第3話
結局”来なかった”ので、もう一つのお皿に乗せた卵焼きも食べて、ごはんを半分だけおかわりした。
「くぁ……ぁふ」
大きなあくび。まぶたがとろんと重くなる。
すっかり満足した僕の身体が、贅沢な朝の二度寝をご所望だった。身を任せるのは至上の幸福なのは間違いないのだけれど、残念ながら僕は学校に行かなくちゃいけない。
洗面台に行って、蛇口をひねって出した水を一息に顔にかける。秋の中頃とはいえ、早朝の水道は身をよじりたくなるような冷たさだ。跳ねて背中に飛んだ水滴で、眠気は逃げるように去っていった。
そのまま、水の温度を少し上げて、若干寝癖がついていた髪を洗う。拭いたタオルはパジャマと一緒に洗濯機に投げ込んだ。洗濯物は……大丈夫だ、溜まってない。明日まとめて洗って、干してしまおう。
一戸建ての廊下の、フローリングの心地よい冷たさを踏みしめながら二階に上がる。自室に戻ると、朝靄がすっかり晴れて、顔を全部見せた朝日が出迎えた。
チチ……と綺麗な鳥の声を聞きながら、制服に袖を通す。ここ二週間ぐらいで、上着が熱くない季節になった。窮屈な学ランが好きになれる、その開放感も理由で秋はお気に入りの季節だ。
鞄を確認して、予習が必要なもの以外は学校に置いている軽めのそれをひょいと持ち上げる。防犯の為に窓を閉めて、姿見を見て、自分の姿を最終確認。
かわいい顔だとよく言われる。自分でも女性的だとは思うけれど、それをほめ言葉と受け取っていいかは、個人的には微妙なラインだ。でも、まあ向こうが喜んでくれるので、悪いようには受け取らないけれど。
身長はみんなより少し低め。瞼はくっきりと二重なのはちょっとした自慢。身だしなみは多少気にして、髪や眉毛も小綺麗に纏めている。いつも通りの僕だ。
「……よしっ」
一息。気分を学生モードに切り替えて、自室を出て、ドアを閉める。
――ピンポーン。
ちょうどそのタイミングだった。インターホンが、まるで約束されたような確かな響きで、家に木霊する。
やっぱり、来た。僕の予感は結構当たる。
焦らずに、階段をゆっくり降りる。来訪の気配を感じていたから、玄関のドアは開けていた。中程まで降りたところで、がちゃりとドアノブを回す音がする。
「おはよう、
降りきった僕を、彼女は流麗な笑顔で出迎えた。
映画の中に迷い込んだと錯覚させるような、完成された笑顔。何度見ても、心臓の鼓動がトクンと一段高くなる。女優顔負けの彼女の綺麗な笑顔に、僕も微笑を返した。
「おはようございます、詩織さん。今日は少し遅めですね?」
「そうね。少し朝の準備に手間取っちゃって」
サラリと伸びた黒髪は一縷の乱れもなく綺麗に纏まって、まるで仕立て上げられた絹糸のように感じさせる。細くくっきりした柳眉に、長いまつげで縁取られた少しキツめの目。両手を前にしてしゃんと佇む様は、凡人と一線を引く格式と品格を感じさせる。
「新くんは、もしかして、朝ごはん作ってくれたりしてた?」
「待ってはいましたけど、特別準備はしてないですよ。心配しないでください」
「……期待してた?」
「えっと……少しだけ」
「そっか。ごめんね、でもありがとう。うれしいわ」
少ない変化ながら、表情がころころと変わる。爪先で鍵を弾くような心地よい澄んだ声が、僕の耳をくすぐる。
僕が何か動くより早く、詩織さんは靴を脱いで僕に近づいてきた。まさしくモデル体型の詩織さんは、身長も高めだ。ぼくよりほんの少しだけ低い所から、夜色の瞳が僕の目をまっすぐのぞき込んでくる。
「じゃあ、わたしが新くんの身だしなみをチェックしてあげましょう。寝癖はないかしら?」
「ありません……ちゃんと自分でも確認しましたよ?」
「いいじゃない。こうして新くんを近くから眺めるの、楽しい」
くすくすと笑って、詩織さんはきょろきょろと僕を眺め回す。気恥ずかしくてじっとしていられない。
「ハンカチは?」
「持ちました」
「学ランのボタンは、かけちがいはないかしら」
「子供じゃないんですから……」
「鞄にヘンなもの入れてないでしょうね?」
「なんか、お母さんみたいですね」
「もう、それを言うならお姉さんでしょ? それに『美人の』が抜けてるわ」
「自分で言ってちゃ、世話ないですよ」
詩織さんは楽しそうに、僕のズボンのポケットのところをぽんぽんと叩いて、徐々に手を上に持って行く。細く綺麗な指が僕の身体の上で踊るのが、くすぐったくも気持ちいい。
「……あ」
肩あたりに到達して、僕は一つの忘れ物に気づいた。視界一杯の詩織さんの顔が、こてんと傾けられる。
「どうかしたの?」
「いやあ、うっかり歯を磨くのを忘れてました。ごめんなさい、すぐに……」
僕の声は、それ以上続かない。
肩に乗せられていた両手が、ゆっくりと僕の両頬を覆う。
特別な力はかかっていない。それなのに、詩織さんの顔が吸い込まれるように近づいて、僕の唇に触れた。
「ふ……」
吐息だけが漏れる。思わず鞄を落としてしまった。詩織さんの桜色の唇から、甘い彼女の味が入り込んでくる。くちっ、という唾液の音が内側から鼓膜を揺らす。
たっぷり数秒間。詩織さんは僕の口を堪能して、ゆっくりと唇を離した。舌をしまわずに、わざと色っぽい唾液のアーチを作る。
息がかかるほど……もう一度飛び込んでキスをしたくなるほどの距離で、詩織さんが愉快そうに笑う。
「ふふ……卵焼き、甘めに作ったんだ?」
「わ、分かるんですか?」
「分かるわよ。新くんのこと、よーく知ってるんだから。もちろん味も、ね……ふふっ。でも、少し食べたかったかも」
「……また今度、作りますよ」
「ありがとう。じゃあ、次はもっと早めに来ることにするわ」
そう笑って、詩織さんはひらりと身を引いた。詩織さんの背中に回ろうとした僕の手が、あっけなく空を切る。それすらも愉快そうに、詩織さんは踊るようにステップを踏んで、短いスカートをひらりと揺らす。
「一番のごちそうをありがとう……さ。待っているから、早く歯を磨いちゃいなさい」
「分かりました」
「そ・れ・と・も……磨いてほしい?」
「……え、遠慮します」
「……また今度、ね」
くすくすと笑う詩織さんに背を向けて、僕は洗面台へと向かう。
詩織さんは、多くを語ろうとはしない。何も言わずに行動に移して、僕を驚かせる。そういう小悪魔的な所がある。
美人で、綺麗で、お淑やかで、凛としていて……そんな、多分僕の彼女。
彼女はいつだって、楽しそうに突発的に行動して、僕を驚かせる。
振り回されてばかりだ。僕は、どうしても彼女に叶いそうにない。
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