(4)




 桜の花が、音も無く咲いた。

 ふわり、とほころんだ淡い淡い春色を見あげて、花は口元に笑みをうかべる。春生まれの花に、この名を与えたのは父方の祖父だった。花が小学生の頃に亡くなってしまった盲目の祖父は、女孫が生まれたら はな という名を授けたいと願っていたらしい。しかし祖父がその願望をおずおずと口にしたのは、花が出生届を出して一週間が経過してからだった。その頃ようやっと、自分たちで考えた娘の名を呼び慣れはじめた両親だったが、祖父の提案を快く呑んだ。男児が生まれるだろうとの診断を受けていた両親は、姓名判断に重きを置いて咄嗟に考えた娘の名を、どうやら気に入ってはいなかったらしい。

 まだまだ咲きはじめの桜の木は、病院の中庭の空を、それでもあかるく彩った。花は、永崎くんを待っている。回診の関係で、明日はいつもより少し遅くなるかもしれないと、昨日のうちに言われていた。中庭には、普段より多くの患者やその身内の姿があった。ここ数日で気温がぐんと上昇して暖かくなったためか、外で過ごす人が増えたようだ。花はいつものベンチの上で、んー、と背伸びをする。あったかい。お茶だけでも先に飲んでいようかなと思って、トートバッグから水筒を取り出す。まばゆい陽射し。中庭を穏やかに散歩する、老夫婦の姿が目に優しい。向かいのベンチでは、小さな女の子を連れた母親が、手作りのお弁当のたまごやきを、おもちゃみたいな子供用の箸で食べさせている。

 なんて。なんてあたたかな午後だろう。ずっとこのまま、続けばいいのに。おだやかな三月の、魔法みたいなうつくしさ。今この瞬間、永崎くんがくるのを待ちわびる気持ちもそのまま詰め込んで、桜の花舞うスノードームにしてしまえたら。そうしたら、どんなにか幸せだろう。胸があたたまるだろう。


 うららかな春の陽気にそぐわぬ喧噪の始まりはだから、カップにお湯をおとす、ぽこぽこという音と共に届いた。


 どこから聞こえる怒声なのかと、顔を上げたタイミングだった。ひら、と。黒い影が瞬時に視界を縦に切った。それが人間の姿であったことに最初気づかなかった。直後にこだました悲鳴。中庭の目と鼻の先、一般病棟の前。ひああああと伝播したいくつもの叫びが、三月の魔法を粉々に打ち砕いていく。

 絶え間ない絶叫に呼応するかのように、ほとんど、本当にほとんど同じタイミングでだ、花の向かいで更に高い二人分の金切り声が上がった。ベンチに並んでお弁当を食べていた母子だ。形が崩れはじめたのは娘の方だった。いや、と、ああ、と、目を見開く母親の前で、まだ幼いつむじが背中が指先が、さっきまでたまごやきをむしゃむしゃとしていた口元が、弾けていく。白い、泡。小さなからだから発生したそれは、大人のそれよりずいぶん少なかった。

 全身が強ばったまま、ほどけない。親子でおそろいの、サイズ違いの弁当箱が、ひっくり返ったままベンチに放置されていた。気まぐれな春風にさらわれる泡を掻き集める母親の手の中で、娘のからだだったそれはみるみる失せていく。風に踊る泡のひとかけらが、花の頬にふわりとかかった。呆然とした耳に響くのは、泡のはぜる、ささやかな、音。

 天国と地獄に境など無いのだ──なぜだろう、崩壊した幸福の箱庭を眺めながら、ぼそりとそんな考えが胸を掠めた。

 涙と涎に顔を濡らした母親が、やがて花の足元へ這ってきて、泡の乗った顔に手を伸ばす。その手が花の結い髪を掴もうとした刹那、ふ、と、不意に視界が誰かの腕で覆われた。

 ごめん、はなちゃん。

 静かな声がそう断りを入れて、花の頬の一泡を、ゆっくりと指で掬った。永崎くんは華奢だけれど、てのひらはとてもがっしりとしているのだと、そのとき初めて知った。車椅子を動かすからかなと、飽和する思考の片隅でぼんやり思う。

 指先にのせた泡を、永崎くんは壊れないように、地に伏せかけている母親のてのひらへ、そっと返した。たまごひとつ分にも満たない小さな小さな泡のひとひらは、母親の手に返ってから、白さを無くして消えた。音程のない嘆きの声が地面に吸い込まれていく。視界の先で、飛び降りた誰かのために医者が呼ばれた。

 花は、動けなかった。

 地を這いながらいずこへかと向かう母親を、通行人は些か驚き、あるいは見慣れたもののように一瞥し、同様に目を逸らす。医者の指示があったのか、病棟の前に担架が担ぎ出されていく。

「花ちゃん」

 変わらないのはこのひとの声だけだ。うん、と、返そうとしたはずなのに、喉が掠れてうまくいかなかった。

「遅くなって、ごめんね」

 ううん、と、首を横に振る。永崎くんの声を聞いていたら、体温が少しずつ意識下に戻ってきた。いつの間にか冷え切っていた両のてのひらを、隠すように組んでみる。

 読めぬ未来に耐えきれなかった者。

 未来という言葉の意味さえ知らずに消えた者。

 どこからか運び込まれたブルーシートが、恐らく血溜まりとなった病棟の前を覆いはじめた。

 泡になる病は、感染する。身近にいる者から次々に。娘のそばにずっといた母親は、自死を選ばない限りは恐らく、そう遠くない先で同じ道を辿るだろう。娘と同じものになって消えてゆけることは、果たして幸せなことなのだろうか。花にはよくわからない。

 永崎くんが、いつの間にか地面に落としていた水筒のカップを拾い上げてくれた。はっと我に返ってそれを受け取る。

「ごめん、ぼんやりしてて」

「大丈夫だよ。……驚いたね」

 永崎くんは、二つの死の瞬間を見ていたわけではないのだろう。騒然とする中庭の片隅と、それを見る余裕もなくなっている花の姿からそれぞれ何が起こったのかをある程度察したはずだった。

 人が泡になる瞬間なんて、もう何度かは目にしているはずなのに。真っ白になったてのひらは、花の心をそのまま映し出したかのように見えた。白く。何も。なにも感じてはいけない。思ってはいけない。移入してはいけない。そうやって自我を守らなければ、

 いつだっておかしくなれる。いつだって。今すぐにだって。

 そうならないために、花はトートバッグからいつもの弁当箱を取り出した。永崎くんの分、と、自分の分はもう食べるのが難しいかもしれない。喉が塞がって、何も通る気がしなかった。

 花から弁当箱を受け取ると、ベンチの横に車椅子をつけた永崎くんは、いつものように手を合わせた。頂きます。すっかり人の引けた中庭で、大きくないはずの声はどこか場違いに聞こえた。

 永崎くんが、食べ始める。花もそうしたいけれど、体が動かない。今日は気合いを入れて、朝から小さなハンバーグまで焼いてきたというのに。扱い慣れた曲げわっぱの木目が、ずいぶん自分から遠いものに感じられた。距離感がない。生と死。春と青空。自分と永崎くん。ふらふらとする花の隣で、永崎くんは花の焼いただし巻き卵を、綺麗な箸づかいで口に運んだ。

「美味しい」

 細めたまぶたの横顔が、ふいに、

「俺ね、花ちゃん」

 やわらかな三月そのもののような笑みをたたえたままで、ささやいた。

「泡になって消えた母がいるんだ」

 なぜだろう、そんな気はしていた。だからこそ。永崎くんが先ほど、目の前で娘を亡くした母親へ向けた眼差しには真のいたわりがこもっていたのだと。納得さえしてしまった。

「ちょうど一年前の、三月だった。風邪をひいていたころに感染してしまったみたいで。俺が最後に母に会ったのは、母が勤め先で泡になってしまう一週間前の、日曜日だった」

 りんごをね。永崎くんは言う。りんごを、むいてくれたんだ。

 最後の日曜日の記憶にあるのは、やわらかな春の日だまりの中、永崎くんのためにりんごを剝いてくれるお母さんの姿なのかもしれない。花は、想像してみる。どんな人なのかは当然わからないけれど、きっと優しい面立ちのひとだったのだろう。永崎くんと同じように。

「父は俺と同じ病気を持っていて、ずいぶん昔に亡くなった。その分、母がいつもそばにいてくれた。最後まで、二人でいつもどおりにすごした思い出しか、ないんだ。俺は昔から、ほとんどの時間を病院で過ごしてきたけど、病室には、いい思い出も良くない思い出もある。いい思い出をくれたのは、母だった。最後の最後まで、あのひとは俺を支えていてくれた」

 お弁当もね、たまに作ってきてくれたんだよ。永崎くんは笑って続ける。

「手作りのミニハンバーグと、ほうれん草のごま和えと、だし巻き卵。ちょうど今日花ちゃんが作ってくれたみたいな、ね」

 優しい声に、胸がゆっくりとほどけていくのを感じる。お話そのものは、優しいばかりの内容ではないのに。

 けれども、永崎くんは教えてくれた。聞かせてくれた。きっと知ることはないだろうと思っていた、永崎くんの「喪失」について。花に対して、それを、同じような告白を強いようとはしていないことも、わかる。ただ、話しただけ。時が満ちたから。そういうことなのだろう。

 気づけば花は、膝の上に乗せたままにしていた弁当箱の蓋をひらいていた。ハンバーグと、小松菜ともやしのぽん酢和えと、だし巻き卵。塩分控えめに作った、いつか永崎くんの一部になるもの。

 ハンバーグを、箸で割る。距離感が戻ってくる。まだ混乱の中にある箱庭の、片隅。淡い光にほころびはじめた桜の木の下で。

「……味うすすぎたかな」

「そんなことない、おいしいよ」

 ありがとう。永崎くんはそう言って笑う。なぜ永崎くんがお礼を言うのだろうと、礼を言えないままの花は思う。地面に転がり落ちたたまごやきに、蟻がゆっくりと群がりはじめていた。

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