第一章 青の静寂と赤の鼓動 PART1

 

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 第一章 青    赤

      の    の

       静寂   鼓動

         と   


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  1.

 

「兄さん、そろそろ起きないと遅刻するよ」


「まだ十一時じゃないか。後三十分は寝れる」


「またそんなこといって。ほら、風花ふうかが先に来たよ」


 インターホンが何度もこだましている。水樹みずきは足早に階段を降りてドアを開けた。


「おはよう、水樹」


 ドアを開けると、風花がにっこり微笑んでいた。先日、プレゼントした水色のワンピースを着ている。


「……火蓮かれんはまだ寝ているの?」


「ああ、そうなんだ。兄さんが起きてこないから、まだご飯も食べていない。先に家の中に入ってくれない? すぐにコーヒーを淹れるよ」


 風花は頷きながら小さくお邪魔しますと声を上げた。そのまま窓際にあるベージュ色のソファに座ってくつろいでいる。


 再び二階に上がり火蓮の部屋に入ると、赤いシーツの上で彼はごろごろと転がっていた。きっと二度寝に入ったに違いない。


「兄さん、そろそろ起きてよ」


「ふへ、そうだな。後10分だけ……」


「まったく、早くしてよ。風花はもう来てるんだからね」


 一階に降り、風花の席にコーヒーソーサーを並べその上にカップを置く。


「もう少しだけ、ゆっくりしてて。まだ時間が掛かるみたいだ。本人はこの一年で立派な社会人になったつもりらしいけど、僕にはその変化がわからない」


「あたしの目から見ても何も変わってないわよ。一年なんてあっという間だもの」


 風花はコーヒーを一口飲んで、カップを持ったまま口元を緩ませた。


「……水樹の淹れてくれたコーヒーはやっぱり落ち着くね。帰ってきてくれてよかった。あのまま日本には帰ってこないと思ったから」


「必ず帰ると約束したじゃないか」


 たじろぎながらも牽制すると、風花はぶるぶると首を振った。


「……だからこそ怖かったの。出発当日に打ち明けられる気持ちなんて、あなたにはわからないわよ」


 風花はカップを置いて、ソファーの背もたれにぐいっと寄りかかった。火蓮が降りて来ないことに託けて、今のうちにたまりに溜まった鬱憤を吐き出すつもりらしい。


「あの時は本当にすまなかった。タイミングがわからなかったんだ、それでどんどん伸びていって……」


「ほんと、タイミングがいいのはピアノの入り方だけよね」


 返す言葉が見つからない。ケトルを握ったまま沈黙を貫いていると、風花は笑顔を見せて呟いた。


「でもね、もういいの。水樹がちゃんと帰って来てくれたからね、それだけで嬉しい。賞を取った時の約束覚えてる?」


 ……え? 何のこと?


 そう口にしたかったが、心の中で言葉を丸め込む。ショパン国際コンクール入賞を果たした時には結婚しようと誓ったのだ。


 コンクールのレベルの高さをわかっているからこそ、できた約束だった。しかし一位をとって凱旋帰国してしまったのだから、断る理由もない。


「……ああ、覚えてるよ。もちろん約束は守る。でもまだ早いんじゃないかな。僕達はまだ――」


「まだじゃないわよ。もう結婚ができる年齢はとっくに過ぎてるわ」


 風花は席を立って水樹の唇を指で塞いだ。


「あたしはずっと待ってたんだから、そろそろ決めてくれないとこのまま首を絞めちゃうかもよ」


 風花はそのまま水樹の首筋に手を掛けて首を絞めるポーズをとった。指の感触からいって、返答次第ではこのまま本当に絞められる恐れがある。


「おいおい、冗談は止めてくれ。う、眩暈がする……」


「え? ちょっと、大丈夫?」


「ああ、時差ボケかもしれない」


 笑顔で答えると、彼女はがっくりと肩を落とした。


「はぁ、何いってるのよ……。ポーランドから帰ってきて一週間は経つでしょ。そんなに結婚したくないの?」


「したくないわけじゃない。時期の問題だよ。君にだって仕事があるし、結婚するとなったら子供のことも考えないといけないだろう? まだ定職についているわけじゃないし、それからでも遅くはないと思うよ」


「まあ、そうだけど……」


 風花は自分の腰の辺りで親指を擦り合わせた。彼女の緊張した時にする癖だ。


「…………そっか。そうかもしれないね。水樹がそういうのなら、もうちょっと待とうかな」


「そうだよ。風花は何人の子供が欲しい?」


「あたしは一人でいいわ。男の子がいい。女の子が生まれてきたら、あたしのことをライバルとして見るかもしれないでしょ」


「そんなことになるわけないよ。変な所で心配症だなぁ」


「いーや、わからないわ。水樹はころっと女の子を騙しちゃうくせがあるからね。ポーランドでも何人の女の子をくどいてきたのよ」


「浮気なんてするわけがない。気にし過ぎだよ」


 口づけをしても、風花は納得がいかないようだ。眉間に皺が寄っている。


「だってこれだけ有名になったのよ、心配にならない方がおかしいわ。それに水樹は格好がいいから、これから女性のファンが増えるわよ」


「これからどうなったって風花だけだよ」


「じゃあ、そういうんならさ……」


 風花はくるりと背を向けて、ピアノに指を差した。


「あたしだけのために一曲弾いてよ」


「弾かせて頂きますよ、お姫様。どんな曲名をお望みで?」


「……またそうやって訊く。何でもいいよ、水樹のピアノなら」


 彼女が何でもいいという時は何でもよくないということだ。頭を捻り考えた結果、穏やかなメロディを奏でる曲にした。



 ピアノ協奏曲 『第一番』 第二楽章



 協奏曲でありながら前面に渡って奏でられるピアノはソロでも充分に魅力が伝わる曲になっている。ショパンコンクールの本選で弾いた曲でもあり、風花にとっても馴染みがある曲だった。


 ハーブのように柔らかい音色をぽろん、ぽろんと奏でると、部屋の中が静謐な森のように穏やかな空気に包まれていった。ピアノの前で彼女と再び口づけを交わしていると、後ろでにやにやしている火蓮の姿が見えた。


「覗きとは趣味がよくないね。兄さん」


「悪い悪い。代えのシャツを探していたら、うっかり見えてしまってね」


 火蓮は手刀を切りながらワイシャツに袖を通している。背中に残っている傷跡がちらりと姿を見せたが、すぐに覆いかぶさった。


 風花の方を覗くと、機嫌はさらに悪くなったように見えた。じっとりした鋭い瞳が物語っている。


「……もう終わりなの? 意気地なし」


 ……はぁ。一年分のツケはまだまだ払い切れそうにない。


 ぬるくなったコーヒーを飲みながら、水樹は肩を竦めることしかできなかった。

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