桜が咲きほころびはじめた春の休日、夏目老人の呼び出しを受けて、柊と灯里はスープが冷めない距離にあるふたりの新居から老人のマンションへと向かった。手土産に、老人が大好物の雅匠庵の栗饅頭を持って。

「お祖父様ったら、どんな御用かしら?」

「さあ、灯里にも見当がつかないの?」

「あのお祖父様ですもの、考えてることなんて誰にも見当がつかないわ」

「はは、そうだね。でも、僕は好きだな、お祖父様のそういうところ」

 柊の言葉に、灯里は微笑みながら大きく頷いた。

 食えない、一筋縄ではいかないお祖父様だけど、その反面とても頼りになる人生経験の豊富な人だ。独特のユーモア感覚も持ち合わせていて、柊も自分もどれだけお祖父様に気持ちを救われ、学んでいることか。

「お腹を空かして来いって言ってたわ」

「お母さんが、料理でもつくっているのかな?」

「さあ。それなら、あたし手伝うのに」

 そんなことを話しながら、灯里たちはマンションに着いた。


「あら、いらっしゃい」

 インターフォンを押すと、織江の明るい声が聞えてきた。

 リビングに入ると、黒い作務衣の上下という格好の板前が大きな円テーブルの横に控えていた。

「お祖父様、こんにちは」

「おお、来たか」

 可愛い孫娘夫婦の来訪に、夏目老人は嬉しそうに眼を細めた。

「黒崎だ」

 夏目老人が、そう板前を柊と灯里に紹介する。

 黒崎と紹介された板前は、黙ってふたりに深々と頭を下げた。年の頃はまだ30代後半だろうか、実直そうで動きに無駄のない無口な男だった。

「知り合いから腕のいい料理人だと紹介されたんだが。せっかくだから、その腕前を皆で楽しませてもらおうと思ってな」

 ほくほくと眼を細める夏目老人の言葉に、黒崎はほんの少し緊張した表情を浮かべた。それはそうだろう、この老人が誰であるかを知っている者にとっては、こうして自宅に呼んでもらえること自体が名誉なこと。加えて、眼も舌も肥えている侮れない存在なのだ。

「それでは、はじめてくれ」

 夏目老人は楽しそうにそう言って、黒崎は一礼すると足早にキッチンに姿を消した。


 まだ昼ということで、食前酒はアルコール度の低いオリジナル・ブレンド果実酒。江戸切子のグラスに、琥珀色の液体がキラキラと輝いている。黒崎と同じ黒い作務衣姿の若い男が、給仕を手伝っている。

 先付は、お麩と白ずいきの胡麻和え、茶豆茶巾葛豆腐に生うに添え。

 八寸は、じゅんさいの酢の物、ズッキーニのサーモン射込み、山蕗のきゃら煮、炙り鰹の寿司等。

 椀物、煮物と続き、焼き物は穴子と新牛蒡の八幡巻、筍と鶏肉の山椒焼き等。

 茶そば入り新茶蒸しや車海老、百合根のお凌ぎ、和え物、蒸し物、揚げ物と続き、新物野菜の小鍋仕立てまで、春の滋味あふれる品の良い爽やかな味わい。

 刻み三つ葉を乗せた生姜ご飯と合せ味噌仕立ての止め椀、甘味、お薄まで、基本を抑えながら料理人の個性と主張がさり気なくちりばめられている辺りは、大変に満足のいく内容だった。

 夏目老人と織江の賛辞にほっと緊張を緩めた様子の黒崎に、柊と灯里も素直においしかったと礼を述べた。

 お昼にしては随分と贅沢な会席を終え、手際よく後片付けをした黒崎達が夏目家を去ると老人は早速、本題に入った。

「今日の料理に、投資の価値はあると思うか?」

「投資?」

 今日の会食には何か訳がありそうだと最初から思っていた織江が、とくに驚いた風でもなく訊く。

「お祖父様、投資ってどういうこと?」

「いまの料理人の方が、お店でも開くのでしょうか?」

 灯里と柊も、老人の真意を測りかねて訊ねた。

「ふむ」

 と夏目老人は、そんな3人を眺めると仰天するような事を言った。

「『北賀楼』の女将が先日、わしのところへ投資をする気はないかと訪ねてきおった」

 『北賀楼』の女将? それは繭里のこと? 灯里は思わず目を見開いて、同じように驚いている柊と顔を見合わせた。

「いったい、何に投資しろと言うんですか?」

 驚きつつもまだ冷静だった織江が、そう訊ねる。

「東京に『北賀楼』の2号店を出すそうだ」

「えっ!」

 さらに驚いた柊と灯里が、揃ってそう声を上げた。

 そんなふたりを面白そうに眺めながら、夏目老人は続けた。

「あの女将はふわふわと頼りなげに見えるが、なかなかどうして、かなりのやり手だ」

 やり手…あの繭里が?

 にわかには信じられない話と老人の評価を訊いて、灯里は言葉を失う。

「『北賀楼』と北川家が夏目家に対してこれまで行ってきたことを、たった一人でやってきて改めて謝罪した。その上で、その非礼を補って余りうるだけの投資話と思って訊いてくれと言いおった」

 ふぁふぁふぁふぁ、とそのときの様子を思い出したのか老人は、さも面白そうに笑った。

「あの繭里が?信じられない…」

 柊がそう呟いたが、灯里も同じ思いだった。

「なかなか、肝が据わった女将に成長しつつあるようだな」


 でも、と柊は思う。

 幼い頃から甘ったれの妹のようだ思ってきた繭里は、遠いあの夏の日、「あたしは幸せでいなければならないの、みんなのために」と決意を秘めたように言ったのだ。そしてその言葉を実践するかように、繭里は異母姉妹である灯里を犯した男と結ばれ、『北賀楼』の女将として前を見て微笑んで生きて行くことを選んだのだ。勝哉のことを「許す」のではなく、「忘却」することに決めたと手紙には書いてあったけれど、本当に忘れることなんてできるはずはない。しかし繭里はそれを自らの強い意志で、血を吐くような思いで貫いてきたのだろう。

「いつの間に繭里は…」

 そう呟いた柊の言葉に、灯里が同じ思いを乗せた。

「こんなにも強くなったのかしら…」

 

 繭里…。

 いつだって「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と慕ってくれた異母姉妹。姉は母屋で祖母と、妹は離れで家族と暮らすという特異な環境の中で、繭里はいつだって無邪気で明るくおっとりと振る舞っていた。

 けれども一見女の子らしいやわらかな外見と性格の下に、繭里は驚くほど頑固で忍耐強い側面を隠し持っていたのではないだろうか。

 頑固さは父から、忍耐強さは母から受け継いで。

 父の一史は、厳しいリツの言葉にいつも無言で従っていた。灯里が見てきたその姿は母と息子ではなく、老舗料亭の女将と己を律した板前のものだった。けれどもその父が初めて通した「」は、自分の子を宿した万祐子と結ばれることだった。リツがどんなに反対しても、周りがどんなに説得しても、そのただ一点に関して父は頑として訊き入れなかった。

 そして万祐子はおっとりと世間知らずのお嬢さんのようでいて、一度も会おうとしない認めもしないリツの仕打ちや周囲の陰口・冷たい態度を、ふんわり笑いながら耐え続けていたのではないか。ただひたすら何年も何十年も、一史と繭里のために。辛いなど一言も口にせず、態度にも出さずに。もしそうだとしたら、なんという強さだろう。

 繭里はそんな両親の気質を受け継ぎ、育てられてきたのだ。


 お祖母様、『北賀楼』の真の後継者は繭里だったんだわ。あたしなんかじゃなく。

 お祖母様、お祖母様にしては唯一、見誤りましたね。

 でも、いまは安心なさっているでしょう? それとも「そんなこと、私は薄々気づいていましたよ」と天国でうそぶいているかしら。


「それで、どうなさるの?お父さん」

 織江が単刀直入に切り込んだ。

「お前は、どう思う?」

「私の意見なんか。もう、ご自分で決めているくせに」

 そうさっぱりと言う娘を、老人はしばし無言で見つめると確かめるように訊ねた。

「いいのか?」

「やあね、お父さん。もう何年経っていると思うの?」

 何年経とうとも、実の娘が味わった辛酸を老人が簡単に忘れ許すはずがない。

 けれども母の織江はしなやかで、良い意味でしたたかな人だと灯里は尊敬している。

 いつだったか、織江はこう言ったのだ。

「灯里、幸せは人の不幸の上には成り立たないの。そんなのは砂上の楼閣、あっという間に崩れ去ってしまうわ。だから人を恨むなんて、無為な時間を過ごすのは馬鹿らしいことだと思わない? 幸せを決めるのは、自分自身の心。自分で決めた幸せは、決して裏切らないものよ」


「灯里はどう思う、あの味は通用すると思うか?」

 今度は自分に水を向けられて、灯里はしばし小首を傾げて考え込んだ。

「よく、わからないけど。…でも、なんだか懐かしい気持ちがしたわ」

「ほぉ」

 と老人が顎に右手を当てた。

「お前の舌が覚えている、『北賀楼』の味だったか。ふぅむ、では柊君はどう考える、この投資話」

 柊と灯里が結婚してから、老人は野々村君ではなく柊君と呼ぶようになった。

「僕は…」

 柊は戸惑った。株や為替ならともかく、こうした事業への投資はまだまだ門外漢だ。そこで、こう探りを入れてみた。

「2号店を出す場所は、どこなんでしょう?」

 ふん、と老人は鼻で笑うと言った。

「立地ときたか。場所は丸の内、あの女将はさらにオーガニック素材を使った菓子を出す『和カフェ』を併設するつもりだと言いおった」

 和カフェ…繭里は、そこまで攻めようと考えているのか。

「あの繭里が…」

 灯里は、もう何度目かわからない驚きを隠そうともしない。

「母になって、さらに強くなったのね。次男坊、確か里一りいちと名づけたんじゃなかったかしら?」

 なるほど、と柊も灯里も合点が言った。

 長男の一哉かずやと次男の里一りいち、そのいずれか或は両方が『北賀楼』の未来を担っていくはずだ。板前として、または経営者として。繭里はそのための布石を、すでに打とうしているのか。


「柊君、覚えておくといい。事業投資は立地条件や展開計画も重要だが、もっと大事なのは『人』だよ。その人物が投資に値する人間か、損得抜きでとことんつき合うだけの気持ちにさせる志を持っているかだ。そう言った意味では、あの女将は面白い。なかなか興味深い人間じゃよ」

 繭里はこの夏目老人を、いや夏目邦広という大物をその気にさせたのか。そう思うと、柊はなんだか身震いする思いだった。

「さて灯里、柊君を借りるぞ。そうは言っても、事業計画の吟味は大事だからな」


 今度は、僕が試されている。

 柊はそう思った。

 よぉし、繭里に負けないように、僕もこの夏目邦広という師から学べるだけ学んで認めさせてやる。

 

 老人と柊をリビングに残して、織江と灯里はもう一つのリビングへ行った。

 母とコーヒーを飲みながら、灯里は不思議な感慨に浸っていた。


 ねえ、お父さん。

 繭里は、また大切なものを見つけたのね。


 母親にとって子供という存在がどれだけ大切なものか、灯里にだって少しは想像できる。

 かつて、父の一史が自分の父親としての不甲斐なさを何度も何度も詫びながら言った言葉を、灯里は再び噛みしめていた。

「灯里、お父さんは本当にダメなお父さんだ。お前にだけこんな思いをさせるお父さんを、どうか心の底から軽蔑してくれ。だがな、これだけは父として伝えておきたい。灯里、人生は案外シンプルなものだ。大事なのは『大切な存在』と、それをどんなことをしても守り抜く『覚悟』じゃないかと思うんだ。このふたつは、どんな富や名誉よりも大事だとお父さんは思っている。灯里、お前にもいつか『大切なもの』ができるだろう。そのときはそれを、卑怯でもいい、狡くてもいい、死ぬ気で守り、許し、全てを受け入れるんだ。人はあの世に何も持ってはいけないし、たった独りで旅立つ。だがそのときに、大切なものを守り抜いた記憶があれば、この世に未練などないと思うんだ」


 お父さん、あたしもう見つけたわ、『大切なもの』。

 『覚悟』はまだまだ足りないけど。

 でもね、あたしも負けないわ、繭里に。お姉ちゃんだもの。

 そして、あたしはいま幸せよ、とてもとても。だから心配しないで、お父さん。

 

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