第四章 藍の鼓動と茜の静寂 PART4
4.
「……ちゃんとここに来るって教えてくれたらいいのに。ここはブーツじゃ歩きにくいよ」
若松海岸に辿り着くと、平日で人も少なく一組の親子が砂浜を歩いているだけだった。少し肌寒いが海の香りが心地いい。
風花の顔を見ると本気でいっていないのがわかる。艶のいい唇が緩んでいたからだ。
「だって、先にいったら面白くないでしょ? 僕だって楽しみにしてたんだから」
夢で見て、さっき思いついたなんていえない。
砂浜を歩くと靴が砂の中に埋もれた。久しぶりに味わうこの感触がとても懐かしい。靴を脱いで味わいたかったが、さすがに子供じみた真似になるなと思い我慢する。
風花はコートに手を突っ込んだまま波打ち際まで近づいている。
「……懐かしい。あれは小学校の時だったんだよ」
「うん、そうだったみたいだね」
夢の中で見た景色を想像する。それと同時に波の音が自分の中に染み渡っていく。この海の景色を見たからこそ、自分はピアノの音に水の躍動感、繊細さを込めることができたのだと実感する。
日が沈み海の色は淡い青色から仄暗い
「少しだけ……記憶が蘇ったんだ」
水樹は小さく呟いた。
「三人で自転車に乗ってここに来たこと、帰りが遅くなって母さんに怒られたこと、火蓮がポケットからお金を出してタクシーで帰ろうって提案したこと……」
「……」
風花は何もいわずに波を見つめている。何かを考えているように表情は硬い。
「……どうしたの? 急に静かになって」
「んーん、波を見てたらついぼーっとしちゃって……」
彼女の様子はとても呆然としているようには見えなかった。どこか記憶間違いでもあったのだろうか。
「そんなことまで思い出したんだね。嬉しいよ」
風花は波を眺めながら続ける。
「本当に助かってよかった……あの時、本当にどうしたらいいかわからなかったよ。嫌がっている水樹を無理やりピアノの前に立たせたのは今でも悪かったなと思ってる……」
「そんなことないさ、あれがあったから今の僕はピアノが弾けるんだ。感謝してる」
事故が起こったのは両親と百獣の王を見にいった帰りだった。父親が運転する車の中でうっすらと眠り掛けていた時、大きな金属音が聞こえた。気がついた時には美月の父親が働いている病院のベッドの上だった。
両親は二人とも車の中で即死だったらしい。遺体が残らないほど車の前面が消失していたとのことだ。自分達の座っていた後車はガードレールに直撃し、お互いに一種の記憶障害が残ってしまった。
その記憶の手助けをしてくれたのが風花だった。小さい頃のアルバムを引っ張り出し丁寧に説明してくれて、自分達の得意だった楽器を触らせてくれた。
お互いに中々弾けずに戸惑っていると、彼女は家に残っていたビデオテープを再生させて楽器の弾き方を思い出させようとしてくれた。水樹にはピアノのコンクールのビデオが多数あり、火蓮の場合には家で様々な楽器を弾いていたビデオが残っていた。
それからは火蓮に対抗意識を燃やして無我夢中でピアノを弾いた。次第にピアノに対する違和感はなくなり愛情が増していった。
「今でも思うよ、あの時に風花が僕達を熱心に介護してくれなかったら、今の僕達はいないからね」
「……」
風花は黙って頷くだけだった。潤んだ瞳に何か別の感情が潜んでいるようにも見えるが、わからない。
「……ねぇ、水樹。あたしと初めてキスした時のことは思い出した?」
「ごめん、そこまでは思い出せてないよ。いつしたの?」
「聞きたい?」
風花はにやにやして水樹の顔を眺めている。
「あれは高校一年の時だよ。いつもの四人で遊園地に行ったんだ。新しくなった観覧車の中でね。火蓮が高い所、駄目だったから、二人で乗ったのよ」
……火蓮が高い所が苦手?
そんなイメージはないが、当時はそうだったのかもしれない。
「ずっと待ってたんだけど、水樹がしてくれないから、自分から攻めてみたの」
今の自分には考えられない、自分の方が愛情が大きいと確信しているからだ。きっと高校生ということもあって恥ずかしかったのだろう。
「私は小さい頃からずっと……水樹にアピールしてたの。だけどあなたは私のことを友達としてしか見てくれなかった。だから、私の方を振り向いて欲しくて頑張ったの」
風花はえへへと笑いながら、海の方に体を向けた。両手の親指を擦り合っている。
「そっか。僕はその前から風花のことが好きだったと思うけどな」
「そうだったら嬉しいなぁ……」
風花はしゃがんだまま波に当たるか当たらないかの瀬戸際で海を眺めている。
「その後はさ、火蓮達と別れて二人でデートしたの。美月もプライドが高いから、中々難しかったんじゃないかな」
「美月から攻めてたの?」
「気になる?」
彼女は目を大きく開けて水樹の瞳を覗き込んできた。目の中にある虹彩が光を吸収して緋色に輝いている。
「……お互いに好きだったみたいよ、私の推測だけど」
「じゃあ、それは当たってるんだろうな」
「どうして?」
「風花は鋭いからね。僕は今までに風花に対して一度も嘘をついたことがないよ。つけなかった、だけかもしれないけど」
「あら、そうですか。じゃあ一つ尋ねたいことがあるんだけど……」
風花の顔を見ると、体が震えていく。彼女の真剣な表情に息を呑まずにはいられない。
「昨日さ。また、ミュージカルを見に来てたでしょ。どこで見てたの?」
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