藤原氏~日本史に名を刻む最大勢力~(日本史・古代~)

 藤原家は大化の改新で活躍した藤原(中臣)鎌足を祖とする一族です。中臣鎌足が臨終の際、天智天皇から「藤原」の姓を賜ったことからその歴史が始まります。

 その勢力は日本史を学べばよく分かりますね。歴史の至る所で「藤原」の姓を持つ方が登場しています。

 有名な話としては「斎藤」や「加藤」など「藤」の一字を持つ苗字が皆、この子孫であるなんて言われていますね。


 しかし、この藤原氏がどのようにしてその地位を築いたのか。その辺りは学校の授業でもなかなか細かく取り上げることは少ないと思われます。

 中学生の頃だと「娘を天皇に嫁がせて生まれた男の子を次の天皇にした」という印象くらいではないでしょうか?


 そんなわけで、今回は藤原氏の有名どころを取り上げてみたいと思います。

 主に高校の日本史で出てくる範囲のメンバーですので、覚えておくと便利かもしれません。



藤原鎌足ふじわらのかまたり中臣鎌足なかとみのかまたり

 天智天皇と共に蘇我氏を倒し、大化の改新に大きく貢献した藤原氏の祖です。

 中臣氏は元々神事・祭祀を司る役割を担った中央豪族の一つで、かばねむらじ。これはおみと並んで高位の豪族の称号でした。

 また天武天皇によって八色やくさかばねが制定された後は人臣では最高位の朝臣あそんの地位になっています。


 さて、神事と祭祀を司っていたこともあり、物部氏もののべし(仏教排斥派)同様に蘇我氏そがし(仏教推進派)と対立しておりました。当時はまだ神仏習合しんぶつしゅうごうの時代ではなかったため、外来の宗教である仏教の受け入れを巡って対立が激しくなっていました。

 その後、物部氏が倒され蘇我氏が朝廷の中枢を担うようになってからは世の中でも仏教が広まっていくようになったため、蘇我氏の排除は中臣氏としても重要な問題であったと言えます。


 さて、乙巳いっしの変で中大兄皇子と共に蘇我氏本宗家を倒した後はその功績で内臣うちおみに任じられて軍事の指揮権を得ます。この頃、外交も関わっているので様々な分野で朝廷の力になっていたと考えられます。臨終の際に「軍事で貢献できなかった」と嘆いたという話が残っていることからも、白村江の戦いなど、それらに関わる外交問題にも携わっていた可能性はありますね。


 中大兄皇子の腹心として様々な大化の改新の諸事業に関わり、出世していった彼は臨終に際して天智天皇から「藤原」の姓を賜り亡くなります。(669年)

 この時、長男が出家していたことから次男の不比等が嫡男となります。



藤原不比等ふじわらのふひと

『竹取物語』の車持皇子くらもちのみこのモデルとされている方です。

 父の鎌足が死去した時点ではまだ若輩でしたが、天武天皇と持統天皇の息子である草壁皇子に仕え、頭角を現していったとされています。『飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょう』の編纂にも関わっていた可能性もありますね。

 文武天皇、元明天皇、元正天皇にも仕え、『大宝律令たいほうりつりょう』の編纂でも中心的な役割を果たしています。その内、文武天皇により、不比等の直系が「藤原」姓を名乗ることを許されたため、藤原氏は実質的にここからスタートしたとも言えます。なお、親戚は「中臣」姓に戻って元々の役職に携わることとなり、律令制での二官八省の一官、神祇官の要職を務めることになります。


 さて、多くの功績を上げた不比等ですが、その子世代がさらに藤原氏の地盤を固めていきます。

 息子たち四人(武智麻呂むちまろ房前ふささき宇合うまかい麻呂まろ)は政界の中枢に進出し、長女の宮子は文武天皇の后となってのちの聖武天皇を生みます。

 次女は長屋王ながやおうに嫁ぎ、三女(光明子)は聖武天皇に嫁ぎ、非皇族で初の天皇の后となります。四女は橘諸兄たちばなのもろえに嫁ぎ、五女も有力貴族の大伴氏に嫁いでいます。



③藤原四子(武智麻呂むちまろ房前ふささき宇合うまかい麻呂まろ

 不比等の息子の四人が不比等亡き後を引き継ぎます。長屋王の変で皇族の長屋王を滅ぼし、いずれも出世して藤原四子政権を築きます。

 残念ながら四子はその後、天然痘にかかって全員が死亡しますが、その系統はそれぞれ南家(武智麻呂)、北家(房前)、式家(宇合)、京家(麻呂)と呼ばれて行きます。

 京家はそれほど発展しなかったのですが、ここから南、北、式の三家が激しい勢力争いを繰り広げることになります。



④藤原光明子こうみょうし(光明皇后)

 聖武天皇が皇太子の時に結婚し、のちの孝謙天皇(重祚して称徳天皇)を産みます。孝謙天皇政権で力を握った藤原仲麻呂は彼女の甥っ子です。

 政治的な者よりは文化的な面での貢献が目立つ方かもしれません。夫の聖武天皇死後、その愛用品を東大寺に寄贈しており、それらが収められているのが「正倉院」ですね。そもそも東大寺や国分寺の建立についても彼女の進言によるものだったとされています。

 貧しい人への施しを行う「悲田院」や医療機関の「施薬院」も彼女によって設置されています。厚く仏教を信仰し、慈善活動に取り組んだ方で、「ハンセン病患者の膿を吸ったところ、その病人が如来様だった」なんて逸話も残されています。現在、岡山県にある国立ハンセン病診療所の「邑久光明園おくこうみょうえん」はこの逸話から名前がついたそうですね。



藤原広嗣ふじわらのひろつぐ(式家)

 藤原四子が死去したのち、皇族の橘諸兄たちばなのもろえが政権を握ります。反藤原氏勢力の台頭によって藤原氏は劣勢に立たされます。この時、政治の中枢には吉備真備きびのまきび玄昉げんぼうの二名が起用されています。

 この二名の排除を求めて宇合の息子の広嗣が反乱を起こします(藤原広嗣の乱)。しかしこれは失敗して広嗣も処刑。式家関係者も多くが処分されてしまいます。



藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ藤原恵美押勝ふじわらえみのおしかつ)(南家)

 橘諸兄政権において徐々に頭角を現していったのが藤原南家の祖、武智麻呂むちまろの次男の仲麻呂です。叔母にあたる光明子の信頼を得ており、阿倍内親王(のちの孝謙天皇)との関係も良好であったとされています。

 そして、聖武天皇の譲位によって孝謙天皇が即位すると一気に橘諸兄の権力を上回ります。政治と軍事を掌握し、次の天皇に淳仁天皇を擁立することに成功します。

 橘諸兄の子、奈良麻呂の反乱を鎮圧し、政権内の大粛清に成功したことで太政官の中でも君臨することになり、この乱の鎮圧に貢献したことで姓に「恵美」が加えられることになりました(藤原恵美家ふじわらえみけ)。

 皇族以外で初の太政大臣に就任し。まさに仲麻呂の天下となっていたわけですが、ここで最大の後ろ盾だった光明子が死去。孝謙上皇に寵愛された僧、道鏡の台頭により立場が悪くなっていきます。

 そして道鏡を排除するために反乱を起こしますがこれに失敗。仲麻呂の一族もことごとく殺されてしまい、南家の勢力もここで弱体化します。



藤原百川ふじわらのももかわ(式家)

 淳仁天皇の廃位によって、再び皇位に就いた孝謙上皇(以下、称徳天皇)によって道鏡が出世する中、その勢力を食い止めたのが藤原宇合ふじわらのうまかいの息子、百川です。北家の藤原永手ふじわらのながてと共に宇佐八幡宮神託事件うさはちまんぐうしんたくじけんを切り抜け、称徳天皇崩御後は道鏡を追放し、次の天皇に天智天皇の血筋である白壁王(のちの光仁天皇)を立てることに成功します。

 百川は光仁天皇の息子、山辺親王(のちの桓武天皇)の擁立にも貢献しており、最終的に正一位、太政大臣の地位が死後贈られています。



藤原緒嗣ふじわらのおつぐ(式家)

 百川の子の緒嗣は教科書ではちょっと名前が出てくる程度ですが、功績はなかなか大きいです。父の百川の功績によって、桓武天皇より厚遇を受けていた彼は29歳の若さで父と同じ公卿にまで上り詰め、32歳の時に桓武天皇に平安京の造営と蝦夷の平定の二大事業を中止するよう進言します。いわゆる「徳政論争とくせいろんそう」です。

 その後、平城へいぜい天皇、嵯峨天皇と仕えますが、同じ式家の藤原薬子ふじわらのくすこ平城太上天皇へいぜいだいじょうてんのう(当時は上皇のことを太上天皇だいじょうてんのうと呼ぶ)と共に嵯峨天皇と対立する、いわゆる「平城太上天皇へいぜいだいじょうてんのうの変(薬子の変)」が発生し、これが鎮圧されると式家自体の政治的地位が低下してしまいます。既に「伊予親王の変」に連座した南家の勢力も衰えており、南家と式家に代わって台頭してきたのが藤原北家です。



藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐ(北家)

 藤原北家隆盛のきっかけを作ったのはこの人物です。

 天皇の秘書官長である「蔵人頭」に就任し、「平城太上天皇の変(薬子の変)」の鎮圧に貢献しています。 これにより、藤原式家は没落。北家の勢力が増大し、その子孫の隆盛へと繋がっていきます。

 嵯峨天皇の下で力を握った冬嗣はその後も律令の修正法と施行細則である『弘仁格式こうにんきゃくしき』の編纂に関わり、他にも藤原氏子弟の教育機関である「勧学院かんがくいん」の創立に携わっています。



藤原良房ふじわらのよしふさ(北家)

 冬嗣の次男の良房がその後を継いでいきます。嵯峨天皇の娘を降嫁されたという話が残っているだけに、どれだけ信頼されていたかがよくわかります。

 この辺りからは、有力貴族の排斥が始まっていきます。代表例としては842年の「承和じょうわの変」で三筆の一人、橘逸勢たちばなのはやなりが謀反の疑いを受けて追放(のちに死去)。866年の「応天門おうてんもんの変」では昔からの朝廷の重鎮である大伴氏おおともし紀氏きのしの排除に成功します。

 娘が清和天皇の母親であり、応天門の変後には清和天皇より人臣初の摂政に任命されています(『日本三大実録』より)。また、『貞観格式じょうがんきゃくしき』(869年)の編纂にも関わっています。



藤原基経ふじわらのもとつね(北家)

 良房に後継ぎがいなかったことから、兄の子であった基経が養子となります。この方は日本の正史とされる六つの書物『六国史りっこくし』の一つ「日本文徳天皇実録」の編纂にも関わっていますね。

 清和天皇、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇の四代に仕え、宇多天皇の時に日本史上初の関白に任命された方でもあります。

 また、その際に発生した「阿衡あこう紛議ふんぎ阿衡事件あこうじけん)」によって藤原氏の権力が天皇以上であると世に知らしめることになります。(詳しくは菅原道真すがわらのみちざねの回にまとめられています)

 参照「菅原道真~怨霊伝説とマルチな神様~(日本史・平安時代)」

https://kakuyomu.jp/works/1177354054881574141/episodes/1177354054881664117

 この事件によって橘諸兄より続く有力貴族の橘氏も失脚します。しかし、この事件は天皇にとって非常に屈辱と言えるもの。基経死後は菅原道真が台頭することになります。

 菅原道真を排除した息子の時平はその後若くして病死、弟の忠平が継いで醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇と仕えていきます。


 この時点で冬嗣、良房、基経と三代に渡り、天皇の外祖父の地位にいたために藤原北家の地位は盤石なものとなっていきます。

 969年には「安和あんなの変」が発生し、有力貴族の源高明が排斥されます。摂政と関白は常置のものとなり、完全に朝廷内の地位を確立した藤原北家ですが、まだ敵はいます。藤原北家に生まれたとしても、今度は一族を率いる氏長者うじちょうじゃにならなければ摂政と関白の地位に就けません。つまり、ここからはでの争いが激化していくことになるのです。



藤原道長ふじわらのみちなが(北家)

 この争いを収めたのが中学高校と習うビッグネーム。藤原道長です。

 一条天皇に長女の彰子しょうしを入内させ、次の三条天皇には次女の妍子けんしを、一条天皇と彰子の子の後一条天皇へは四女の威子いしを、敦良親王あつながしんのう(のちの後朱雀天皇)へは六女の嬉子きしを嫁がせます。

 後一条天皇への入内の際は「一家立三后」と驚かれ、その祝宴の席で詠んだのが有名な望月の歌です。(この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば)


 この逸話を記した『小右記しょうゆうき』の筆者、藤原実資ふじわらのさねすけは道長に対して批判的な方とされていますが、その方の日記に道長の仰天エピソードが書かれているというのもなかなか驚きと言えます。(道長の日記『御堂関白記』には載っていない)


 晩年には「法成寺ほっしょうじ」を建立し、まさに藤原氏の栄華を極めたと言えましょう。

 ちなみに、この方の関係者もビッグネームが多いですね。

 一般的に言われる「源氏」にあたる河内源氏かわちげんじの祖である源頼信みなもとのよりのぶ源頼政みなもとのよりまさに繋がる摂津源氏せっつげんじの祖である源頼光みなもとのよりみつ、平清盛に繋がる伊勢平氏の祖である平維衡たいらのこれひら、和泉式部の夫であり、『宇治拾遺物語うじしゅういものがたり』でも登場する藤原保昌ふじわらのやすまさらは彼に仕え、紫式部や和泉式部などは彼に庇護されています。『源氏物語』の主役「光源氏」のモデルの一人が道長と言う話もありますね。

 陰陽師の安倍晴明も同じ時期に朝廷に仕えていた方です。



 ⑬藤原頼通ふじわらのよりみち(北家)

 教科書では扱いが小さいのですが、摂政・関白・太政大臣と頂点を極め、関白として五十年も務めた大物です。十円玉の表面に描かれている宇治平等院鳳凰堂うじびょうどういんほうおうどうを造営したことでも知られていますね。

 26歳の時に父の道長から摂政の地位を譲られ、藤原氏長者の座も譲られています。26歳で摂政……いかに平安時代ごろの平均寿命が短いと言っても、これはあまりにも若いですね。道長が摂政になったのが50を過ぎてからですから異例の速さです。そもそも12歳で元服と同時に昇殿が許されている時点で恐ろしい出世スピードです。


 簡単にまとめると位階の上がり方がこんな感じになります。

 12歳……元服、正五位下になる。昇殿が許される。

 13歳……従四位下

 14歳……従四位上

 15歳……従三位、正三位(ここから公卿くぎょう

 17歳……従二位

 20歳……正二位

 26歳……内大臣、摂政

 28歳……関白

 30歳……従一位、左大臣


 いや、もう意味が分かりませんね(汗)

 ここまで父親を全て上回る速度です。

 エリート中のエリート。自分が摂政の時には父親も太政大臣。まさに藤原氏絶頂期です。これで入内させた娘に皇子が生まれていたらどうなっていたんでしょうねえ……。

 本人が83歳まで生きただけに、道長を上回る実績を上げていた可能性もあります。


 晩年はご存知の通り、外祖父の立場を得ることができず、藤原氏と血縁の薄い後三条天皇が即位。続いて白河天皇、堀河天皇と続いて院政の時代が始まっていきます。その中で頼通も亡くなります。



 ⑭その後の藤原氏

 教科書では藤原氏の登場はこの辺りまでがメインですね。出て来るとしても保元の乱・平治の乱の藤原忠通ふじわらのただみちと頼長、藤原通憲ふじわらのみちのり信西しんぜい)くらいでしょうか。

 その後は武家政権の成立により、藤原氏の権勢も衰退しています。とはいえ、その後も摂政・関白の地位は(豊臣家を除いて)藤原北家によって独占され続けます。


 藤原氏自体もさらに家が分かれて行き、所々で日本史の舞台に名前が挙がっています。一部を紹介しましょう。


「一条家」

 室町時代、有職故実ゆうそくこじつの研究など、幅広い学問を修めた一条兼良いちじょうかねよしを輩出しています。


「三条家」

 初期の明治政府において中核を担った最後の太政大臣、三条実美さんじょうさねとみを輩出しています。


「西園寺家」

桂園時代けいえんじだい」と呼ばれた時代、日露戦争後の時代を担った第12代、14代内閣総理大臣の西園寺公望さいおんじきんもちを輩出しています。


「日野家」

 浄土真宗開祖、親鸞しんらんや室町幕府8代将軍足利義政あしかがよしまさの正室、日野富子ひのとみこがこちらの血筋です。


「近衛家」

 第34代、38代、39代内閣総理大臣、近衛文麿このえふみまろを輩出しています。

 また、嫡流ではありませんが、近衛文麿の孫が第79代内閣総理大臣、細川護熙ほそかわもりひろです。



 姻族まで含めれば徳川家、天皇家までいます。表舞台に出ることは無くても、藤原氏はこの日本の歴史の中で常にその血筋が重要な位置にいたことがわかりますね。


 それでは、今回はこの辺で。

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