第5話
その夜、私は紫鸞にことの一部始終を話しました。そして
「……たとえ今夜いらっしゃらなくても、明日はきっといらっしゃるでしょう。どのようにしたらいいかしら」
と言うと、紫鸞は
「錦の帳を掛け、絹の褥も敷き、酒肴も整っているというのに、他に何が要るというの」
と笑いながら応えました。
しかし、その夜は、進士さまはお見えになりませんでした。西宮のところまでは来たのですが、塀があまりに高かったため乗り越えられなかったのでした。
翌日、進士さまが浮かぬ顔をしていますと、下僕の特〈トク〉が近付いてきて 「若さま、お顔の色が悪いようですが、何か心配事でもおありなんですかい?」
と尋ねました。この者は人の表情を窺うことに長じていました。
あと一歩のところで想いを遂げられなかった進士さまは、為す術が無いといった口調で、その理由を応えました。すると特は
「なんだ、そんなことでしたら簡単ですよ」
と言って、どこかへ飛んでいきました。間もなく戻ってきた彼は、何処で調達したのか、折り畳み式の梯子を担いで来ました。
「これを使えば、寿聖宮の塀など一っ跳びで乗り越えられますよ」
こう言いながら、彼は庭で実演までして見せてくれました。
「これは良い」
進士さまは満面に喜色を浮かべました。
その夜、進士さまは特とともに西宮近くの塀に向かいました。梯子を掛けると、特は懐中から皮鞋を取り出し、
「これを御履きになればよろしいかと」
と言って進士さまに手渡しました。鞋を履き替えた進士さまは、素早く梯子を登り、塀を乗り越えました。
そこは木が多く林のようになっていましたが、幸い月が明るかったため支障はありませんでした。建物のある方へ歩いていくと
「どなたかいらっしゃるの?」
と女の声がしました。
「年若き者ですが、風流の心に打ち勝つことが出来ず、死を覚悟してここまで来てしまいました」
進士さまがこう応えると
「早く出ていらっしゃいませ」
と言いながら進士さまが現われるのを待ちました。声の主が進士さまを確かめると
「お待ちしていました。どうぞ、こちらへ」
と私の部屋に案内しました。
進士さまが部屋に入るやいなや、私は立ち上がり、その手を取りました。私たちは、西と東に分かれて坐ると、さっそく紫鸞が酒肴を運んで来てくれました。私は紫霞酒を注ぎ、進士さまに勧めました。杯を三回ほど巡らせた時、進士さまが
「今は何刻だろうか」
と言うと、紫鸞は部屋を出ていきました。
燈を消した後、私は進士さまと床に入りました。東の空が白み一番鶏が鳴くまで、私たちは共に過ごしました。以後、進士さまは夜中にやって来て夜明けとともに帰るといった生活となりました。当然、西塀の下には足跡が残り、宮女たちは皆、私と進士さまの関係を知るようになり、そのことを危ぶみました。
また、進士さまもいつまでもこうした状態が続けられるとは思えず、近い将来必ず禍(わざわい)を招くだろうと思い、気が重くなるばかりでした。そんななか特がやってきて
「若さま、先日のお礼のほう、まだ頂いてませんが……」
と報酬の要求をしました。
「分かっておる。すぐにやる。」
進士さまがこう応えても、特はなおも留まり
「若さま、まだ、御心配事がおありなんですかい?」
と尋ねたので、進士さまは呟くように言いました。
「逢えない時は心身が病み、逢った後は大罪を犯した不安に襲われる。まったくどうすればいいのだ」
「だったら、いっそのこと、その女人を連れて逃げればいいんじゃないですかい」
特の言葉に進士さまは思わず頷きました。
その夜、例のごとく西宮に忍び込んだ進士さまは、特の言葉を私に告げました。私は、進士さまに従うことにしました。
「……ただ、ここには私が宮に入る時、父母が持たせてくれた多くの衣服や装飾品、大君から賜わった様々な品があります。これらを置いて行くわけには参りません。しかし、馬十頭にもなる荷物をどうやって運び出したらいいのでしょう……」
翌朝、帰宅した進士さまは特を呼び、このことを話しました。特は内心大いに喜びながらも、そうした素振りはまったく見せず応えました。
「なに、そんなに難しいことじゃありませんよ。わたしの友人に力自慢の者が十七人おります。奴らに手伝わせれば簡単ですよ」
私は進士さまが言うままに、夜になると荷物を運び出し、すべて終わるまで七日間かかりました。荷物を完全に進士さまの家に移した特は
「こんな多くの貴重な品物をこちらに置いておいたら〝お上〟から疑われますよ。かといって、わたしの家に置いたら周りの者どもが不審に思うでしょう」
と言いました。
「では、どうすればいい」
進士さまの問いに特は次のように応えました。
「山の中に埋めてしまうのが一番ですよ。」
特の言うことはすべてもっともだったので、進士さまは同意せざるを得ませ
んでした。
「もし、これらが失せてしまったら、私もお前も盗人の汚名を着なくてはならないぞ。分かったか」
進士さまが厳しく言うと
「任せてください。わたしと仲間たちで昼夜見張っていますので、誰も近付けませんよ」
特は胸を張って応えました。このように表面では忠義を尽くしている特でしたが、内心はとても凶悪でした。彼は、荷物を隠したのち、進士さまと私も山に引き入れ、進士さまを殺した後、私と財物を横取りするつもりだったのです。世情に疎い進士さまは、こうしたことには一切気が付きませんでした。
そうした最中、大君は以前建てられた匪懈堂の縣板に刻む詩を広く求められていましたが、秀作が得られませんでした。そこで宴席を設け、進士さまを招いて作らせることにしました。進士さまは筆を執ると、たちまちのうちに書き上げました。その内容は、匪懈堂周囲の景色を余すところ無く描き、まさに風雨を驚かせ鬼神を泣かせるものでした。大君は称賛なさりながらおっしゃいました。
「不意に今日また王子安に会えた」
そして、その詩を吟じ始められましたが、〝随墻暗窃風流曲〟の部分になると不審を抱かれ口を閉ざされました。進士さまは立ち上がり拝礼して
「かなり酔いが廻ってきたようなので、これにて退席したく思うのですが、宜しいでしょうか」
と言いましたので、大君は童僕に送らせました。
翌日の夜、私のもとに来た進士さまは
「大変なことになった。昨夜の詩で大君は私に疑いを抱かれたようだ。今、逃げなければ禍を免れないだろう」
と告げました。私は昨夜の夢見がよくなかったので、こう応えました。
「昨晩、夢の中に冒頓と名乗る獰悪な男が現われて〝前世からの取り決めがあるゆえ、長い間長城の下で待っていた〟と言うのです。私は驚いて目を醒ましました。これは悪い兆候のようですので、進士さまは、よく考えられたほうがいいと思うのですが……」
「夢など所詮でたらめなものさ。信じるに足らないよ」
進士さまは全く取り合いませんでした。
「長城は宮の塀のことで、冒頓は特を指しているのです。進士さまは、特という人間を分かっているのですか」
「確かに以前はとんでもない奴だったようだが、今は私に忠義を尽くしているよ。あいつがいなかったら、私たちもこうして逢うことすら出来なかったのだからな」
進士さまは考えを変えるつもりはなさそうでした。
「そうですか。進士さまの言うとおりにしましょう。だけど紫鸞の意見だけはきいておきたいわ。彼女とは実の姉妹のようなものですから」
私は紫鸞を呼びました。部屋に入って来た彼女に椅子を勧め、先程の進士さまの話を聞かせました。彼女は驚いて次のように言いました。
「長い間、楽しく過ごしてきたというのに、どうして破滅を早めるようなことをするの! 一、二ヵ月でも逢えたことに満足しなくてはならないのに、塀を乗り越えて逃げようなんて人のすることではないわ。あなたが逃げ出したならば、これまでの大君の御恩に背くことになるし、あなたに良くして下さった大君夫人を裏切ることになるわ。加えて、御両親にも禍が及ぶし、私たち西宮の者も皆、罪に問われるわ。そのうえ天に昇るか地に潜らない限り逃げ切ることは不可能よ。又、捕まった場合、罰せられるのはあなた一人だけではないのよ。夢については言うことはないけど、吉夢だったら逃げるつもりだったわけ? もう一度、落ち着いてよく考えて見て。あなたもやがて年を取り容姿も衰えてくるわ。それに伴い大君の関心も薄らぐでしょう。そして頃合を見て、病と称し長く臥していれば大君もあなたを実家に帰すことでしょう。そうなれば、あなた方二人は、何の気兼ねも無く晴れて一緒に暮らせるでしょう。いたずらに事を急いたところで、巧くはいかないわ。人は騙せても、天は欺く事は出来ないのだから」
紫鸞の親身の説得に、進士さまも言うべき言葉が見つからず、涙をのんでそのまま帰っていきました。
いつしか季節は春となり、西宮の庭のつつじが満開になりました。その様子を繍軒で御覧になっていた大君は、宮女たちに五言絶句を作るよう命じられました。
それぞれの作品を御目を通された大君は絶賛なさいましたが、
「……ただ雲英の詩だけは、人を恋うる気持ちが顕著に出ている。前の詩もそうだったが、いったい汝の想い人は誰なのだ? 金進士の上棟文にも疑わしい一節があったが、まさか金進士では無かろうな。」
とおっしゃったのです。私は庭に下り、地に額を擦りつけ涙ながらに申し開きました。
「以前、大君さまが疑心を抱かれた時、その場で生命を絶つつもりでしたが、年が二十歳に満たず、父母にも見(まみ)えぬまま黄泉へ発っても現世に未練を残すと思い、今日まで過ごして来ました。今、再び御疑いを被った以上、どうして生き長らえることが出来ましょう。天地の鬼神が見張り、宮女五人一時も離れることが無いというのに、汚名が廻ってくる私は生きていても仕方がないのです」
私は、絹布を取り出すと欄干にかけ首を括ろうとしました。と同時に紫鸞が口を開きました。
「大君さまが、こんなにも英明で罪の無い侍女に死を賜わるのでしたら、私たちは今後、二度と筆を執り詩作は致しません。」
大君は激怒なさってはいましたが、私が死ぬことは望んでいらっしゃいませんでした。そこで紫鸞に助命するよう仕向けられ、私の生命を取り留められたのでした。そして、詩に対する褒賞として白絹五反を私たち五人に下賜されました。
この話は、進士さまのもとにも伝わりました。以後、進士さまは再び宮中に出入りすることは無くなり、門を閉ざし床に臥したまま、日々、枕を涙で濡らしていました。そんな進士さまを見舞いながら特は言いました。
「大の男が、女との仲を裂かれたからといって、死ぬの生きるのと身体を病むのはつまらないことですよ。真夜中に、こっそりと宮中に忍び込み、女の口を綿で塞いで背負ってくれば、いいじゃないですか」
「そんな危険なことが出来るか。誠意を尽くしてもう一度やってみるほかないさ」
その夜、進士さまは西宮に忍んで来ましたが、私は病で起き上がれなかったため、紫鸞に出迎えさせました。
紫鸞が、酒を三杯ほど注いだ後、私は進士さまに封書を手渡しながら、こう告げました。
「もう二度とお会いすることはないでしょう。三生の縁も百年の佳約も今宵で尽きたようです。もし、まだ天縁が残っているのでしたら、黄泉でお目に掛かれるかも知れません……」
封書を受け取った進士さまは、立ち上がると何も言わず、私の顔を見つめ、涙を流すばかりでした。この光景を見るに忍びなく思った紫鸞は、そっとその場を離れ、柱の陰に身を隠し、涙を拭っていました。
家に戻った進士さまは、すぐに封書を開くと目を走らせました。
『雲英が再拝して、進士さまに申し上げます。身のほど知らずにも進士さまをお慕いするようになり、遂にこの思いが叶い、本当に嬉しく思います。しかし、人間界の慶事は、どうしても創造主の嫉妬を買ってしまうものです。このことは、宮女の知るところとなり、大君も疑われるようになりました。事態は逼迫し、もはや死ぬ他ありません。私の亡き後、進士さまは、私のことで胸を痛めることなく、学問に励み、科挙に合格して、国のために尽くして、後世にその名を残して下さい。私の財物は、全て売り払って寺社に献納して下さい。そして、誠心誠意お祈りすれば、三世の縁が来世にまた引き継ぐかも知れません……』
進士さまは、書信を読み終えることが出来なくなり、その場で気絶してしまいました。これを見た家人たちが大急ぎでやってきて、何とか意識を取り戻しました。これを知った特も、すぐに飛び込んできて進士さまに言いました。
「宮女が、いったい何と答えたのですか? このように死のうとなさるなんて!」
進士さまは、これには応えず、ただ
「財物は、ちゃんと保管しているか? 近いうちに処分し、寺に奉納して彼女の意思を果たしてやるつもりだ」
とだけ言いました。
家に帰った特が、
「宮女が外に出て来ない以上、財物は俺と天のものさ」
とと考え、一人ほくそ笑んでいたことを誰が知るでしょう。
翌日、彼は服を破り、髪を解いてざんばらにし、壁に顔をぶつけて血塗れにして、裸足で外に飛び出しました。そして、地を叩きながら大声で、
「盗賊に襲われた!」
と泣き叫ぶと、その場に伏し気を失ったようなふりをしました。
特に死なれては、財物の在処が分からなくなると心配なさった進士さまは、自ら特の看病をしました。良薬や肉、酒などを与えられた特は、十数日目にやっと床から起き上がりました。そして
「若さまの言い付けを守って、一人山中に入ったために盗賊の群れに襲われてしまった。財物は奪われ、命からがら逃げて来たが、若さまが命じられなかったら、こんな目には遭わなかったでしょう」
と胸を叩きながら、泣き叫びました。父母に知られることを恐れた進士さまは、必死に特を宥め賺せました。
その後、進士さまは、特の素行を疑われ、下男十数人を率いて、彼の自宅を捜索なさいました。部屋の中には、ただ金の腕輪一組と雲南宝鏡が一枚あるだけでした。腹を立てた進士さまは、これらを証拠物件として役所に訴え出ようかと考えましたが、雲英とのことが表沙汰になることを恐れ、また、これらまで手放してしまっては法要も出来なくなると思い留まりました。進士さまは、特を殺したいほど憎みましたが、力では彼に適うはずもなく、なすすべもありませんでした。
特自身も罪を犯したことを自覚するようになり、数日後、西宮近くに住む盲目の易者のもとを訪ねました。
「以前、俺が明け方、この宮城沿いに歩いていたところ、城壁を乗り越えた人間を見たんだ。泥棒だと思って声を張り上げると、そいつは手にしていた荷物を置いて逃げて行ったんだ。俺は、荷物を家に持って帰り、持ち主が現われるのを待っていたんだ。ところが、俺の主人は欲張りで、この話を聞くと荷物を奪おうとしたんだ。いくら俺が、荷物といっても腕輪一組と鏡一枚しかないといっても信じず、俺の家まで押し掛けたんだ。そして、これらを捜し出すと、これに満足せず、他のものも出せと言って、俺を殺そうとしたんだ。俺はほうほうの体で逃げ出して来たんだが、これでよかったんでしょうか?」
特がこのように問うと、易者は
「よかったんです」
と応えました。この時、隣近所の人々も集まってきて、特の話を聞いていました。その中の一人が
「お前のとこの主人は、ずいぶん酷い奴だな」
と言うと、特は
「ウチの主人は早くに科挙に及第したが、性質がこんななので、出仕したらどうなることやら」
と非難めいた口調で応えました。
この話は、まもなく大君の耳にも入り、すぐに宮内を調査させました。私の荷物が全て無くなっていることが判明すると、大君はたいそう御立腹なされ、私たち西宮の五人を中庭に引き摺り出し、死ぬまで笞打つよう命じられました。私たちは、既に死を覚悟していたので恐れることはありませんでした。ただ、最後に一言言い残したく思い、そのことを申し上げると、大君はお許しになり、同僚たちは私のために真心を込めて弁明をしてくれました。これに心を動かされた大君は、怒りを少し解かれ、四人は釈放され、私は別堂に閉じ込められました。その夜、私は絹の手巾で首を括りました。
雲英は、ここで言葉を切りました。そして、筆を置いた金進士と顔を見合わせて頷きあいました。
「これから先は、進士さまがお話下さい」
雲英がこう促すと、今度は金青年が口を開ました。
雲英が自決すると、宮中の者たちは皆、自分の父母を失ったように嘆き悲しみました。哭声は宮外まで響き渡り、これを聞いた私は気絶してしまいました。家の者たちは、私の息の根が止まってしまったものと思って、相応の手配を始めた時、意識を取り戻しました。既に日は西に傾いていました。私は自分の死が迫っていることを悟りました。
私は、雲英の望み通りに法要を行い、彼女の魂を慰めてやることにしました。しまっておいた彼女の腕輪と鏡、そして手元にあった文房具を売って四十石の米を入手しました。これを使って、清寧寺にて法要をしようと思いましたが、頼める者がいませんでした。仕方なく、特を呼びました。
「これまでのお前の罪は、全て許してやろう。これからは心を入れ替えて働くのたぞ」
こう言い渡すと彼は涙を流しながら、
「私は、たとえ愚かな身ではありますが、木石ではありません。私の犯した罪は数えることも出来ないほどであるにも拘らず許して頂けるのは、枯木に芽が吹き、白骨に肉が付くように有り難いことです。この御恩に報いるためには、死さえも恐れません」
と言って平伏しました。
「では、さっそく清寧寺へ行き、雲英のための法要を行なうようにしてもらいたい」
「かしこまりました。」
殊勝に応えた特は、そのまま寺へと向かいました。
寺に着いた特は、初めの三日間は何もせず、ただ寝ていました。
四日目の朝、彼は僧を呼び
「四十石もある米を全て仏にやることもないだろう。俗人のために使っても罰(ばち)は当るまい」
と言って、酒肴を用意させました。そして村人たちを集め酒盛りを始めました。この時、ちょうど村の女が参拝に来ていたのですが、特はその女を無理遣り部屋に連れ込んでしまいました。特は十数日の間、このように過ごしたため、寺の僧も腹に据えてかねてしまいました。
「あなたは法要に来たのでしょう。いつまでもこんなことをしていないで、身体を清めて本堂に行きなさい」
こう言われた特は、しぶしぶ川にいき、身体を洗い清めた後、本堂に行って仏像の前に平伏しました。
「進士の奴を今日にも死ぬようにして下さい。そして明日にも雲英を生き返らせて俺のものにして下さい」
彼が三日三晩掛けて祈ったのは、このことだけでした。
しかし、帰って来て告げた彼の言葉は次のようなものでした。
「雲英さまは、きっと生きる道を得たのでしょう。法要を行なった夜に、私の夢に現われて繰り返し礼を言っていました。寺のお坊さんたちも同じ夢を見たそうです」
私は、この言葉を信じるほかありませんでした。
この時、私は既に科挙受験を放棄していましたが、勉強をするためと称して、清寧寺に出掛けました。季節は初夏で暑くなり始めていたので両親もそのまま送り出してくれました。寺に着いたときに初めて特の行なったことを知りました。私は、腹が立って堪りませんでしたが、本人がいない以上どうすることも出来ませんでした。
怒りを鎮めた私は、川に行き身体を洗い清めた後、仏像の前に平伏し、心から雲英の冥福を祈りました。そして、私たちを裏切り続けた特に対しては、相応の罰を受けるよう付け加えました。七日後、特は井戸に落ちて死んだそうです。
家に戻った私は、斎戒沐浴し、新しい衣服を身につけ床に身を横たえ、四日の間食を断ち、そのまま二度と起き上がることはありませんでした。
こうして全てを話し終えた金進士は、視線を雲英の方へ向けると、二人は再び涙を流し始めました。彼らの境遇に深く心打たれた柳泳は、慰めの言葉を掛けようと口を開きました。
「お二人は再会でき、特の奴にも天罰が下り、願いは全て叶ったのではありませんか。なのに何故そんなに悲しまれるのですか。人間世界に、もう一度生を受けなかったことですか」
柳青年の問いに進士は、静かに応えました。
「私たちは無念を抱いて死にましたが、冥府では私たちに罪の無いことを知っていたので、気の毒に思い、再び人間界に生まれるようにしてくれました。しかし、地界の楽は人間世界の楽とは比較になりません。まして天上世界の楽は言うまでもないことです。それゆえ、この世に生まれることなど考えてもいません。ただ、かつてあれほど賑わっていたこの寿聖宮も主人が亡くなると共に寂れてしまい、加えて壬辰・丁酉の二度の倭乱の戦火によって壮麗な建物や庭園も灰となってしまいました。往年のこの宮の有様を知る私たちにとって、栄枯盛衰は世のことわりと知りつつも、こうして目前で見るとやはり悲しくなってしまうのです」
「もしかすると、お二人は天上の方ではないでしょうか?」
柳青年は、先程から抱いていた疑念を口にしました。
「はい、おっしゃる通り、私たちは天界の仙人で玉皇上帝のお側に長く仕えておりました。ある日、上帝が私に玉園の果実を摘んでくるよう命じられました。私は多く摘んだので、その一部を雲英と共に食べてしまったのです。このことはすぐに発覚し、私たちは人間界に配流され、塵世の苦しみを味わうことになりました。しかし、今は許されて、又、上帝のもとに侍しています。今宵は、用事を済ませたついでに、ここに立ち寄り昔日を偲んでいたのです」
このように応えると進士は柳青年の手を握り
「私たちの思いは、たとえ海が枯れ、空が色褪せても消えることはないでしょう。今宵、あなたと逢えたのも何かの縁でしょう」
と言った後、書き上げた冊子を手渡しながら
「この草稿をお手元に保管して頂き、長く伝えて頂ければ幸いです。
ただ、つまらぬ人間の目に触れ、物笑いの種にだけはならないようにして下さい」
と懇願しました。
この後、杯に再度酒が注がれました。酒を口に運んだ進士は、すっかり酔いが廻ってしまい雲英に依り掛かると、詩を詠じました。続いて雲英もそれに応酬しました。彼らの詩を聞いていた柳泳の意識は次第に朦朧となっていきました。
翌朝、鳥のさえずりによって起こされた柳青年は、ぼんやりとする頭を回らしながら周囲を見渡しました。人跡は一切ありませんでした。
― 夢だったのか。
しかし、手元には金進士から渡された冊子が確かにありました。彼は、それを懐にしまうと家に戻りました。
彼は、進士から言われた通り、冊子を大切に保管しました。そして、何度と無く、それを開いて読んで見ては、世の無常を感じるのでした。
そののち、家を出た彼は、各地の名山を巡り歩き、遂にその姿を消してしまいました。そして、彼がどのようになったかを知る人は誰一人いませんでした。
寿聖宮夢遊録 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu
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