最終章 菫(すみれ)色と魂のクオリア PART4

  4.


 コンサートホールから出て思いっきり走った。周りは年末ということもあり行き交う人はほとんどいない。彼女がいるとしたらあの公園しかない。


 噴水が上がっている場所に辿り着くと、黒いスーツを着た女が煙草をふかしていた。


 ……まさか本当にいるなんて。


 駆け出して彼女の前に立つ。何度も息継ぎをして、これから話さなければならない内容を頭の中で何度も反芻する。


「観音寺さん? 偶然ですね、こんな所で会うなんて」


「偶然じゃないですよ、僕が走ってここまで来たことは見ればわかりますよね?」


 息を整えようとしても、肺にはまだ充分な酸素がいっていない。気持ちばかり焦っていく。


「どうしてですか? 私のことは嫌いなんでしょう? 会いに来る必要がありません」


「好きとか嫌いとかの感情じゃありません。あなたに聞かなければいけないことがあります」


 そう、と彼女は小さく呟いた。


「十年前にもこのホールでコンクールがありましたよね? そこにあなたと僕はいた」


 思いっきり息を吸い込んでいう。


「あなたはさんなんでしょう? リストの超絶技巧曲をお互いに弾いて、僕が一位であなたが二位になった。それであなたがモーツァルトのドン・ジョヴァンニを協奏曲で演奏した。違いますか?」


 彼女は黙って水樹の言葉に耳を傾けていた。


「ヤンという名前、日本語にすると炎という意味になりますよね? あなたがどういう経由で中国に行ったのかはわかりません。しかしこの公園であなたと出会った気がするんです。どうか、本当のことを教えて下さい」


 ヤン・ミンは煙草の火を消して、呆然と空を眺めた。そのまま視線は固まっていた。あなたに答えることは何もないと語っていた。


「僕には……記憶がありません。それでもあなたには特別な感情があった気がするんです」


 ヤンの視点は水樹に釘付けになっていた。眉間に皺を寄せたままこちらを見ている。


「どうかお願いします。真実を教えて下さい」


「……本当にいっていいんですか?」


 ヤンの剣呑な視線が刺さる。


「後悔することになるかもしれませんよ」


「構いません」


「……そうですか」


 ヤンは小さく頷き、再び煙草に火を点けた。


「仰る通り、私は鷹尾鏡花という名がありました。あなたと中学生コンクールで腕を競いあっていました」


「……やっぱりそうだったんだ」


 水樹は横に座っていいかと尋ねると、彼女は無言で尻をずらした。


「事故に会った時、あなたは僕の見舞いに来てくれましたね? それは偶然病院にいたわけじゃなくて、あなたも被害者だったんだ……」


 直接的な表現は避けた。それで充分彼女に伝わると思ったからだ。


「被害者という表現を鵜呑みにはできませんけど。そういうことです」


「続きを話して貰えませんか? あなたの知っている全てを知りたい」


「……わかりました。私の知っていることでよければ、お伝えしましょう」


 ヤンはふぅと小さく溜息をつき、背筋をぴんと伸ばした。


「あなたと出会ったのは10年前、正確には十一年前のコンクールが初めてです。ご存知の通り今日演奏したホールです」

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