「は~、た・い・く・つ」

 ネットで購入しておいた映画はあらかた見てしまったし、TVをつけてもお決まりの番組ばかり。料理教室はとっくにやめてしまったし、興味を持てる習い事も思いつかない。本を読めば眠くなるし、ショッピングに行くのもなんだか面倒。

「主婦って、意外につまらないものね」

 そうつぶやきながら、由紀子は2人で住むには贅沢なマンションの広いリビングを見渡した。

 結婚して約1年、今日も夫の孝明は遅いのだろうか。結婚当初こそ、8時頃には帰宅して一緒に夕食をとっていたものの、最近は仕事が忙しいとかで平日はほとんど独りの夕食だ。

「お父様にお願いして、孝明さんのお仕事を少し加減してもらおうかしら」


 由紀子が不満に思うのは、平日のことだけではない。週末は週末で、接待ゴルフだとか打ちっぱなしの練習だとかで、孝明が家を空けることは多くなっていた。

 夫婦揃ってショッピングや食事に出かけたのは、もう1か月も前のことだ。

「私もゴルフでも始めようかな。夫婦で共通の趣味って楽しそうじゃない?」

 そう夫に言ったら、なんだか慌てた口調でこう言われた。

「い、いや。ゴルフはあくまでも仕事の一環だから。接待だから、キミと一緒に行ける機会はなかなかないと思うよ。それに意外に我慢のスポーツだし、神経を使うし。ほら、キミのようにおっとりと可愛らしいお嬢さんには、もっと女性同士で楽しめる趣味がいいんじゃないかな?」

 

 女同士…。

 大学時代の友人は皆、それぞれ家柄のいい家に嫁いでいる。そんな彼女たちと青山のフレンチレストランでランチをしたときのことを、由紀子は思い出した。



 ✵ ✵ ✵


「ねぇ、由紀子さん。どうだった?」

「え?どうって何が?」

 新婚の由紀子にそう訊ねてきたのは、結婚2年目の亜理紗だった。質問の意味が分からず、きょとんとする由紀子に、結婚1年半の美香が堪え切れずにくすくす笑い出す。同じく結婚1年ちょっとの真由美と、亜理紗は目配せし合って由紀子の表情を窺っている。

「やだ、とぼけちゃって」

 と真由美に肘で小突かれた由紀子は、ますます訳がわからない。

「とぼけてなんか…」

「だって、初めてだったんでしょう?」

 美香がそう小声で言って、顔を寄せてきた。

「初めてって…?」

 戸惑う由紀子に、亜理紗が少しあきれ顔で言った。

「もう、ほんとにわからないの?つまり…」

 エッチ、と亜理紗の唇が声を出さずにゆっくりと動いた。

「なっ」

 洒落たフレンチレストランの穏やかな昼下がりに似合わない話題に、由紀子は耳まで赤くなった。個室ではないけれど、隣のテーブルと距離を取ってゆったり配置されていることもあり、女同士の会話は次第に周りを気にしない大胆なものになりはじめた。

「初めては、痛いだけだったかもしれないけど。ねぇ、その後は?孝明さんて、どうなの?」

 好奇心をもはや隠そうともしない美香が、ますます顔を寄せてくる。

「わ、わからないわ」

 火照る頬を抑えながら俯く由紀子を眺めながら、真由美が言った。

「やぁね、美香さんたら。そんなにご自分の旦那様のこと自慢したいの?」

「あら、真由美さんこそ。うちの主人は○・○・○上手ってこの間、電話で自慢しまくりだったじゃない」

 イ・カ・セのところだけ、唇を動かすだけの無声にしながら美香がほくそ笑んだ。

「あら、だって本当のことだもの」


 イカセ上手…。

 友人たちの結婚前とは打って変わったあけすけな会話に内心驚きながら、それでも由紀子は耳を傾けずにいられなかった。

 どうやら、セックスとは途方もなく気持ちのいいもので、平均して週に2回はいたすものらしい。イクときは躰中に電気が走ったようになり、意識せずに声が出てしまって、旦那様に「お前ったら感じすぎだよ。声、もっと抑えて」と甘く注意されるものらしい。

 正常位のほかに後背位という体位もあり、「いやぁん、動物みたいで恥ずかしい」と言うと、旦那様が喜んで張り切るらしい。


 そうなのか…と由紀子は思った。

 でも、私は…。

 初めては確かに友人たちが言うように、信じられないくらい痛かった。

 でも2回目も、初回ほどではなくても少し痛くて、とても天にも昇るほど気持ちいいものではなかった。友人たちが言うように、前戯というものに30分もかけたりせず、キスして胸を揉んで繋がって終わった。孝明さんは、俗にいう淡泊な人なんだろうか。

 あけすけな会話が続く友人たちをぼんやり眺めながら、由紀子はなんだかやるせなくなった。


「あらぁ、一晩に2回なんて普通じゃないかしら?ねぇ、由紀子さん」

 真由美がそう言って、亜理紗と美香の探るような視線が由紀子に向けられた。

 その視線の中になぜか不安の色を感じて、由紀子はすっと姿勢を正すと思い切ってこう言い放った。

「そ、そうかしら。回数より密度、じゃないかしら?孝明さんは、その間中ずっと『愛してる、可愛いね』って言ってくれて、終わった後も抱きしめ続けてくれるから、何回とか意識したことなかったわ。それに『イクときは一緒に』ってお願いすると、『まず、キミが一度イッてからだよ』なんて言うのよ。平日はお仕事が忙しいから帰りも遅いけど、その分週末はなかなかベッドから出してくれなくて、いつも遅めのブランチをいただくことになってしまって。それに私が文句を言うと、『そんな可愛いわがままを言うキミを食べてしまいたい』なんて言われるから逆効果なのよ」

 一気に捲し立てた。

 それからやっと呼吸をした由紀子の耳に、ごくりと友人たちが息を飲む音が聞えた気がした。

 その気配に勇気をもらって由紀子は必死に心を強く保つと、呆気にとられた友人たちの顔をにこりと見つめ返した。

「ゆ、由紀子さん、なんだか結婚して変わったわね」

 美香がそう言うと、真由美と亜理紗も笑顔を貼り付けた表情で続けた。

「夫婦仲がいいみたい、で…う、うん、安心したわ」

「や、やっぱり夫に愛されるのが妻の幸せよ、ねぇ?お肌もつるつるになるし」

 そんな友人たちを余裕の表情で見つめ返しながら、由紀子は思った。

 ちょっとエッチな海外映画、観といてよかったわ。



 ✵ ✵ ✵


「奥様、夕食の準備が整いました」

 シェフが、そうにこやかに声を掛けた。

「ありがと」

「今日は和食にしましたが、よろしかったでしょうか?」

「ええ、やっぱり週に1度は和食が食べたくなるわ」

 結婚してからは和洋中ができるシェフが一人だけで、それぞれ専門のシェフがいた仁科家とは大違いだが、贅沢は言えない。

 テーブルに並べられたメニューを見て、由紀子は2週間ほど前の夜、孝明が唐突に言った言葉を思い出した。

「そうだわ。孝明さん、まぐろがあまり好きではないんですって。だから主人がいる週末は、出さないでくれるかしら」

「は?まぐろ…そうで…した…か。わかりました、気をつけます」

「お願いね」

 シェフににっこりと微笑むと、由紀子は新鮮で脂の乗った中トロを口に運んだ。

「こんなおいしいものが嫌いだなんて、変わった人」

 独りきりの食事を続けながら、由紀子はまた深いため息をつく。

 先週末、お義母に2世帯での同居を打診されたことを思い出したのだ。

「いやよ、同居なんて。たとえ2世帯住宅だったとしても」

 孝明の実家は埼玉で、通勤にもいまより時間がかかる。それを理由に拒もうと思ったが、意外にも父が賛成しているのだ。

「いま、うちの会社もいろいろと大変なんだ。これまで投資の要だったブレーンが、どういう訳かあまり協力的ではなくなってきていて…。いや、これはお前には関係のないことなんだが…。しかし本当にどうして…。いやいや、だからな。お前たちの住むマンションも近々、手放さなければならなくなるかもしれない。だから、2世帯というのはありがたい申し出じゃないか」

 ふぅ、とさらに深いため息を由紀子はつく。

 だって、シェフもお手伝いさんもいないのよ。孝明さんのご実家はお金持ちと言っても、ウチとは雲泥の差じゃないの。 

 こうして由紀子奥様の憂鬱は、続くのだった。

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