(3)
お昼の休憩のお供にしていた小さな手提げは、ひと回り大きいトートバッグへとその役を引き継いだ。
永崎くんにはいつも病院食のお昼ご飯が出ているけれど、「正直物足りない」のだそうだ。十一時半頃から配膳されるというそれらをものの十分ほどで平らげた後に、売店のパンを買い食いして、さらにその後に中庭へと出てきて、院内や中庭の散歩をしていたのだという。食事は基本的に、健康な成人男性とほとんど同じ内容のものを許されていると聞いて、花は自分のお弁当を作るついでに、同じおかずを小さなわっぱに少しずつ詰めてあげることにした。正午からの休憩がはじまって、いつものように中庭のベンチで座っていると、車椅子に乗った永崎くんの姿が見えてくる。前までのように、目を合わせ切れない曖昧な態度はもうとらなくていい。小さく手を振って、永崎くんもそれに応じて、花の右隣にすいっとやってくる。つばめのように軽やかな動きなので、花は時折、永崎くんの足が動かないことを本気で忘れる。
「今日はねー、たまごやきと、れんこんのきんぴらと、たこ焼き」
「たこ焼き? 花ちゃん作ったの?」
「ううん、生協の冷食。お試しでってもらったんだけど、いっぱい入っててなかなか減らないの」
特別な減塩やカロリー制限はないと聞いてはいたけれど、それでも花は永崎くんにお弁当をつくるようになってから、おかずに使う調味料の量を気持ち控えめにするようにした。花の料理が引き金となって、永崎くんが体調を壊すようなことがあったら元も子もない。ちょっとつまんで、ちょっとたのしんでもらえる程度を目指したかった。それでも不思議なことに、本当に不思議なことに、今まで自分のためだけに適当に用意していたお弁当より、永崎くんも一緒に食べることを考えて薄味を心がけたお弁当のほうが、なぜか美味しい気がする。花はそれほど薄味好みでもないというのに、今のほうが美味しいと思えるのだった。
まん丸の小さな曲げわっぱと、携帯用の箸を包んだハンカチを、永崎くんに差し出す。箸は百円ショップで買ってきた。あわい水色のケースには、おそらくは子ども向けと思われるポップな飛行機の絵柄が入っている。かわいいでしょ?と最初に見せたとき、永崎くんは小さく喉を鳴らして苦笑していた。
二人手を合わせて、いただきますとつぶやく。泡にならずに潰えたいのちをいただく。日の光に、水筒からおとすお湯がきらめく。
「俺、花ちゃんのたまごやき好きだよ。少しだけあまいやつ」
そう? と花は静かに笑う。父は、花の父は、花のたまごやきがそれほど好きではなかった。甘いからおかずにならない、と言っていた。でもお弁当から外すと、今日はたまごやきなかったな、と必ず小さく零した。可愛い人だった。今となってはそう思う。
「うん、私も少しあまい方が好きなんだ。塩よりすこーしだけ砂糖が勝ってるくらいの」
「あーわかる。でも俺だし巻きも好きだよ」
「私もだよ。じゃ、明日はだし巻きたまごにしよっかな」
やったぁと笑う永崎くんは、次に生協のたこ焼きをひとかじりして、「想像してたよりずっと美味い」とつぶやいた。ははっと笑って、花も同じたこ焼きを箸でつまむ。
中庭に集う人々は皆、訪れ切らない春のにおいを全身で感じ取ろうとしているかのように自由だ。談笑する奥様方。日差しに目を細めながら文庫を繰る初老の男性。膝の上に広げた菓子パンを、ちぎっては足元のすずめにほうる入院患者のおじさん。奔放で、穏やかで、まるでいつかの幸せな春みたいだと、花はそう思った。
胸に大きく息を吸い込む。
「花ちゃんは、ここに来る前は別のお仕事してたの?」
「うん。歯科医で事務やってた」
「へえ、前も事務だったんだ。計算速そう」
「速くないよー、暗算苦手だもん私」
永崎くんは? 普段お散歩の他になにしてるの? 俺? そうだなぁ、適当に過ごしてるよ。本読んだり、動画見たり。 動画? うん、動画。六秒で終わるやつとかね。
さらさらと流れる小川のようにささやかな会話。根底には触れない。お互いが、お互いに、そして自分自身に、強く強くリミッターをかけていることを知っている。
家族。病状。生活環境。暗がりの過去。
二人の会話にはタブーが多い。どちらかが言い出したことではない。本能が禁じているだけで。それでも、その本能にはいつでも忠実であらねばならない。そうでないと、そうしないと、こんなにもただただ穏やかなだけの一時間を、過ごせないから。
「きんぴらうまいなぁ。ご飯ほしくなる」
「ごはんはだめ。さっき食べたんでしょ?」
このくらいのぬくもりでいい。このくらいの距離感がいい。芽生えはじめたささやかな絆を、枯らさぬように踏み潰さぬように、二人はただただ並んで座る。
仕事を終えて帰宅したのは、いつも通りに十八時。今日の母は調子が良かったらしい。今朝方、彼女のベッドボードに置いていった子供用の塗り絵をきちんと仕上げていた。すごいじゃん、と花は笑う。緑色のキリンと灰色のウサギ。前者はともかく、後者はまだありえる色合いである。花の声が届いているのかいないのか、現在の母はベッドに転がったまま虚空を見つめている。
かつての母は時折、歌を歌った。元々歌のうまい人なのだ。町内の婦人合唱部にも入っていたし、ソロパートを任されたことも何度かあった。花の音楽センスは主に、音痴の父譲りであったので、人前で浪々と歌う母の姿には毎回驚かされた。筑前煮とポテトサラダが得意料理だった、母。精神を壊して以来、その声を聞いた日は一日だってない。虚空に向けられていた視線はやがて、閉じるまぶたと共に眠りについた。ふう。ふう。ふう。浅く短い寝息が聞こえてくる。
食欲があまりなかったので、買い置いていた青林檎を片手に二階の自室へと上がった。久しぶりにインターネットを見たいと思って、いつからか放置していた携帯電話を充電ケーブルに繫げた。電源が入るなり、おびただしい数の新着メッセージが入ってくる。心配。近況。訃報。ざっと見てそのいずれかに分類されるものの他は、相も変わらず企業DMである。たくましいなと思う。終わる世界の渦中にあっても、サラリーマンは稼ぎの手を止めない。
メッセージは結局一件もまともに開かないまま、検索エンジンを開く。林檎をかじりつむ、久しぶりにタップするスマートフォンの液晶。ガラスは、泡にはならない。最初から生きていないから。
車椅子 介助 コツ
入力して検索ボタンに触れると、まとめサイトから個人のブログから様々なページが呼び出された。
永崎くんの走行はいつもスムーズだ。直進も曲がり道も、まるで何かに吸い込まれていくかのように綺麗に進む。介助などするだけ邪魔かもしれないけれど、それでもささやかな障害に躓いたときに、何も知らずにいるよりは少しでも知識を持っていた方が、いざというときすぐ力になれる可能性はある。
乗っている側と介助している側とでは、車椅子の体感速度が違うこと。
上り坂は前輪を浮かせて進むこと。下り坂も同様にして、後ろ向きで進むこと。
引き戸や、二つ続く手動ドアは、車椅子利用者には鬼門であること。見つけたら先に開けにいくこと。
病院のドアはほとんどが自動だが、スロープの進み方は知らなかった。いつも前輪を地につけたまま、上るのを手伝ってしまっていた。気をつけなければと思いつついくつかブラウザを開き、内容を確認する。
そろそろシャワーを浴びてこようかなと、スマートフォンを机に置いたそのタイミングで、スリープに入ったはずの液晶が再びピロンと輝いた。新着メッセージ 一件。はずみで触れてしまった通知のリンクの先に開いたのは、
呪詛だった。
はなたすけて こわいk消えちゃうおれきえちゃうよ はなnにあいたいdあしggがすけてるすけってるんだ一人なんらでんわばんごうがわkからなひ
高校時代の同級生だ。隣の席になることがなぜか多くて、しょっちゅう馬鹿話をして笑った。
一瞥の後、躊躇わずに削除した。返信はしない。たぶんもう遅い。彼は消えた。あるいは間も無く。電話番号、教えていたと思うけれど。恐らく動揺のあまり、アドレス帳の開き方が分からなくなったのだろう。
呪詛は他にも、受信ボックスの中にいくらでも入っている。返信をしたことはない。かかってきた電話をとったら幼なじみの断末魔だったこともある。仕方がないから一方的に切った。シビアだけれど、きっとこういう対応にとどめるのは花だけではないだろう。
普段から携帯電話を持ち歩かない人は、この一年半ほどでずいぶんと増えたらしい。世界規模で利用率が下がってしまって、携帯電話会社は苦労しているし、実際大手会社もいくつか潰れた。携帯電話会社だけではない。娯楽や観光を主たる商品としている企業は皆、明日をも知れない毎日らしい。有名企業の倒産を報じるニュースはもう珍しくないし、どこが倒れても誰も驚かない。ああ、またか。そんなところだ。泡になって消える人を見たときと、同じ反応。
シャワーを浴びて、体を洗う。ボディソープに身を包んでみたけれど、自分もそう遠くないうち、この泡と同じようなものになってしまうのかもしれないという実感が、いまひとつ湧かない。
花も、誰かに呪詛を送るのだろうか。曖昧な断末魔を遺言にのこすのだろうか。全然。全然、想像できないし、わからない。わからないまま、あたたかいお湯で泡を流す。つるりと洗われた肌が、湯気のむこうできらめきを帯びた。
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