第一章 青の静寂と赤の鼓動 PART2

  2.


「げ、また瓦蕎麦かよ? たまにはうどんにしてくれ」


「遅刻してきた兄さんが悪い、文句をいわれる筋合いはないね」


 蕎麦をフライパンで焼き始めると、香ばしい匂いがフライパンから沸き上がってきた。焼き終えた蕎麦を皿に盛り、その上に卵焼きと葱を切り刻み完成だ。


「うわぁーおいしそう。あたしの分は?」


「食べてきたんでしょ。それに早く行かないと間に合わないよ」


「……けち」


 風花から無言の圧力を受けながら蕎麦を啜る。やっぱり日本食は最高だなとゆっくりと味わい噛み締める。


「ごちそうさま。さてと、行くとするか。ん、なんだこれは?」


 火蓮は一気に飲み込むようにして蕎麦を食べ終えると、目の前の菓子折りを掴んだ。


「それは今日持っていくから駄目」


「なんだよ、楽屋で食ったって変わらないじゃないか」


「兄さんの所に持って行くわけじゃない。川口先生の所に持って行くんだ」


 菓子折りを取り上げると、彼は納得がいったように肩を竦めた。


「水樹も後で来るんだよね? 今日は美月みつきも演奏してくれるし、いつもより張り切って頑張るからね!」


「それは楽しみだ。早く行かないと、本当に遅刻しちゃうよ」


「うん。じゃあ、後でね」


 二人を送り出し、ピアノの前に座ると、指が求めるように鍵盤に張り付いた。


 ……さてと、一人になったし練習を始めよう。


 ポーランドから帰ってきても、未だ新しいピアノに馴染めていない。ピアノは同じメーカーであっても、一つ一つ微妙な癖があるからだ。


 ……やはり前のものがよかったな。


 願っても叶わぬことを心の中で呟く。


 生まれた時からあったピアノが修復不可能になったため、一年前に泣く泣く新しいものに変えたのだ。その後、すぐにコンクールでポーランドへ飛び立ったため、このピアノとも久しぶりの再会になる。


 ……やっと帰ってきたんだ。

 

 鍵盤の感触を確かめるよう弾いていると、川口先生との約束の時間が迫っていた。


 水樹は菓子折りを掴んで母校に向かうことにした。




  ◇◇◇




「水樹、早かったな」


 ピアノ課が練習する部屋を横切ろうとすると、川口先生が気づき部屋から出てきた。


「すいません、練習中に……」


「構わんよ。ちょうど終わる所やったんや」


 練習していた女生徒がこちらを見て固まっている。


「川口先生、この人はまさか……」


「そうや。今一躍有名になっている観音寺水樹や」


 女生徒はそのままこちらに近づいてきて握手を求めてくる。


 丁寧に応対していると、川口が咳払いしながらこちらを見た。


「凱旋帰国を果たしたプータロー君に頼みがある。お前を呼んだのは他でもない。この子達の文化祭に出て欲しいんや。先輩として10分くらい演奏してくれへんか、客がつくからな」


「なるほど、そういうことですか。それなら構いませんよ。仰る通り、プータローですし」


 水樹が冗談を込めていうと、川口は顔をくしゃくしゃにして笑った。


「ほんまか、よかったわ。実はすでにもう時間を空けとるんや」


「本当に変わってないですね、先生」


 ……本当に変わらない。


 怒りを覚える前に懐かしさが募っていく。一年前、川口先生は自分には一言も喋らずにショパンコンクールに推薦状を出したのだ。母親を交通事故で亡くしてから、ずっと独学で来た自分を指導してくれたのも彼だった。


「まさか優勝してくるとは思ってへんかった、さすが灯莉あかりの子や。血統っちゅーものは本当にあるんやな」


 川口は天井を仰ぎながら続ける。


「俺は一年間ポーランドで勉強しとったのに、灯莉は三ヶ月しかポーランドにおらんかったやぞ? それやのにあいつは日常会話もこなして二位、片や俺はポーランド語もしゃべれず三次審査落ちやからな」


「そうだったみたいですね。でも川口先生のピアノも素敵でしたよ。豪快さがあって迫力があって……」


「いまさらおべっか使っても遅いわっ。まあそれはそれとして……」


 川口は眉をひそめ水樹の顔をじろじろと眺めた。


「……本当にひやひやさせおってからに。やっぱり緊張しとったんか? 本選一日目やったくせに、の繰越しになっとったのは本当にびっくりしたわ」


「すいません。ちょっと体調が悪くて変えてもらったんです」


「やはり、そうやったか」


 川口は納得したように頷いた。


「でもそれがよかったのかもしれへんなあ。なんたってあんなコンチェルトを最後にやってしまったら審査員かて点数つけんわけにはいかんやろ。それにお前が協奏曲『第二番』を演奏せんかったのはよかったな。『第一番』で優勝が決まったのは間違いない」


「……ありがとうございます。それで先生、文化祭では何を弾いたらいいんです?」


「もちろんショパンに決まっとるやろ。一曲は『バラード第三番』を弾いて貰いたい。もう一曲は好きなように弾いてもらって構わんよ。特にルールがあるわけやないし、特別ゲストとして広報には知らせんつもりやからな」


 『バラード第三番』と聞いて胸が高鳴る。あの曲をホールで演奏できればいい予行練習になりそうだ。


 火蓮との約束の舞台に――。


「わかりました。じゃあもう一曲は何か考えておきますね」


「おう。まあ、俺としては灯莉が弾いとった『革命』がいいんやけどな」


「僕には母さんのように激しい曲は弾けませんよ」


「わかっとる、冗談や」


 豪快に笑う川口は続けて話題を換える。


「まだ秘密やけどな、神山かみやまもお前とは別口で演奏するんや。聞いて驚くなよ、あいつもショパンをやるみたいやで。大学におる時は嫌っとったのにな、あいつもヨーロッパのコンクールに出まくって、色々収穫があったんかもしれん。今日から火蓮達の劇団で演奏するみたいやで」


「ええ、聞いてます。実は今日それを見に行くんです」


「そうやったんか。実はな、この件は俺が火蓮に頼んだんや。あいつも俺にがあるから、いうこと聞かへんわけにはいかんからな」


 ……貸しとは一体何のことだろう?


 頭を捻るが、思いつかない。火蓮は指揮科にいたのだから、ピアノ科の川口先生とは面識がないはず。


「先生、貸しというのは……」


「いやいや、別に大したことやない。聞き流しといてくれ」


「すいません、先輩……」


 先ほどの女生徒が、何かをいいたそうにこちらを見ていた。


「……あの、よかったら一曲だけ弾いて貰えませんか? 協奏曲『第一番』、本当に素晴らしい演奏でした。ワンフレーズだけでもいいんです。お願いします」


 苦笑いを浮かべながらピアノを見ると、そこにはストーンウェイがあった。


「……先生、ピアノはウミハじゃないんですか」


「ああ、今年からストーンウェイに変えて貰ったんや。やはり海外で活躍する人間にはこっちの方がいいからな」


「……そうですか。すいません、今日はちょっと遠慮させて貰っていいですか? 実は腕の調子があまりよくないんです」


「ええっ? 大丈夫ですか? すいません、私ったら失礼なことをお願いして」


 川口も想定していなかったようで口が開いたまま、こっちを見ている。


「……そうか、それなら仕方ないんやが。文化祭は3日後なんだが、大丈夫か?」


「ええ、それまでには問題ないです。先生、文化祭のピアノは……」


「もちろんウミハや。スポンサーは変わらんよ」


「……ありがとうございます。それでは僕も用があるので、この辺で」


 菓子を渡し、理由をつけてストーンウェイがある部屋から離れた。


 心の中には未だ靄が掛かっていた。

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