南北朝時代~二つに分かれた天皇家~(日本史・室町時代)

 南北朝時代と言うと日本にも中国にも存在しますが、こちらでは日本の方を取り上げたいと思います。

 まず期間ですが1336年から1392年までの57年間に当たりますが、そもそものきっかけは更に以前、鎌倉時代まで遡る必要があります。それでは見て行きましょう(今回は6000字程度と長めです。)


両統迭立りょうとうてつりつ

 前提として知っておいて欲しいのがこちらです。

 高校の日本史で学ぶ中で、鎌倉時代後半あたりはかなりあやふやなのではないでしょうか?

 事実、鎌倉時代の話と言えば……


①源平合戦(治承じしょう寿永じゅえいの乱)からの源頼朝による鎌倉幕府成立と守護・地頭の設置+奥州藤原氏滅亡。

②鎌倉幕府の政治機構、源氏将軍の断絶と承久の乱。

蒙古襲来もうこしゅうらい元寇げんこう

④鎌倉文化(特に鎌倉仏教)


 覚えているとしても、この辺りがほとんどではないでしょうか?

 そして教科書では取り上げているのですが、途中でこの両統迭立りょうとうてつりつという状況が発生していることを記憶している方は多くないかもしれません。


 日本における両統迭立りょうとうてつりつとは、鎌倉時代において発生した二つの皇統による皇位の交互の継承状況のことを指します。

 本来、皇統は特殊な事情がない限り一つの皇統が続いていくのが定番です。

 例として言えば、この直近の出来事ではこんなことが発生しています。


 承久3年(1221年)の承久の乱により、鎌倉幕府は関わった後鳥羽ごとば上皇・土御門つちみかど上皇・順徳じゅんとく上皇の三上皇を配流。そして当時の天皇であった仲恭ちゅうきょう天皇を退位させました。

 その後、後鳥羽上皇の直系子孫は皇位継承者から除外され、後鳥羽上皇の兄、守貞もりさだ親王の三男、後堀河天皇が即位。そして続いて子の四条天皇と継承されて行きます。

 しかし、四条天皇はわずか数え12歳で崩御。当然子供などいませんし、他の継承者は全員が出家していたので守貞親王の系譜がここで途絶えてしまいます。そして系譜は遡り、後鳥羽上皇の血統から後嵯峨ごさが天皇が即位します。


 さて、前置きが長くなりましたが、両統迭立りょうとうてつりつの原因はこの後嵯峨天皇からスタートします。後嵯峨天皇はその後、後深草ごふかくさ天皇(当時4歳)に譲位し、院政を開始し、後に後深草天皇にさらに譲位を迫り、後深草ごふかくさ天皇の弟の亀山かめやま天皇(当時11歳、後深草天皇17歳)が即位することになります。さらに9年後にはその後継に後深草天皇の子を差し置いて亀山天皇の嫡男を指名しています。


 さてここで混乱してくる頃なので登場人物を整理します。


後嵯峨上皇(院政) ――親子――後深草天皇(兄)、亀山天皇(弟)

後深草上皇(退位) ――親子――煕仁ひろひと親王

亀山天皇(治天の君)――親子――世仁よひと親王(皇太子)


 とりあえず、この時点では後嵯峨上皇は亀山天皇に後嵯峨系の系譜を継がせていくつもりだったのかもしれませんね。しかしここで問題が発生しました。


 文永9年(1272年)、後嵯峨上皇が崩御します。

 後継者を明確に指定する物も残されておらず、治天の君(皇室の当主として実権を握る存在)は鎌倉幕府の意向に従うことになります。この時点では亀山天皇が在位中なので、彼が政務をとり、世仁親王よひとしんのうに譲位、後宇多ごうだ天皇が即位します。

 当然この措置は治天の地位を逃した後深草上皇からすれば納得のいくものではないため、ここで後深草側と亀山側の真っ二つに朝廷が割れることになってしまいました。


 皇位継承に口を出せる立場ではありますが、元々幕府のトップ征夷大将軍は朝廷から役職をいただいている立場。皇室が分裂してしまえば幕府にも大きく影響が出てしまいます。さすがにこの状況を鎌倉幕府も捨て置けるわけがありません。承久の乱の時同様に皇位継承に幕府が介入し、次の皇太子を煕仁ひろひと親王(のちの伏見ふしみ天皇)にすることが決まります。これによって父親である後深草上皇は治天の立場を保障されることになりました。


 ここからの系譜はこんな形になります。(数字は何代目の天皇か)


【大覚寺統】

 90亀山天皇――91後宇多天皇――94後二条天皇――96後醍醐ごだいご天皇

(※後醍醐天皇は後二条天皇の異母弟)

【持明院統】

 89後深草天皇――92伏見天皇――93後伏見天皇――95花園天皇――光厳こうごん天皇

(※花園天皇は後伏見天皇の異母弟)


 細かい揉め事はこの後も色々とあるのですが、とりあえず治天の君と皇太子の座争いと幕府の介入によってこの後は二つの皇統が交互に即位することが決定したという異常な事態にあったということだけは理解していただきたいと思います。


 さて、長くなりましたが後醍醐天皇と光厳こうごん天皇の名前が出たので本題の南北朝に移りましょう。


〇鎌倉幕府滅亡まで

 後醍醐天皇は後二条天皇の息子が成人して即位するまでの中継ぎの天皇でした。これは父親の後宇多法皇の遺言状に基づいた措置のようです。つまり後宇多法皇は自分の皇統を後二条天皇の血筋に継承させていこうとしていたようです。(なんかもうこの時点で嫌な雰囲気が漂っておりますね)

 当然のことながら後醍醐天皇の系譜は彼自身で終わり。大覚寺統の皇統は彼の息子には継承されて行かないことになります。そして両統迭立を方針とし、後宇多法皇の方針を認めている鎌倉幕府への不満が募ります。


 後醍醐天皇は二度の討幕計画を立て、失敗していますがその最初が正中の変(1324年)です。こちらでは後醍醐天皇は処分されませんでしたが、この時点で彼の味方は朝廷にもほとんどいなくなっていました。

 大覚寺統では後二条天皇の子、邦良親王くによししんのうが後継に決まっており、これを持明院統も鎌倉幕府も認めていました。邦良親王はその後病死しますが、後伏見天皇(持明院統)の嫡子量仁親王かずひとしんのうが皇太子に立てられ、後醍醐天皇への風当たりは非常に強くなりました。(譲位の圧力が強くなったと御解釈ください)

 元弘元年(1331年)には元弘げんこうの変が発生。倒幕計画が漏れてしまい、後醍醐天皇は挙兵しますが鎌倉幕府の前に捕縛され、廃位されて隠岐おきへ流罪となります。そして立てられたのが量仁親王かずひとしんのう光厳こうごん天皇です。ここまではまだ両統迭立が維持されていますね。

 そしてこの後は後醍醐天皇の皇子である護良もりよし親王が挙兵し、楠木正成くすのきまさしげ足利高氏あしかがたかうじ(のちに尊氏たかうじ)、新田義貞にったよしさだらが登場。後醍醐天皇も隠岐を脱出し、鎌倉幕府を滅亡へと追い込みます。ここで光厳天皇は後ろ盾の幕府を失い、後醍醐天皇により廃位されます。


【大覚寺統】

 96後醍醐天皇(元弘の変で廃位されるも復帰)――護良親王(後醍醐天皇の子、挙兵)

【持明院統】

 93後伏見天皇――光厳天皇(北朝1代目。倒幕と共に廃位)


〇建武の新政と建武の乱

 幕府を滅亡させ、朝廷に政権を取り戻した後醍醐天皇。「今の例は昔の新義なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」と唱えて建武の新政を開始します。(『梅松論』上より)

 光厳天皇の下で行われた人事をすべて無効にし、幕府、摂関、院政も廃止、皇統も両統迭立を廃止して大覚寺統で統一します。

 この辺りのゴタゴタは教科書でも登場していますね。恩賞の不公平、同じ地に守護がダブルブッキング、綸旨りんじ(天皇の意向を示す命令書)がないと何も決められない。それどころか前例と判決が違うなどとにかく混乱ぶりが物凄い。

 必ずと言っていいほど登場する史料『二条河原落書にじょうがわららくしょ』には「この頃都に流行るもの、夜討ち強盗偽綸旨にせりんじ召人めしうど早馬はやうま虚騒動そらそうどう……」と京の混乱ぶりがよくわかりますね。

 綸旨を唯一の根拠とするとされてしまえば土地の所有を巡り綸旨の発給を求める人々で殺到しますし、この隙に土地の所有権を主張するような輩まで登場します。後醍醐天皇は優秀な方でも一人で全てを担当するなんて無理ですからね。

 あとは倒幕に関わった面々の求めるものがバラバラだったことも問題でした。


 公家…貴族政治の復興

 武家…北条氏に代わる武家政治の出現

 伝統的勢力…復古的な政策

 悪党・新興勢力…革新的な政策


 幕府を倒すところまでは協力できても、ここまでバラバラじゃまとめるのは無理に近いですね。そもそも武家はせっかく幕府という存在を作るまでに強大化したのに幕府を否定されて元の権力構図に戻されてしまうことになったのですから(汗)


 さて、結局求心力を失った後醍醐天皇。建武の新政も瓦解。地方武士の反乱としてこの政治への不満が爆発します。建武2年(1353年)の「中先代なかせんだいの乱」です。これを鎮圧したのが足利尊氏(高氏から改名)でしたが、帰京命令を拒否して鎌倉に彼は居座ります。そして恩賞を独自の判断で給付したため、新政に不満を持つ武士たちの多くが彼に従い始めました。

 後醍醐天皇は尊氏の討伐命令を出し、対立が始まります(建武の乱)。しかし尊氏は持明院統の光厳上皇を味方につけ、楠木正成らを倒して京都を占領。後醍醐天皇は三種の神器(草薙剣くさなぎのつるぎ八尺瓊勾玉やさかにのまがたま八咫鏡やたのかがみ)を渡して廃位、幽閉されます。次の天皇についたのは光厳こうごん天皇の弟、光明こうみょう天皇です。


【大覚寺統】

 96後醍醐天皇(建武の乱で敗北、三種の神器を譲与して退位)

【持明院統】

 (北朝1)光厳天皇――(北朝2)光明天皇


〇南北朝分裂

 幽閉されていた後醍醐天皇でしたが、その直後に脱出し、奈良の吉野へと逃れます。そしてこう言い放ちます。


「北朝に渡した神器は贋物にせものである」

「光明天皇の皇位は正統ではない」


 まだ正当な天皇は自分であると主張し、吉野に朝廷を開いたのです。これによって北側の京都に持明院統による朝廷が存在し(北朝)、南側の吉野にも大覚寺統による朝廷が存在する(南朝)という異常事態、「南北朝時代」が始まってしまいます。

 かつては平城へいぜい上皇と嵯峨天皇との間で対立が発生し、二所朝廷にしょちょうていという状態になりましたが(平城太上へいぜいだいじょう天皇の変(藤原薬子ふじわらのくすこの変))、こちらでは本当に朝廷が二つできてしまいました。


 さてそんな後醍醐天皇(南朝)でしたが、直後の1339年に崩御。その直前には新田義貞も敗死しており、更には吉野も落とされて南朝は軍事的にもかなりの劣勢に立たされていました。

 そんな時に関東で戦っていた北畠親房きたばたけちかふさが書いたのが『神皇正統記じんのうしょうとうき』です。

 これは南朝の正統性を示した歴史書であり、君主の条件として三種の神器と血統、徳の必要性などが挙げられています。


〇北朝の遭難

 軍事的に優位に立った北朝ですが、ここでトラブルが発生します。

 「観応かんのう擾乱じょうらん(1350~1352)」の発生です。

 足利尊氏の弟、足利直義あしかがただよしと足利家の執事である高師直こうのもろなおとの対立が表面化。内紛に発展します。

 これによって足利直義あしかがただよしと尊氏の息子の直冬ただふゆが離反。南朝側に寝返ります。

 結局、この内紛によって高師直、足利直義は死亡。ゴタゴタが長期化したため、その隙をついて南朝が息を吹き返します。京都に攻め込まれて三種の神器と光厳こうごん上皇・光明こうみょう上皇と、天皇を退位した直後の崇光すこう上皇を連れ去られます。

 尊氏は後光厳天皇を即位させ、京都を奪還。しかしその後も奪って奪われての繰り返し。尊氏もその中で死去し(1358)、二代将軍義詮よしあきらが就任します。そして長く続いた戦いにより、そろそろ南北朝双方ともに限界を迎えてきました。

 第七次まで及んだ京都合戦。ようやく和平の機運が高まり、後村上天皇(後醍醐天皇の子)も足利義詮も和平への動きを始めていきました。(まだゴタゴタがありますが省略)

 しかし、1367年に将軍義詮が、翌年に後村上天皇が相次いで亡くなります。将軍を継いだのはまだ幼い足利義満。そして南朝は対北朝強硬派であった長慶天皇ちょうけいてんのうが即位します。これでは交渉を続けることは困難。和平交渉自体が消滅してしまいました。


明徳めいとく和約わやく(南北朝統一)

 三代将軍足利義満は幕府の中央集権化を進めます。幕府内もゴタゴタしており、一枚岩という状態ではありませんでした。さらに観応の擾乱の混乱が全国に及んだことで守護に現地での軍事兵粮調達を認め(半済令はんぜいれい)、警察権・軍事権だけであった守護が徴税権も手にしたことで強大化してしまいました(守護大名化)。その為、足利義満は幕府の体制を整え、内紛を鎮圧し、寺社勢力を抑え、どんどん幕府を強くしていきました。

 対して南朝側は強硬派の長慶天皇ちょうけいてんのうが亡くなり、主だった人物も相次いで亡くなったことで一気に弱体化していきます。


 こうして明徳3年(1392年)。実に南北朝に分かれてから57年目において、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲渡して南北朝が合体します。これが「明徳の和約」と言われています。


〇後日談

 その後、皇統はどうなったかと言いますと、後小松天皇から持明院統の系譜が続いていきますが、現代ではちょっと妙なことになっております。


・北朝と南朝どっちが正統なのか

 形式としては足利義満の手によって北朝に南朝が合流して統一が成されたので、北朝が正統という扱いになると思います。しかし現在、正統は南朝とされています。(この辺は資料集や教科書を読むと北朝の天皇が歴代天皇にカウントされていないことがわかります。)

 つまり、花園天皇まで続いた持明院統の系譜の中に大覚寺統の後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇がそれぞれ入り、96代、97代、98代、99代の天皇にカウントされてまた持明院統の100代目の後小松天皇へと続いていくことになるという奇妙な状況になっています。その理由をいくつか示したいと思います。


①三種の神器の存在

 『神皇正統記』や『大日本史』などによれば、天皇は三種の神器を所有していることは条件となっており、最終的に三種の神器を持っていたのは南朝であることが理由の一つとなっています。

 ただ、治承・寿永の乱(源平の争乱)の時に平氏が安徳天皇と西国へ逃れた際、三種の神器を持って行ってしまったので神器不在のまま後鳥羽天皇が即位していたという例外も存在するので、これだけを理由とするのは少々難しいものはあります。北畠親房きたばたけちかふさの『神皇正統記』でもこの辺については説明できていません。

 そもそも京都合戦で三種の神器を強奪されるまでは光明天皇や崇光天皇も三種の神器の所有者にあたるので、この点は何とも言えないものがありますけどね。


②徳川政権

 徳川氏は南朝方にいた新田氏の末裔と名乗っています。その為、公家らが主張している北朝正統論に対して南朝正統論を唱えること自体はあまりタブー視されなくなり、独自に研究することは可能になりました。

 その後、水戸黄門でお馴染みの徳川光圀とくがわみつくにが軍記物語『太平記たいへいき』を資料に『大日本史』で南朝正統論を採用しており、この考えは後の水戸学に通じ、水戸学は幕末において維新側の思想に大きく影響を与えております。

 そして明治維新。維新志士たちは明治政府のメンバーとなっています。帝国議会で議論になるほどに問題化もしており、最終的に『大日本史』を根拠に南朝が正統とされます。戦前の皇国史観では足利尊氏は形としては天皇に逆らった逆賊扱い。楠木正成や新田義貞を忠臣とする解釈が主流化していたようです(この辺は『太平記』の内容に従っているようです)。現在は宮内庁の歴代天皇陵の記述などからも、南朝が正統の扱いになっているみたいですね。

 幕末の尊王論に影響を与えた儒学者頼山陽らいさんようによれば、後小松天皇は南朝から禅譲ぜんじょうを受けた天皇であるとしており、現在が北朝の皇統であることに何ら矛盾はしないとしていますね。



 お付き合いありがとうございました。

 今回はこの辺で。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る