最終章 菫(すみれ)色と魂のクオリア PART6

  6.


 風が強く吹いていた。


 暖かい飲み物を買いに行くと鏡花に告げて、近くの自動販売機を探した。どの道に行けばいいかということさえ考えずに飛び出していた。


 鏡花の話はこれ以上ない哀愁を漂わせていた。自分の魂が父親であるといった仮説があることさえ忘れていた。


 ……あの『革命』は、やはり彼女の本当の気持ちだったのか。


 鏡花の真相を知って初めて、彼女のピアノの奥行きを理解できた。ショパンの絶望をこれ以上ない程表現していたが、それは彼女だからこそできるのだと思った。


 ベンチに戻った時、彼女の姿はそこになかった。


 ……美味しいな。


 彼女がいた場所に座り、一人でブラックコーヒーを啜る。久しぶりに味覚が働き、感覚が戻っていく。


 10年前、彼女と何といって約束を交わしたのだろうか。きっとこの事故がなければ、お互い別の道があったに違いない。


「……もう戻ってこないのかと思いました」


「……私も、あなたが戻ってこないかと」


 再び鏡花と目が合うと、小さく笑った。


「あなたと話せてよかったです。こんなことをいうのも何ですけど、きっと僕はあなたに恋をしていました」


 敬意を表して右腕を出すと、彼女は笑いながら否定した。


「そういうの、よくないですよ。思い出は思い出です。それにあなたには素晴らしい彼女がいるじゃないですか」


「……そうですね。彼女のしたことは全て、僕のことを考えてくれていたんですね――」


 

 中学時代のコンクールの記憶、リストの超絶技巧曲、鏡花の存在。これら全てを風花は意図的に消し去った。自分を守るためにやむを得ず、実行したに違いない。


 美月にデートの様子を聞き込み、忠実に頭に叩き込む。家にあるビデオを全て観察し、ストーンウェイが扱われたものを取り払う。鏡花に似せるため長い髪もばっさりと切った。


 全ては自分の意識を保つため、アイデンティティの崩壊を防ぐためだ。それだけでなく交通事故の詳細を隠蔽することも含まれている。不可解な行動はこの一点に集中していた。


 それは今だからこそ納得できるものだ。もしかすると火蓮のように自分自身を見失い自暴自棄になっていたかもしれない。


 ……風花はどんな思いでこれらのことをやったのだろう。


 そう考えると体中の血が滾った。自分のことを疑いながらも信じ続け、確固たる信念を持っていた彼女へ再び思いを馳せる。言葉では言い表せない感謝の気持ちで溢れていく。


 ……風花がいたから、僕は本当にピアノを弾くことができたんだ。


「私の国には水火同源という言葉があります」


 鏡花は抑揚のない声でいった。


「私の故郷には水と火が一体となっている場所があるんです。水と火が一体になる時、魂魄こんぱく、つまり体と魂さえも超越することができるといわれています」


「……なるほど」


 今の自分なら彼女のいっている意味がわかる。二人の体を行き来した自分の魂なら――。


 鏡花は水樹に手を差し伸べてきた。


「十年ぶりの再会ですね。またどこかで会った時には、きっと笑顔で会いたいです」


「僕もです。きっと今度も笑顔で会えますよ」


 鏡花の手には生命力に溢れた暖かさがあった。絶望など微塵にも感じなかった。


 水樹はそのまま踵を返し火蓮のいるホテルに戻った。


 後ろを振り返ることはしなかった。

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