島原の乱~政治利用されたキリシタン~(日本史・江戸時代)

 近世の日本においてキリスト教は邪教扱い。

 厳しい弾圧が行われ、その結果キリシタンたちによって島原の乱が起こされる。


 ……とまあ、一般的な認識はこんな感じかもしれません。


 しかし、キリスト教のために戦い、命を散らした方々であるにもかかわらず今日まで彼らや首領の天草四郎時貞は聖人にも福者にも認定されていません。

 それどころか殉教者扱いにすらなっていないのです。


 何故ならばこの島原の乱。

 このような扱いになっているのです。


〇前段階

 さて、ではその大元について知っていきましょう。

 島原と天草は元々、キリシタン大名であった有馬晴信と小西行長の領知でした。

 そのため、キリシタンも数多く住んでいました。

 秀吉によって伴天連追放令が出された後も、有馬晴信はひそかにキリシタンをかくまっていたようです。

 しかし、小西行長は関ヶ原で敗北し、石田三成と共に斬首。

 有馬晴信は岡本大八事件で転封となり、後に死罪となります。


 この岡本大八事件と言うのは、旧有馬領を取り戻したかった晴信に岡本大八と言う人物が「口利きしてあげるから賄賂をよこせ」と言い寄り、お金を騙し取られたと言う物です。

 後に、音沙汰がなかったために晴信が幕府に申し立てたことで発覚します。

 大八は火あぶり。晴信は以前に長崎奉行とトラブルを起こしており、その際に「いつか殺してやる」と言っていた事が問題化し、贈賄についても咎められて転封、死罪に処せられました。

 幕府が起こした不祥事。

 しかも関わった両者がキリシタンであったことで、家康はキリシタンに対して不信感は高まったようです。


〇過酷な統治

 さて、関ケ原の戦い後に改易された小西の代わりに天草にやって来たのが寺沢広高。

 有馬晴信の代わりに島原にやって来たのが松倉重政でした。

 彼らの治世は過酷と言えるものだったようです。


 寺沢広高自身は武芸と倹約に努め、有能な武士を重用していたそうです。

 しかし、天草に来た時に算定した石高は実状の二倍であり、徴税が過酷なものとなってしまいました。

 更に、禁教令発令後は棄教を厳しく迫り、拷問も行っていたそうです。


 島原の松倉重政の方は更に輪をかけて酷かったようです。

 彼の俸禄は4万3千石。

 しかし、彼が築いた島原城は10万石の大名相当の規模だったようです。

 当然その築城・維持のためにはそれだけの徴税を行う必要があります。

 検地を行った際に石高を実情の二倍近くに見積もり、それに応じた徴税を行いました。

 加えて江戸城改築の普請役も担当したようですが、これも4万石程度の大名が行う仕事ではありません。

 費用捻出のためにはこれまた過酷な徴税が行われます。

 当然そんなことをされて領民の生活が立ち行くはずもありません。


 キリシタン弾圧でも、当初はそれほど厳しい弾圧ではありませんでしたが、将軍家光から対策が甘いと指摘されてからは過酷な弾圧に向かっていきました。

 その内容は焼きごてを顔に押し付ける、指を切り落とすなど苛烈な物でした。


 彼らの後継も同様に苛烈な取り立てと弾圧を行いました。

 特に松倉勝家は凶作であっても重税を課し、様々な税を作って取り立てたという記録が残っています。

 年貢を払えない農民や村の庄屋から妻子を人質にとり、殺害していたなんて話もあります。

(蓑を着せて火をつけてもがいて死んでいく様を「蓑踊り」と呼んでいた。なんて話も残っています……)


 さて、ここまでされれば遂に人々の我慢の限界を迎えます

 当時、島原では旧有馬家家臣の方々の中には百姓になり、地域の指導的立場になっていた者もいました。彼らを中心に反乱の計画が進められていました。

 天草でも旧小西家の家臣を中心に団結が強まっていました。この中に居たのが益田四郎時貞。後に天草四郎時貞と呼ばれる少年です。


 彼の生涯はよくわかっていませんが、反乱の際に象徴的な存在として祀り上げられていたようです。

「水の上を歩いた」「盲目の人物を治療した」なんて逸話もありますが、これらはイエス・キリストの起こした奇跡と同様の物(福音書など)なので、言い伝えを参考に天草四郎を神格化するために利用されたのではないかと思われます。


〇蜂起

 さて、いよいよ決起の時が来ます。

 人質に取られていた口の津村の庄屋の妻が水牢で亡くなったことが最後の引き金になりました。(『黒田長興一世之記』より)

 1637(寛永14)年10月25日。

 島原の領民が代官所を襲撃し、代官を殺害します。

 これが島原の乱の始まりです。


 島原藩は討伐軍を派遣しますが一揆軍の勢いが激しく、城下にまで攻め込まれてしまいます。

 藩は、一揆に加わっていなかった農民に武器を与えて対抗しようとしましたが、それを持って一揆に加わった農民も出てしまったとのことです。


 天草側もこれに呼応して蜂起します。

 大暴れした後に有明海を渡り、有馬家の居城であった原城に島原側の軍勢と共に籠城することになります。

 この時の人数は3万7千人ほどと言われています。

 参考までにどれほどの規模かと言いますと……


 元寇の際の一回目(文永の役)の元軍が約3~4万人。

 上杉謙信vs武田信玄の有名な戦いである川中島の戦いが両軍合わせて3万3千人ほど。

 第二次上田合戦で真田を攻めた徳川秀忠軍が3万8千人です。


 つまり、歴史の名だたる戦の軍勢並みの人数が反乱を起こしているのです。

 これは最早藩一つでどうにかできる数ではありません。


〇幕府の対応

 反乱を知った幕府は御書院番頭(徳川の親衛隊)の板倉重昌を派遣し、九州諸藩の連合軍の指揮を執らせます。

 ですが、再三の総攻撃にも原城はびくともせず、逆に敗走を重ねる始末。

 原因としては板倉重昌の俸禄が低く、対して九州勢は数十万石以上の外様大名が多いため、これらを率いるには格が足りず、統制が取れなかったことが挙げられます。


 一致団結して士気の高い一揆勢vs統制のとれない寄せ集め幕府軍。

 これでは勝てません。


 事態を重く見た幕府は、遂に本気になります。

 老中の松平伊豆守信綱まつだいらいずのかみのぶつなが総大将に就任します。

 この信綱は、「知恵伊豆(知恵出づの掛詞)」と言われたほどで、当時将軍家光が自身の右腕と評された酒井忠勝が「信綱とは決して知恵比べをしてはならぬ。あれは人間と申すものではない」と評したほどの人物です。(ちなみに信綱は左手と評されています)


 これだけの人物が派遣されると知った板倉重昌は焦って総攻撃をかけましたが、逆に敗走し、自身も銃撃を受けて戦死してしまいました。


 さて、信綱がやってきて援軍も到着。

 軍隊の人数も12万人に膨れ上がり、オランダ軍も派遣されて陸と海から原城を完全に包囲します。

 一揆軍はポルトガル(カトリック国家)からの支援を期待していたため、オランダ軍からの砲撃は士気を削ぐのに効果的だったようです。


 甲賀忍者の諜報活動によって城内に食料が無いことを知った信綱は城攻めの作戦を兵糧攻めに切り替えます。

 2か月に及ぶ兵糧攻めの結果、城内の食料・弾薬が付きかけた所で幕府軍は総攻撃をかけます。

 遂に原城が陥落、天草四郎も討ち取られて反乱軍も全滅しました。


〇戦後

 反乱は鎮圧されましたが、領民の生活が成り立たないほどの年貢の取り立てで乱を招いたとして松倉氏は改易となります。

 松倉勝家はあくまで自分の失政が原因と認めたくなかったため、当初からキリシタンの暴動と主張していました。(『細川家記』『天草島鏡』)

 反乱軍の中核にキリシタンがいたことがその主張の根拠だったようです。


 ですが所領は没収。屋敷の桶から農民とみられる死体が発見されたことが決め手となり斬首となりました。

 本来ならば切腹として名誉の死を命じられる武士の世界で、大名が罪人として斬首されたのは江戸時代を通じてこの一例のみです。

 それほど、幕府はこの反乱の原因となった松倉勝家の責任を重く見たのでしょう。


 天草藩主寺沢堅高は乱発生時に参勤中だったこともあり処分は軽かったのですが、天草の領地を没収され、江戸城への出仕も禁止されてしまいます。

 領地没収に加え、江戸城出仕の禁止。これは大名にとっては最大の恥であり、名誉を重んじる武士の世界でこのまま生き続けるのは生き恥以外の何物でもありません。

 結果、精神に異常をきたして自殺。継嗣もいなかったことから寺沢氏は断絶します。


 ついでに、原城総攻撃の際、取り決められていた時間を無視して先走って攻め込んだ佐賀藩主の鍋島勝茂はしばらくの間の閉門を命じられています。

 さすがに功を焦って軍紀を破るのはいけませんね(汗)


〇鈴木重成~命をかけた嘆願~

 その後、天草は他の大名が派遣されますが私領に適さないとわかり幕府領(天領)に組み込まれることになります。

 新たに派遣された代官の鈴木重成によって検地もやり直され、本来の石高である2万1千石にするように訴えます。

 しかし、石高の引き下げは前例がないこともあり、幕府に拒否されます。


 その後、鈴木重成が亡くなるのですが、この辺りに様々な異説があります。

 ある話では、天草の救済を求める嘆願書を残して切腹したとされています。

 重成の後を継いだ子の鈴木重辰も再三の石高半減の訴えを行い、1659(万治2)年、遂に幕府もこれを認めたとのことです。


 重成は病死ともされているので、本当に嘆願の為に切腹したかどうかははっきりしていません。

 ただ、重成が天草の民の為に尽力していたのは確かです。

 天草の領民は、重成が天草の為に命をかけたと知って鈴木重成を祀る鈴木神社を建立したとのことです。


〇終わりに

 このように、島原の乱はキリシタン的な要素というよりは政治的な要素が非常に大きいです。

 有馬・小西の元家臣らが中心であったこと。

 島原・天草の大名の圧政とキリスト教弾圧が原因であったこと。


 しかし江戸幕府は、この乱をキリシタン弾圧の口実にして禁教政策を強めて行きました。

 歴史は為政者の都合のいいように操作されると言う面が存在しています。

 そのため、今日の島原の乱=キリシタンの乱というイメージが定着しているのです。

 そして、それは鎖国へと繋がって行きます。


 今回はこの辺で。

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