(2)
*
朝方はとてもいいお天気だった空が、昼前から徐々に雲を籠らせはじめた。
正午のベルのあと、とりあえず一度外に出てみようと思った花は、おもての薄暗さと空気の冷ややかさにため息を零した。気が進まないけれど、今日はデスクで済ませようと心に決める。慌ただしい外来受付の真後ろでいそいそと食べるお弁当は、あまり好きではなかったのだ。
踵を返して自動ドアを内へと一歩踏み出したとき、かしゃん、と、剣呑な音がした。車のぶつかる派手な音ではない。痛みをこらえるような、ささやかな呻きのように遠慮がちな音。
気になって目を向けた、院内庭園への入り口。果たして一台の車椅子が倒れていた。思わず駆け寄る。泡は溢れていない。彼はきちんと人間の形を保っていた。
「だいじょうぶですか」
小さなトートを傍らの花壇の隅に置いて、花は倒れた車椅子とその中の彼を、九十度上昇させる。彼というのは、つまるところその人だ。いつも昼の時間におよそ七秒間、無言の挨拶を繰り返してきた、あの彼だ。すみません、と、低い声が応じる。瞬時に花の頭の中を、湧き出す岩清水の光景がよぎった。よぎらせる程度には、綺麗な声だった。
「車輪に何か引っかかったみたいで」
両腕でどうにか体を支える彼の訴えに、花は先に引き起こした車椅子を見分する。右側の車輪に、比較的長い木の枝が挟まっていた。
「枝ですね、こんなに長いのが落ちてるなんてめずらしい」
「ああ、さっきまでこのあたりの木を剪定していたから。それでかな」
車椅子でズっ転けるなんてずいぶん久しぶりです。苦笑した彼の動きにタイミングを合わせて、脇を支えた花はその細い体を座椅子の上へと戻した。きっと直立したら、花よりずっと上背のある男の人。それでも彼の視線は花よりずっと低い。
「すみません、どうもありがとうございました。助かりました」
「いえ、あの、怪我は? どこかすりむいたりとか」
「いや全然。お昼休憩の邪魔しちゃってごめんなさい」
「外、回られますか?」
「いや、病室に戻ります。今日は冷えますしね、転ぶ前も、方向転換しようとしてたんです」
互いが互いの存在を認知していた。花にとって彼が、お昼休みの頃に庭園を車椅子で散歩する青年だったように、彼にとって花は、日課にしている散歩コースにいつもいる、院内従事者の一人だったのだろう。
「押したほうがいいですか?」
車椅子で転ぶのが久しぶりだと笑った彼にとって、車椅子は怪我などによる要因で一時的に足としているものではないのだろう。押されるとむしろ迷惑かもしれないと思って確認をすると、いや大丈夫です、と案の定返される。
「でもせっかくなので、中まで一緒に行きませんか?」
見あげてきた瞳の優しさに断る理由も思いつかずに、花は頷いて、放り出していた手提げを手に掴む。
「病院で働いてるかた、ですよね?」
昼休憩の間、花はいつもネームプレートを外していた。はい、と答えながら、羽織っているカーディガンのポケットにしまいこんであったネームプレートを取り出して首に提げる。
「みずしまさん?」
「はい、水島です。見ての通り看護師さんとかではなくて、臨時の事務員なんですけど」
「ああ、それで最近見かけるようになったんだ」
「ええ、あそこでお昼食べるのすきで。というか、事務机の上でお弁当広げるのもなんか落ち着かなくて」
「いつもおいしそうですよね、曲げわっぱのお弁当」
「え、そこまで見てました?」
さすがに泡を食った花に、青年は観念したように笑う。よく笑う人だ。この病院では珍しい。
「いやほら、こちらは基本的に病院食じゃないですか。だからちょっとうらやましいなって。お弁当」
そう言われてみれば、そうなのかもしれない。院内へと続くスロープを、並んでゆっくりのぼりながら花は思う。しかし、ゆるやかなスロープとはいえ坂は坂だ。さすがに途中で少しだけ後ろから手を貸すと、ありがとうとまた笑いかけられた。
「水島さん、明日もお弁当です?」
「ええ、そのつもりですけど」
明日からはもう少し盛り付けに気を遣おう。心に決めた花の前方、のぼりきったスロープの先で、
「じゃあ、明日はお弁当控えてください。今日のお礼にご馳走します」
青年は軽く花を振り返りながら唐突にそう投げてきた。えっいやっ、と全力で遠慮する。
「お礼なんてされるほどのことじゃ」
「なくないですよ。車椅子乗りにとっては死活問題です。そばを誰かが通りかかってくれないと、自力だけで椅子を起こしてその椅子の中に戻るってなかなか難しいんですよ?」
「いや、それは、そうでしょうけど……でもお礼なんてそんなの」
善意を狙ってやろうとか、そこにつけこんでやろうとか、そんなつもりでは決してなかったのに。自動ドアをくぐりながら口ごもる花に、
「じゃ、言い方変えましょうね」
青年は朗らかに笑んで花をみあげる。
「よかったら明日、いっしょにお昼たべませんか?なかなかおいしいんですよ、ここの売店のたまごサンド」
単にこちらが誘いたかっただけです。てらいもなく笑う彼に、花は苦笑して頷いた。
「はい、では、そういうことであれば」
うす暗い顔の人々が往来する市立病院の外来受付前、明日のランチの約束をして、花は彼と別れた。そういえば名前、と、すでに背を向けた彼の車椅子の背もたれに小さく書かれた横書きの三文字を、視力二.〇のまなこが間違いなく認識する。
永崎 洋
よう、か、ひろし、か。明日会ったら訊いてみよう。思いつつ踵を返して、花は慌ただしい受付の奥へと一人戻っていった。
*
雨は夜のうちに、ざんざんと地を鳴らして降り続けた。翌朝にはすっかり晴れわたった空は、雨のかけらを吸い込んだかのようにきらきら輝いていた。
八時過ぎ、出勤の前に来てくれたヘルパーさんに母を任せてから、花は家を出る。最初の角を曲がってすぐの生垣に、椿の莟が淡い紅色をまとってふくらんでいた。
淡々と進めた午前の仕事のあと、淡々と正午の休憩ははじまった。そういえば待ち合わせの時間も場所も決めていなかったなと思いつつ、とりあえずいつもどおりに中庭へと出る。眠りからさめつつある春の、まどろみとかすかな喜びを掬い上げる風。花はこの季節の陽だまりが一番好きだ。一番、光が綺麗に見えるから。いつものベンチでぼうっと風に吹かれていた花の耳に、
「みずしまさん」
流跡のように清廉な声が届く。永崎氏。花は立ち上がって、車椅子を押してやってきた彼に会釈をした。遅くなってごめんと左手を挙げた永崎氏の膝の上に、白いビニール袋に入ったプラスチックパックの輪郭がわずかに確認できる。
「思ってたより売店混んでて。待たせちゃってすみません」
「いえ、こちらこそ行ってもらってしまって」
そうか、売店に行けばよかったのか。足の自在さが決して高くはない彼に、一人で混み合う売店へと赴かせてしまったことが、ひどく申し訳なくなってしまう。
「いやいや、それは全然大丈夫ですよ。ただ普段よりなんでか混んでたんですよねー。おっかしいなぁ、あの時間帯はまだ空いてるんですけどね」
すいすいと車輪を両手で操って、まるで魔法の軌跡を描くようなすべらかさで、永崎氏は花の隣、ベンチの右横に車椅子を停車させた。長い間を共にしてきたのだろうと、無駄のないスムーズな動きに思う。自分と花の間、ベンチのささやかなスペースにビニール袋をがさりと置いたところで、
「あ、飲み物買ってくるの忘れた」
おそらくは無意識の内に永崎氏がつぶやいた。ああそれならと、花はあわてていつも持っている帆布のトートを開いて、ステンレスの大きな水筒を取り出す。
「一応、紅茶とコーヒーは持ってきたんです。どっちもインスタントですけど。お砂糖とミルクもあります」
普段は一人用のスープボトルにお茶をいれているのだが、今日は念のため二人分を用意したのだ。水筒にはお湯だけを入れてきた。膝の上のハンカチに、紅茶のティーバッグとスティックコーヒーの袋を広げる。
「わー助かります、どうもありがとう」
「いえ、あの、こんなんですみません」
「とんでもない。缶とかペットボトルとかよりずっとうまいですよ。紅茶ひとつもらっていいですか?」
「はい、ダージリンなんですけど。お砂糖は?」
「実は、紅茶はダージリンが一番好きなんです。ストレートでお願いします」
オーダーを受けて、花はダージリンのティーバッグを、持って来たレジャー用のプラスチックマグに入れる。とぽとぽとぽ、と、注がれる、芯から透明なお湯の音。ただの沸かした水道水なのに、まるで三月の風を集めて水に戻したかのように、きれいに見える。永崎氏にマグの取っ手を差し出して、今度は水筒の蓋に自分の分のコーヒーをいれる。手提げからスティックシュガーとポーションミルクも取り出して、それらをプラスチックのマドラーでぐるぐるかき混ぜた。
「水筒とか久しぶりに使いました。ひとのだけど」
「私もこんなに大きいのは久しぶりですよ。いつもは一人用のですし」
お互いにお茶をのんで人心地ついたところで、永崎氏が件のたまごサンドのパックを取り出して、ひとつを花に差し出した。
「では改めて、きのうはありがとうございました」
「いえ、あの、なんだか逆にすみません。わあでもおいしそう」
受け取ったたまごサンドは、花の想像をはるかに超えたたまごサンドだった。親指ほどの幅まで分厚く焼かれたたまご焼きが、食パンの間に挟まっているのだ。ゆで卵をみじん切りにした定番の形状を想像していただけに、その圧倒的なボリューム感に思わず目を見開く。
「すごいですね、もっと薄いの想像してましたよ私」
「俺は行ったことないけど、駅前のパン屋さんで卸してるみたいですよ。ほら、ここに名前」
永崎氏の人差し指が、パックの横に印字された商店名を示している。柏木ベーカリー。聞いたことがある。確か行きつけだった店だ。母の。
きのう初めて言葉を交わした相手と、病院の中庭の木の下で並んで、いただきますと手を合わせる。なんとも不思議な体験だけれど、変に緊張をするだとか萎縮するだとか、そういう気分にもならない。すがすがしいほど、気分がいい。つい数日前まではろくに目も合わせられなかった相手なのに。
つぼみがほころぶまでは、まだしばらく時間のかかりそうな桜の小枝を仰ぎながらかじるたまごサンドは、絶妙においしかった。パンの内側に薄く塗られた、少しだけマスタードのまざったマヨネーズが、塩見のほどよく効いた厚焼きたまごの美味しさをさらに助長させている。パックにはもうひとつ、ハムトマトサンドも入っていた。間にうすくおさまるスライスチーズが嬉しい。
「おいしいです。これは人気あるでしょうね」
「そうなんですよ、十二時半にはたいてい完売しちゃってるんですよね。卸す数もそれほどは多くないみたいだしなぁ」
二人でもくもくとパンを頬張る目の前で、中庭はいつものように、ささやかな人数の患者や彼らの家族、それに若干名のスタッフで賑わっていた。南風が額を撫ぜて、流れていく。日の光。青い空をわずかに縁取る白雲が目に優しい。
「ながさきさん、は、」
相変わらず下の名前がわからないので、曖昧な調子のままで問いかける。
「おいくつなんですか?」
「二十三ですよ。あれ、名前よくご存知で?」
「くるまいすに」
「あ、そっか。よく見つけましたね、こんな小さいネームシール」
「目だけはいいので」
苦笑しつつ明かすと、水島さん目ぇ大きいもんなぁ、とよくわからない反応と共に、永崎氏が花の双眸をまじまじを覗き込みにくる。そうしてそのままで、
「水島さんは? 何歳ですか?」
「同い年ですよ。でも、もしかすると学年はひとつ上かな、三月生まれなんです。三月三十一日」
「へえ、俺四月ですよ。それも一日」
「エイプリルフールだ!」
「そ。それも水島さんと一日しか違わないっていう」
なのに学年はひとつ上とかずりー。冗談めかして笑うので、花もつられてくつくつ笑った。そうして笑った自分に驚く。喉を鳴らして、声を零して。いつぶりだろう。わらうのなんて。
「水島さん」
だから、永崎氏の次の提案への反応は一拍遅れた。
「花ちゃんって、呼んでも?」
「え、あ、ど、どうぞ、ご自由に」
「フリーペーパーみたいだよ花ちゃん」
永崎氏は、たのしそうだった。いつの間にかすっかり食べ終えていたらしいサンドイッチのパックを閉じながら、肩を揺らして笑っている。いつぶりだろう。だれかのわらうこえを。きくなんて。
「永崎さんは」
笑顔の奥、病院の柵の向こう側。ふわりと風にただよう白い泡を見ないフリで花はわらう。
「ええと、ながさきくんとかで、いい?」
「ようでいいよ、嫌じゃなければ」
ようくん、だった。白い泡は彼の背中を、音も立てずにたなびいている。誰だったものだろう。何だったものだろう。犬。草。ねずみ。人。散り散りになった泡は、まるで海の波間をさまよう水泡のように見えた。
「じゃあ、いやじゃないけど、永崎くんで」
「はい、どうぞご自由に」
フリーペーパーの文句を返されて笑う花の視界の隅で、白い泡のひとひらは、頭上の桜の梢にひらりとひっかかって、搖れた。
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