だから、いったいどうして…。

 灯里はいま眼の前で起こっている現実に、頭を抱えた。


「ワン」

「わんわん」


「キュイ~ン」

「きゅい、きゅいん」


「クゥーン、クゥオ~ン」

「く、くぉおおおお~ん」


「はいはい、やっぱりこっちの勝ちね。ラッキー、おいで」

 とうとう灯里がそう言って両手を広げると、豆柴に似た愛らしい子犬が待ってましたとばかりに胸に飛び込んできた。

 ラッキーと並んで、灯里の前にお座りしていた柊が、今度は頭を抱える番だった。

「う~っ、うぉおおんおんっ!(え~っ、なんでだよ、灯里!)」

 まだ犬の鳴き声で明らかに不平を言っている柊に、灯里は言った。

「だって、しょうがないでしょ?ラッキーの方が可愛いんだもの」

 

「ちぇ、最近ラッキーばかり可愛がり過ぎ」

 そう柊は言うけれど、もともとラッキーは柊が拾ってきた子犬だ。

 柊の会社の研究所の中庭に捨てられていた雑種の子犬は全部で3匹だったが、比較的元気な2匹はそれぞれ同僚たちに引き取られ、一番弱っていたオスの一匹が残った。

 弱々しく震える小さな命を灯里は懸命に看病し、「もうこれで大丈夫」と獣医さんにお墨付きをもらったときは、柊とふたりで手を取り合って喜んだのだった。

 そして柊と灯里にとって思い出深い「ラッキー」という名前をつけ、今度こそは丈夫で元気に育つようにと子犬を連れてお参りにまで行ったのだ。


「こら、ラッキー。僕は命の恩人なんだぞ。ちょっとは敬意を払って、灯里を独り占めするな!」

 灯里の腕に抱かれて満足そうに目を細める子犬の髭を、柊はピンと指で弾いた。

 そんな柊を「夜もろくに眠らずにずっと看病してくれたのは灯里だ、命の恩人は灯里だ」と言わんばかりにラッキーは無視した。



 ここは、柊が新しく購入したマンションだ。

 灯里の勤務先である〈夏目クッキング・サロン〉と夏目老人が住むマンションとは、スープの冷めない距離にある。

 営業部から正式に研究所勤務となった柊の職場へも、アクセスがいい。

「結婚祝いに、マンションを一棟贈ろうか」

 どれだけ贈与税がかかるかわからない、夏目老人の恐ろしい提案を柊と灯里は当然断った。

「では、マンションの頭金くらい、さくっと稼ぎなさい」

 夏目老人はにやりと笑うと、柊にこれまで以上に積極的に投資の持てる知識を授け、そのお蔭で頭金どころではない額を柊は手にすることができた。

 ちょうどラッキーを拾ってきたのをいいことに、柊はまだ建設前の物件を全室完全防音にした。

「ペットOKだと言っても、やはり鳴き声は気になるでしょうから。ね、灯里」

 しれっとそう言った柊が、なんだか夏目老人に似てきた気がしてしょうがない。


 鳴き声…啼き声って意味じゃないわよね…。

 灯里の心配は、すぐに現実になったのだったが…。


「ワンッ!」

 灯里の腕の中で気持ちよさそうにしていたラッキーが、突然嬉しそうな声を上げた。

 ラッキーの視線を辿ると、柊がリードを手に立っていた。ラッキーにとって、リードは散歩の合図だ。

「あ、ラッキー…待って」

 制止しようとする灯里の腕をするりと抜けたラッキーは、大喜びで尻尾を振ると柊に駆け寄った。柊はラッキーの頭を撫でると、その首輪にリードを繋いだ。

「よしよし、ラッキーいい子だ」

 そしてラッキーをリビングから連れ出すと、廊下に続く扉を閉めたのだ。

「ラッキー、お前ちょっとそこで反省しておいで。僕と灯里はこれから仲良くするから、その間静かに待っているんだよ」

「や。ダメよ、柊ちゃん。ラッキーを中に入れてあげて」

 慌ててリビングの扉を開けようとする灯里の腕を、柊はがっちりと掴んだ。

「今度は、僕の番だよ、灯里」

 柊の眼の中に明らかに欲望の色を認めて、灯里はますます焦った。

「お願い、締め出されたらラッキーが可哀想よ」

「可哀想なのは僕の方だよ。灯里をラッキーに独占されっぱなしで。せっかくの休みくらい、僕だけの灯里でいてもらうよ」

 柊の腕に力が込められ、灯里はその胸に強く抱きしめられた。

 扉の向こうでは、ラッキーがワンワン不満そうに鳴いている。

「ラッキー、ラッ…んんんっ」

 愛犬の名を呼ぶ灯里の唇は、有無を言わさず柊に深く奪われる。

 長い貪るような口づけの後、柊は灯里の耳元で恐ろしいことをささやいた。

「そうだ、灯里をラッキーとお揃いにしてあげよう。それなら、いいだろ?」

「え…」

 柊の言っている意味が瞬時にわかって、灯里は小さく身震いする。

 そんな灯里の眼を確かめるように覗き込むと、柊は嬉しそうに言った。

「眼が、もう濡れている。灯里はますます、どんどんイヤラしくなるね。ほんと、調教しがいがあるよ」

 そう言うと柊は、灯里を軽々と抱き上げて歩き出した。

 灯里にはもうわかっている。

 柊が向かう寝室に用意されているもの、それは灯里用の首輪と自分を拘束するリードだということを。

「たっぷり可愛がってあげるね。灯里がラッキーを可愛がる以上に。灯里にとって一番は僕だということを、思い知らせてあげるよ」

 まだ懸命に鳴いているラッキーの声が遠ざかる。

「さぁ、今度は灯里が啼く番だよ。大丈夫、どんなに啼いても完全防音だから、このマンションは」



 ✵ ✵ ✵ 


 初めて灯里に抱いた幻想が、いま現実のものとなって眼の前にあることに、柊は密かに感動し満足していた。

 柊はうっとりとした表情で、灯里の躰にゆるく巻きついた真っ白なリボンを指で辿っていく。灯里のなめらかで白い肌よりもさらに白い拘束は、穢れない美しさと不思議な淫靡さをあわせ持っていた。

「僕がいつから、こうしたかったと思う?」

 恍惚とした柊の眼に惹きつけられるように、灯里はとろんとした表情で自分を拘束する男を見つめる。

「覚えている?灯里が中学最後の新体操の大会で、3位になったときのこと」

 ああ、あのときと灯里は思い出した。

「僕はあのとき、こんなキミの姿を夢想して、自分のことを心底汚らわしいと思ったんだ」

「…汚らわしい?自分のことを?」

 灯里は初めて知らされる真実に唖然として、微かに身を捩った。その動きを人差し指一本で制止して、柊は続ける。

「たぶん…、たぶんキミはそのとき誤解したんだ。それは中校生ですでに、許婚のいる自分のことだと思ったんだろ?」

 灯里が艶めかしく唇を少し開けて、こくりと頷いた。

 柊は、そんな淫らで無防備な灯里に酷く興奮を覚えながら口づけた。ちゅ、と軽く唇を吸う音をさせると、それから灯里の唇を包むようにして舌でゆっくりとなぞる。何度も何度も味わうように。

「灯里、キミが汚らわしいはずないじゃないか。何があっても、どんなときもキミは美しく清らかだ」

 僕の腕の中に居るとき以外は、と心の中でつけ加えて柊は灯里の鎖骨に所有の証をつける。白い肌と白いリボンの中にくっきりと浮かび上がるその紅い印に、柊はことのほか満足感を覚える。

「ふたりでいるときは、一緒に淫靡で汚らわしくて罪深い獣になろう」

 その言葉と柊の愛撫に背中を反らせて感じる灯里を、柊は思い切り抱きしめた。

「灯里、もう離さない。逃げられないよ」

 はぁ、ぜぃ、と喘ぎながらも可愛い恋人の口は、憎たらしい言葉を吐く。

「そ、んなの。あたし、また逃げるっ、かも」

 柊は一瞬驚いたように灯里の顔を見つめると、やがてにっこりと微笑んで言った。

「いいよ。何度でも、何度でも、捕まえる。僕は灯里となら、永遠の追いかけっこをする覚悟があるから」

「永遠の追いかけっこ?」

「そう。もし灯里が僕から逃げたら、僕はもっともっと強い、酷い男になって灯里を捕まえに行く。そして必ず捕まえる」

「…強くて、酷い男?」

 灯里が、情欲に濡れた眼で柊を見つめた。その眼を確かに見つめ返して、柊の指はゆっくりと灯里の核心へと降りていく。

 そして、すっかり刷り込まれた行為の期待に震える灯里を眺める。切なげに寄せられた眉に、一筋こぼれる頬の涙に、何かを訴えようとする唇に、次々と優しいキスを落としながら、柊は自分の中で暴れまわる獣をいっそう自覚していた。


 逃がさない。

 僕がこれから与える快感から、キミの躰と心を。

 深い底のない湖のような快楽の世界へ、キミを引きずり込んであげる。

 思う存分、啼いて許しを請う痴態が見たい。

 もちろん、許しはしない。

 キミが諦めて、すべてを投げ出すまで。

 身も心も意識も、何もかも。

 灯里、これははじまりに過ぎないんだ。

 追いかけて、追い詰めて、捕まえて、囚われのキミを僕の自由にする。

 だってそれは、キミも望んでいることだから。

 僕たちは、肌も相性も嗜好も何もかも

 これ以上ないくらいぴったりなのだから。

 ほかの誰も、お互いの替わりはいないんだ。


 そう。これは、これからはじまる終わりのない快楽と甘やかな地獄の序章に過ぎない。どんなに求め合っても貪り合っても、それがいっそうの渇きと飢餓をもたらすことを、幸福なアダムとイブは本当の意味でまだ知らない。

 林檎のように紅い印が、林檎のような2つのまろみにくっきりと刻印されたのを満足そうに見ながら、柊は禁断の言葉を灯里から引き出そうとする。

「ねえ、灯里、どうしてほしいの?自分から、僕に強請ねだってごらん」

 恥じらい、躊躇する姿も可愛らしい。だけど柊は、どうしても灯里の口からその言葉を引き出すつもりだ。

「柊ちゃんが、柊ちゃん自身が、欲しい」 

 頬を真っ赤にして涙をいっぱいためて、いじらしくも淫靡な灯里に柊はさらにささやく。

「わかった。でも、どんな風に可愛がってほしいの?」

 灯里はもう欲情にとろりと濡れた表情を隠しもせず、やがてふたりにとって禁断の言葉を口にする。美しくも罪深い堕天使のように。


「激しく…抱いて…傷つけて」



                 〈了〉

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激しく抱いて傷つけて 灯凪田テイル @mikazuki

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