長編小説２ 『魂のクオリア』

第四章 藍の鼓動と茜の静寂 PART５

　　５．

「２階だよ」

「２階の……どこ？」

　彼女を覗くと言葉に詰まる。緋色に染まっていた瞳がさらに深みを増している。

「もしかして……１階で見てたんじゃない？」

「何でそう思ったの？」

「水樹が……もっと近くにいると思ったの」

　心臓が大きくバウンドする。確かに彼女のいう通り、指揮台の上に立っていたのだから一階にいたといっても過言じゃない。

「こんな回りくどい言い方をしてごめんね。指揮をしている火蓮がね、水樹に見えたの」

　全身が凍りつくように固まる。やはり風花は何かに気づいている。

「ごめんね、こんなこといって……気にしないで」

「昨日のミュージカルは何か違ったの？」

「いつも以上に心を奪われる指揮だったの。火蓮の姿を見ているだけで息が止まりそうだった」

　何もいうことができない。事実、その通りだったからだ。コーラスに絡まる打楽器、木管楽器、弦楽器、全てが新鮮だった。目を閉じれば振動音が今にも聴こえてきそうだ。

「正直に答えてくれてありがとう。こりゃ最悪、三角関係になるかもしれないな」

　おどけるようにいう。

「今のうちに兄さんに釘を打っておかないと。大変なことになるかもしれない」

「……ならないよ」

「なんで、そういえるの？」

「水樹以外を好きになるわけないじゃない」

「それはわからないよ」

「……わかるもん」

　もし中身が入れ替わっても？　といいたかったが、水樹は止めて話題を変えた。

「ポーランドに行く時に結婚の約束をしたよね、なんであの時に決めたの？」

「……あのまま離れたら、もう二度と会えないと思ったから」

　そういって彼女は我に返ったように顔を真っ赤にさせて、慌てて言葉を並べ立てた。

「もしかしたらさ、他の女の人、連れて帰って来るかもしれないじゃん。綺麗な外人さんとかさ」

「そんなことしないよ」

「いーや、水樹はわからないからね。自分よりうまいピアニストがいたら声掛けるでしょ？」

「そりゃ当たり前だ」

「じゃあ、それが女の人だったら、水樹のことを好きになるかもしれないでしょ」

「……ならない」

「なんで言い切れるの？」

「風花に怒られるのが怖いから」

　そういうと、風花は手に持っていたバックを振りかぶっていた。

「もう一回、記憶が飛んでもいいかしら？　水樹さん」

　彼女の瞳に狂気を覚える。あの時に見たヤンの姿を思い出す。

「すいません、冗談でもいいません」

「よろしい」

風花は手の力を抜いてそのまま体を寄せてきた。

「……まったく。どれだけ心配してたと思ってるの。一年の埋め合わせは一日じゃできないんだからね。一生償ってよ」

「ごめんね」

　謝りながら唇を重ね合わせる。

「……もう一回して」

「後、一回でいいの？」

「私の気の済むまでしてくれる？」

「うん。帰りのバスの時間までで済むならね」

　再び口づけをする。いつの間にか激しい熱の奪い合いを始めるように絡み付いていく。彼女の体温が自分の中に伝わっていく。

　……風花以外を好きになるわけがない。

　心の中で誓いながら、彼女に再び口づけをすると、彼女はさらに激しく求めてきた。

　……好きだよ、風花。

　冷えた風が二人を遮るように、ゆっくりと吹き込んでは消えていった。