flare.
四時
(1)
空をとぶ燕が突然真っ白な泡になって閃いたのが、それはそれは綺麗な朝だった。
遠ざかる冬の終わり、再生の季節のはじまりの、青白い朝の中。音も無く途切れた命の美しい残骸は、気温十三度の南西風に流れていく。はなびらのように自由に、軽やかに、小さな肢体はやがて空のさなかに溶けいった。横断歩道の手前、歩行者用信号機が青になるのを律儀に待ちながら、花は右肩の通勤鞄をずいっと引き上げ直す。勤め先の市立病院までは、小さな住宅街の片隅にある二階建ての自宅から歩いて二十分ほどで着く。人も車も少ない大通りは、二年前の今頃からは考えられないほど閑散として、気怠げな朝を迎え入れていた。ややあって色を変えた信号機の下を、花は歩き出す。ローヒールの低い靴音が、しじまの交差点にこつんこつん響くのだった。
職場が変わって、まだ数日しか経っていない。おそらくちょうど十日ほど経った頃だと思う。それ以前に働いていた、今の勤め先よりさらに近場にあった個人経営の歯科で、数日前までの花は事務員のおねえさんをやっていた。歯科には老若男女、いろんな人が来る。可愛げのない診療室の中に、どんな人も寝かされて、口の中をガーガー鳴らされる。最後の患者さんは不憫だったなと、思い出す。そうそう歳でもないのに白髪混じりの先生は、治療の最中患者さんの顔面に半フレームの眼鏡を落として、消えた。ぶくぶくぶくと、先生と同じ年頃のおじさん患者は先生の泡を顔にかぶって悲鳴を上げた。それきり医院は施錠もされずにほったらかされている。今では泡の跡さえ残らない、真っ白くて四角い、小さな箱。
横断歩道を渡ってしばらく、大通り沿いにまっすぐ進む。高いビルのはざまを何度か右折左折しているうちに、常緑樹の立ち並ぶ小さな広場が見えてくる。院内に設けられた、患者とその家族のための小さな中庭。中央に小さな噴水がひとつあるきり、目立ったモニュメントは存在しない。木々の下に、年季の入った木製のベンチがいくつか置かれているだけの空間。仲間の一部が文字通り人間の尻に敷かれているのを、あの木たちはどんなきもちで見おろしているんだろう。ここを通りかかるたびそんなことばかり考える。
病院への入り口は、傍らに伸びるゆるやかなスロープを進んだ先にある。奥まった自動ドアの手前まで来た花の耳に、どおん、と、一際轟く破砕音が聞こえた。木々の隙間からかすかに見える道路の向かい側の車線の、バス停の前。真っ赤な乗用車が一台、歩道を乗り上げて、奥のフェンスへと派手に突っ込んでいた。花の周囲にいた数名の看護師たちが、あらやだ大変と、にわか雨に降られた洗濯物を取り込む主婦のような低調さで、件の車へと小走りで駆け寄っていく。専門家がいれば大丈夫だろうと、花はそれ以上の関心は持たずに病院へと出勤した。せめて同乗者がなければいいな、と思う。赤い車の運転席はきっと今頃、きめ細かい白の泡に波打っている。
ナントカという遠い遠いその国で一番最初に消えたのは、白の華奢な野良猫だったという。
国の片隅の小さな村で唐突にあぶくと化した白猫は、まるで体がそのまま地面に溶け出したように見えて、彼の地の住民たちは神の化身ではないかと色めき立った。ささやかな信仰心から来るさざめきは、ほんの三日ほどのうちに静まった。三日間のうちにその村の人口そのものが半減したためである。一人として例外なく、泡になった。神への畏怖を遥かに通り越した恐怖を携え、生存した村人は国の四方へと散った。その先で彼らと、その地に住んでいた人々がまた消える。感染したのだろう。何に。何かにだ。
数多の科学者達が原因究明に乗り出して、そのほぼ全員が数日中に溶け出した。じゅわりと、泡になって。とある国の研究室ではおよそ百名の研究者が一斉感染した。暗がりのリノリウムは、白い泡と彼らの纏っていた白衣で埋め尽くされていたという。
真実に近づこうとした者から消えていく。そうして積み上げられた彼らの屍ならぬ泡の上に、半年を経てようやく二つの事実が証明された。
泡になるのは、生命体の細胞一つ一つ。
解決法は、見出せない。
白猫の消失から一年半、名もなき毒の感染はいまや世界中へと広まっていた。
領収書の束をまとめて電動ステープラーでとめながら、花は机の上に広げた伝票を少しずつ片付けていく。院内経理事務の補助員として採用されたが、補助というよりは最早メインだ。しかし、院内で購入した物資よりも伝票の類が明らかに少ないことに、花はすでに気づいている。唐突に人が消えてしまう現代の日本。どの企業も経営管理が行き届かないのが実状である。
端末で支出願を作成しているうちに、正午を告げる電子音のチャイムが事務室内に鳴り響いた。花の休憩は十二時から十三時の間と決まっている。先日まで働いていた歯科では、確か今日が給料日だった。振り込みがされているか見に行こうかな、と思うも、恐らく普段通りに人でごった返しているメインバンクの窓口ならびにATMを容易に想像してすぐにやめた。どの企業も、人手が足りない。帰りに開いているコンビニにでも寄ってみようと思いつつ、本当は分かっている。経理事務も担当していたかの歯科医は消えたのだ。誰が振り込むというのだろう。
帆布の小さなトートバッグを手に提げて、陽だまりのフレアがこぼれるおもてへと向かう。ほかほかと空を揺らす日差しに、間もなくやってくる春の気配をはっきりと感じる。花は春が好きだ。あたたかいし、優しい。空が綺麗な最初の季節。いつもの桜の木の下のベンチに座って、膝の上に曲げわっぱの弁当箱を広げる。昨晩の残り物ばかりだけれど、やはりお弁当は手作りが一番おいしいし、ほっとするのだ。手を合わせて、頂きますと小さく呟く。たまごやきのほろりとしたあまさ。三月の風がやわらかい。
やさいふりかけをかけた白いごはんを半分ほど食べ進めたところで、今日もその横顔を見つけた。煉瓦色のアスファルトで舗装された中庭の歩道を、かたかたと小さく揺れながら進む車椅子。その座椅子に身を収めて、梢を仰ぎながらゆっくりと手の中の車輪を動かす、青年。恐らくは花と同年代の彼は、花が初めてここで昼を過ごした十日前からほとんど毎日、顔を見る。他にもこの時間帯にこの中庭へと出てくる患者やスタッフはいるけれど、何故だろう、彼を見かけるたび必ず、ああ、あのひとだ、と花は思う。小石で軽く躓いた車輪を、慣れた手つきでかたりと避けさせて、時折足元の枯れたねこじゃらしなど眺めながら、彼は進む。外来患者にしては服装があまりにゆるいので、おそらくは入院しているのだろう。
小さな箱庭を一周していく途中、彼はいつも花の前も通過する。極力直視しないように弁当箱に目線を落とすけれど、それでも彼は通りかかるときに必ず、小さく会釈を残してくれる。だから花もお辞儀なのか弁当箱にかじりついているのか、ギリギリ分かりにくいスタンスを保ちつつ彼を気配だけで見送る。この十日ほどの間、すでに日課となりつつある時間にしてわずか七秒ほどの接触。今日も変わらず、さわやかな風を受けて進む車椅子を、目線を落としたまま迎え入れ、見届けた。
昼の休憩の後も、ただ淡々と、日常をこなす。花のデスクからは、外来の窓口がよく見える。受付の奥で仕事をしているからだ。歯科医以上に、いろんな人が訪れる。焦る母親、血の気の無いサラリーマン、呆然と必要書類を差し出す若い女の子。笑顔のひとはとても少ない。せいぜい医療用品メーカーの営業マンくらいのものだろうか。白い歯をむき出して、威嚇するみたいに笑っている。
五時半が定時である。残業にもつれこむことはその日もないまま、花は五分後には病院を後にした。夕暮れに染まるすみれ色のアスファルトの上、朝来た道を真逆にたどって、帰宅する。
「ただいま」
応じる声はない。それでも玄関先には母がいた。三和土に揃えた革靴の一足に、じょうろで水をあげている。
「ただいま」
花は繰り返す。認知症ではない。ないのだ。
「おかあさん、ベッドに入ろう」
水道の使い方さえ見失った母なのに、よくじょうろに水を貯められたものだ。妙に感心しながら、年齢よりも遥かに老け込んだ母の手を取る。寝室へと連れて、ベッドに寝かせてやると、母は天井をまっすぐ見たまま動かなくなった。今日は一晩このままかもしれない。しばらくその場で様子を見て、全く動かなくなったことを確認してからキッチンへと足を向けた。
築二十年、二階建ての水島家。かつては父も暮らしていた家だ。活発で、じっとしていることが何より苦手なひとだった。休みの日には朝早くから釣りに出かけて母に閉口され、夏祭りには必ずお好み焼きを五百円で買った。広島焼きは許せないと言って、キャベツがぎゅうぎゅうに詰まったお好み焼きをいつも、花、ほら食え、たこ焼きも食うか?笑って、手渡した、日焼けで真っ黒のてのひら。父は死んだ。事故だった。勤め先の作業現場で、運転手が泡になって消えたトレーラーに轢かれて潰された。このご時世に、遺体がなかなか残存しない世の中に、きちんと遺骨にしてもらえたことは果たして幸だったのか不幸だったのか。いずれにしても母は狂った。葬儀が終わったその夜に、自宅のトイレの前の廊下でひとしきり大声で笑い転げたきり一言も発しなくなった。父の灰は白い布をかけられたまま、今でも母の寝室に置かれている。かつては二人の寝室だった、一階の奥の南に面する部屋に。
手を洗って、夜ご飯をつくる。冷蔵庫を開けたら、三袋入り焼きそばのうちの一袋がまだ残っていた。九円で買ったもやしを一緒に突っ込んで、フライパンでじゅうじゅういためる。母は食べない。もう半年以上、栄養剤の点滴での生活だ。昼間は在宅看護のヘルパーさんが、かわるがわる来てくれている。契約は五時までだから、どうしても三十分以上一人にしてしまうけれど。ふと思い立って、焼きそばの上に目玉焼きものせることにした。栄養バランスについて考えるのは、もう一年以上前にやめている。
花はふたたび冷蔵庫を開く。冷蔵庫に入っているものは、みんな泡にはならない。死んでいるから、これ以上消えようがないのだ。
たまごをひとつ取り出して、消えない目玉焼きをつくる。
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