新たな目標となった。
自分の出番を終え颯爽と退場したが、次に弾く人物の曲を聴いて彼女は声を上げた。何かの間違いだと思った。
……自分と全く同じ選曲をしている。
次に弾いている人物は観音寺灯莉の息子・水樹だった。彼がコンクールで有名なのは知っていたが、繊細で柔らかい曲を弾くことが彼の持ち味だと思っていた。
その空想は宙に消えた。
水樹が奏でる演奏は激しく、魂に揺さぶりを掛けるような熱を持っていた。目にも止まらないパッセージの繰り返しは一つの建物を焼き尽くすように一瞬たりとも静まることはなかった。
控え室から駆け足で会場に向かうと、鍵盤の上を炎が遊ぶように踊っていた。自分が演奏したものとは次元が違うことをはっきりと認識させられた。そのまま酸素を奪われ息を止めさせられた。
気づいた時には演奏は終わっていた。これが灯莉のピアノなんだと、自分の耳を通して理解するしかなかった。
結果はいうまでもなく、水樹の一位で幕を閉じた。しかし悔しくはなかった。彼が将来ショパンコンクールで一位をとってもいいとさえ思っていた。事実、彼は灯莉の息子なのだ。彼女自身もそう思っているに違いない。そう考えて自分を慰めた。
会場から出ると、その彼から声を掛けられた。神妙な顔をして、どこか影を持っている感じだった。鏡花は彼と一緒に近くの公園を散歩した。
水樹の話は今回の演奏会だけでなく私生活にまで及んだ。自分の夢は兄とコンチェルトを成功させること。そのためにピアノを習っているといっていた。鏡花は意外に思った。灯莉の無念を晴らすためだと思っていたからだ。
水樹は唐突にオペラのチェンバロの演奏を引き受けてくれないかといってきた。
鏡花は激しくかぶりを振った。今回の大会の目玉はそれだからだ。理由を尋ねると、兄と協奏曲をする方が先だということだった。
それを聞いて鏡花は激しく抗議した。そんなことをしていては兄と協奏曲を弾くどころか、ショパンコンクールにすら出られなくなると大声で罵った。ショパンコンクールでは今までのコンクール前歴を提示しなければならないからだ。
それでもいいと水樹は静かな口調で答えた。
「どうしても叶えたい夢なんです。そのために今日はリストを選んだんです」
審査員が超絶技巧を好むことを予想していたと彼は付け加えた。
本来の彼なら繊細な曲を弾きたかったに違いない、と鏡花は思った。しかしコンクールで入賞を果たすために『鬼火』を選んだのだ。有名になることで兄との約束を忠実に果たそうとしているのだと理解した時には、水樹の提案を呑んでいた。
「わがままですが、筋は通ってますね……。私の夢はショパンコンクールで優勝することです」
彼にそう宣誓すると、彼もまたショパンコンクールを受けることを望んでいた。それは純粋に母を思ってのことだった。
気がつけば一年先の約束まで交わしていた。本選で彼が『第一番』を弾き、自分が『第二番』を弾く。それは描いた夢の中で最高のものだった。
余程気持ちが高ぶっていたのだろう。約束が確定した時には演奏以上に胸が熱くなっていた。
それからは水樹のことを考えない日はなかった。
一年後、鏡花は約束通り水樹と再会することになった。水樹は背が伸びており、成長した姿に彼女は胸を高鳴らせた。
彼の双子の兄・火蓮とはこの時、初めて会った。双子ということで同じ顔立ちを想像していたが、全くかけ離れていた。火蓮は褐色肌の短髪で、体もがっちりとしていた。兄弟といわれないとわからない程だった。
そしてその隣には協奏曲で共演した美月がいた。彼女が東京にいた頃、家に遊びに行くほど仲良くなっていた。その時に父親が医者だということも聞いていた。品の良さから漂う金持ち特有のオーラも健在だった。
ショパン生誕コンサートの次の日、彼らは4人で千葉にあるテーマパークに遊びにいった。その時に美月にお願いしていたことがあった。
一年以上考えた結果、やはり思いを告げようと思っていた。そして美月の手伝いもあり、観覧車に二人で乗ることに成功した。
水樹に思いを告げると、意外なことに水樹も自分と付き合いたいといってきた。勢いに任せて口づけを交わし交際が始まった。最高に幸せだった。
絶頂を迎えてから一ヵ月後、家でいつも通りピアノの練習に励んでいた頃だった。母親が電話を受け取り青ざめていた。どうやら父親のトラックが運悪く乗用車を跳ね、四人家族のうち二人が亡くなったと母親から告げられた。
鏡花は驚愕した。相手の家族のことも気になるが、父親の様態が一番気になった。
場所は? と母親に問うと、九州の方よ、といわれた。
嫌な予感がした。
病院に駆けつけると、父親は亡くなっていた。病院に搬送される間に亡くなったらしい。過労からくる居眠り事故だったと告げられた。
彼女は泣くに泣けなかった。父親は自分の学費を稼ぐために奮闘していた。音楽高校の学費は通常のものよりも高いからだ。自分のために短距離トラックから遠距離トラックを扱う会社にまで再就職してくれていたのだ。
……その父親がまさか事故に遭うなんて――。
父のことを考えると頭がパンクしそうになった。意識が朦朧とし、何も考えることができなかった。
母親の付き添いで、相手の家族の所に向かった。どうやら同じ病院に入院しているらしい。相手の表札を見た時には体中の血が一瞬で沸騰し一気に冷めた。
表札には観音寺と書いてあった。そしてその横に水樹、火蓮と書かれているのを見ると、大股で迫ってくる同い年くらいの女の子がいた。なぜかはわからないが、この子は水樹のことが好きなんだなと直感した。
彼女は母親に突っかかる前に鏡花の胸倉を掴んで叫び続けた。彼女の長い髪さえも鏡花を捉えているのではないかと錯覚した。父親の起こした行動がこんなにも悲惨なことになっているとは考えてもいなかった。事実、二人亡くなっていると聞いていた時も現実味を帯びていなかった。
初めてそれを理解した時、鏡花は地面に頭を擦り付けて謝った。胸倉を掴んできた彼女はすでに冷静になっていたが、それでも頭を上げることはできなかった。
自分の父親が尊敬する灯莉を殺したのだと理解した。彼女の無念を晴らすためにピアノを弾いてきた鏡花には残酷すぎる話だった。
同い年くらいの女の子は条件をつけてきた。
水樹の前に二度と現れないこと、彼の演奏には近づかないこと。
懇願している彼女を見て鏡花は呆然とした。何の目的があって、こういうことをいっているのかまるでわからなかった。てっきり水樹の前で謝って別れてくれというのかと思っていた。
彼女の許しを請うことは鏡花には関係ないことだった。しかし条件を飲んだ。自分自身に何かを科さなければいけないと思ったからだ。
病室から逃げるようにして離れると、最近会ったばかりの女の子が棒のように立っていた。こんな偶然が重なるものなのかと言葉を失いかけた時、彼女は優しい目で鏡花を包んでいた。彼女特有のオーラは微かに残っていた。
開口一番の挨拶がやあ、という素っ気ないものだったが、鏡花にそっちの方がよかった。
「……まさか鏡花ちゃんがここにいるなんて思わなかったよ」
美月はジュースを二本手にして鏡花に一本手渡した。鏡花は小さくお礼をいった。
「私だってそうよ。まさかこんなことになってるなんて思わなかった……」
美月は長い髪を指に絡めながらこっちを見た。彼女が苛立っている時の癖だった。
「水樹君の所に挨拶に行ったのよね? 幸い一命を取り留めたみたいだけど」
鏡花は二人の体がどうなっているかということを知らなかった。両親が亡くなったというだけで、二人は病室に寝ている、二人にはそれほど危害がないと勝手に考えていた。自分の短絡的な思考を呪った。
「そうだったの、ごめんなさい……」
「鏡花ちゃんが謝ることじゃないわ」
美月は子供を宥めるような優しい目をしていた。
鏡花は自分の運命を深く恨んだ。デートの時に付き合っていると公言しなかったが、美月は火蓮と付き合っているのだと確信した。
「もう美月ちゃんとは連絡を取らないほうがいいね。ごめんね……」
鏡花は泣きながら謝罪の言葉を考えていた。しかし、どれをとっても美月を苦しめることになると思い止めた。
そのまま走り去ろうとすると、彼女は鏡花の腕を掴んだ。
「待って。私もね、鏡花ちゃんにいいたいことがある。だけど鏡花ちゃんが辛いのもわかってる。だからね、一つだけいわせて」
美月は鏡花を抱きしめていった。
「ピアノだけは止めないで。私、鏡花ちゃんのピアノが好きなの。きっとお互い笑い合える日が来るよ。だって鏡花ちゃんがやったことじゃないのよ。だからお願い……」
美月は鏡花から離れて不自然に両方の頬を上げていた。無理やりに笑っているのだと思うと、やりきれない思いが溢れてきた。
……今は作り笑顔しか作れない。だけど将来自然に笑いあいたい。
そういう意味が含まれているのだろうと美月を見て推測した。
美月の瞳は暗闇を払拭する光を放っていた。月の光のようにおぼろげだが、優しい光だった。鏡花にまとわりついている闇が一瞬消えたような気がした。
「……ありがとう。これから私、どうなるかわからないけど、ピアノだけは続けてみる。頑張るよ。ありがとう……、ありがとね、美月ちゃん……」
母親の元に向かった時には涙は止まっていた。家族二人で生きて行かなければならないのだ。歯を食いしばり無理やりに両頬を上げて笑顔を作った。
鏡花は今やっと自分の使命が見えたと思った。尊敬する灯莉のためにピアノを弾きたいというのはただの口実だった。
……自分のためにピアノが弾きたい。
この命は誰のものでもない。他ならぬ私のものだ。
私は今、生きている。このまま生き抜いて、ピアノを弾き続けてやる。
私が生きていける世界はピアノしかないのだ。
この思いを全て、ピアノに掛けていこう。
揺ぎない思いはやがて心に火を灯した。今はまだ蝋燭のような小さくてか弱い存在だ。だが灯莉のように、生涯を掛ければ私にだって見える夢がある。
希望の炎を灯し、鏡花は小さく拳を作り胸に手をあてた。
心臓の鼓動音がどくんと強く高鳴った。
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