ⅷ
秋晴れの土曜日の午後、今週も灯里の家へ向かう柊の足は重かった。
「こんなはずじゃあ、なかったのに…」
今朝から何度目かのため息をまた一つつき、柊は覚悟したように灯里の住まいがあるビルの前に立った。
約束の午後3時少し前、几帳面な柊らしく時間に遅れることなく、インターホンを押す。
「柊ちゃん?」
すぐに灯里の弾んだ声が応答する。
「うん、灯里、僕だよ」
待ちかねたようにドアがぱっと開いて、弾けるように明るい笑顔で灯里が迎えてくれた。
「いらっしゃい、柊ちゃん。お待ちかねよ!」
そうなのだ、いつもそうなのだ。
夏目老人が手ぐすね引いて、今日も僕を待っている…。嗚呼…。
✵ ✵ ✵
「ふぉふぉふぉ。時間通りだな、いつもながら感心感心」
浮かない顔の柊と違って、上機嫌の夏目老人がモニターをバッグににたりと笑った。
はい、時間に遅れないのはビジネスマンの基本ですから。
てゆうか、僕、月曜から金曜まで残業もこなしてバリバリ働いているのに、なんで週末までこんな投資の勉強なんかさせられなくちゃなんないんですか。
週末くらい、灯里とふたりっきりで、まったりゆっくりいちゃいちゃだらだらぐちょぐちょしたいのにっ!はぁ、なんだか最近、欲求不満からくる変態度が増した気がするのは、きっと気のせいだ。
にっこにこの夏目老人と、その前に座った少々お疲れ気味の柊に、灯里は淹れ立てのコーヒーを出すと言った。
「じゃ、邪魔しないからごゆっくり♡」
いや、灯里。邪魔してるのは、キミのお祖父様なんだけど。僕らのせっかくの休日を、この方が邪魔しまくってること、ご本人はともかくキミはわかってる?
「じゃ、はじめようか」
「はい」
素直にそう答えるしかない柊だった。
✵ ✵ ✵
このビルの3階フロア全体を占める夏目家は、若干変わった造りになっている。
まずモニターが壁一面を占めるリビングは、夏目老人専用のスペース。それとキッチンを挟んで反対側にも、一般家庭によくあるリビング・ダイニングがある。灯里と母の織江はたいがいこちらのリビング・ダイニングで寛いだり、テレビを見たり、食事をとる。夏目老人はこちらで一緒に食事することもあるが、自分専用のリビングでモニターを見ながら独り食事をする場合もあり自由気ままだ。
そのほかに坪庭が眺められる広めのバスとトイレがふたつ、夏目老人の寝室と織江の個室、灯里の個室、さらに2部屋が空き状態という贅沢なスペースだ。
祖父と柊にコーヒーを出し終えた灯里は、リビングで寛ぐ母に声を掛けた。
「お母さんもコーヒー飲む?」
「うん、ありがとう」
ソファに腰掛けインテリア雑誌を見ていた母が、それから顔を上げずにそう答えた。
ローテーブルに母と自分のコーヒーを置くと、灯里は訊ねた。
「柊ちゃんも夕飯食べて行くと思うけど、献立何にする?」
「灯里に任せるわ」
「え、まさか…」
ん?と雑誌から顔を上げた織江が、さも当然という顔をした。
「3人で食べて。私は関根さんにご飯つくりに行くから」
「え~」
「なによ」
「じゃあ、関根さんもこっち来て、一緒に食べればいいじゃない」
不満そうな灯里に、織江はけろりとした表情でのたまった。
「ラブラブな恋人たちを、邪魔しないの」
それはこっちのセリフだ。て言うか、そのセリフ、まんまお祖父様に言ってやりたい。
そんな灯里の気持ちを見透かすように、織江が言う。
「野々村さんも、このセリフ、お父さんに言いたいでしょうけどね?」
これまでは、織江は毎晩つくった夕食をふたり分だけ持って、4階の関根の家へ行っていた。
しかし柊が来る週末は、夏目老人と柊の食事は灯里に任せて、自分はさっさと4階へ行って関根の好きなメニューをつくっているらしい。
「いいけど。今夜の関根家のメニューはなぁに?」
ちょっと不貞腐れた表情で灯里が訊ねると、織江はそんな灯里の膨らませた頬を人差し指で突きながら言った。
「関根さんは、今夜はビーフシチューが食べたいんですって」
「へぇ」
「お父さんは何が食べたいのかしらね?」
「知らないっ」
口を尖らす灯里を、クスクスと笑いながら織江は眺めた。
✵ ✵ ✵
やがて夕方近くになって、反対側のリビングから祖父が呼ぶ声がする。
「灯里、コーヒーをもう一杯淹れてくれ」
どうやら、本日の投資集中講座は終了したようだ。
灯里は、今度は3人分のコーヒーをトレイに乗せてリビングへ入って行った。
「お疲れさま」
灯里がそう労うと、柊が嬉しそうな笑顔を向けた。
「灯里、野々村君は思った以上だ。データを几帳面に記録して緻密に分析することを厭わないし、記憶力も勘もいい」
夏目老人が実に満足そうにそう言った。
「そうなんですか、お祖父様?」
「ああ。もうそろそろ実際に、自分のお金で投資を経験してみてもいい頃だ」
「いや、それはまだ、少し怖いです」
本当は灯里と過ごしたい休日を老人につき合うのは、最初こそ気が乗らない柊だったが、もともと数字やデータ分析が好きなだけに、老人の話がはじまると面白くて時間が経つのを忘れる。
意外に自分に合っているかもしれないと思うが、まだ若いし慎重な性格だけに多額のお金を動かすのには勇気がいる。
「怖いと思う気持ちは大事だ。私だっていまでもそう思っている」
「そうなんですか?」
「油断はいつだって大敵なんだ。キミのように慎重で怖いと思うくらいがちょうどいい。しかし決めたら、迷うな」
頷く柊を満足そうに眺めて、夏目老人は灯里に訊ねた。
「今日の夕飯はなんだ?野々村君も、もちろん食べて行くぞ」
「まだ決めてないの。お祖父様、何がいいですか?」
「織江は、またあっちか?」
夏目老人はそう言って、天井の方へ顎をしゃくった。
「訊くまでもないでしょ?」
灯里は首を竦めて、祖父にそう答えた。
「もう、お母さん、上へ引っ越したらいいのに」
思わずそう言った灯里に、夏目老人の眼がきらりと光る。
あれ?なんか、マズイこと言った?
お祖父様の眼が、なにか企んでるみたいな色になった気が…。
「そうだ。いいことを思いついた」
老人が、ぽんと手を叩く。
やっぱり。お祖父様、なに思いついたんですか?
思いっきり、ヤな予感がするんですけど。
「野々村君、キミ、ここへ引っ越してきなさい」
「はぁっ?」
思わず、柊と灯里が声を揃えた。
「織江は、上の関根のところへ引っ越せばいい。それに引っ越さなくても、キミの部屋くらい空いている」
「い、いや、それは…」
「家賃は、そうだな。月に2万円でいい」
「お祖父様、家賃取るんですか?セコっ!」
「セコイとはなんだ。一応のけじめだ。2万円なんて、食費にもならん」
「だって、お祖父様の道楽の相手してもらってるんですよ?」
「相手をしてもらっているのではない、失敬な。私が体験に基づいた貴重な知識と技術をタダで教えているんだぞ。逆に授業料が欲しいくらいだ」
「授業料って、お祖父様、意外にケチ」
「なんだと?」
夏目老人と灯里の仲の良い喧嘩を眺めながら、柊は全然別なことを考えていた。
ここへ引っ越すって、それは灯里と一緒に暮らすことになるってことだろ?
それはマズイ、もの凄くマズイ。
だってそうだろ? お風呂上がりの灯里や、寝起きの灯里や、無防備で可愛い灯里を見て、何もしないでいられるわけがない。
でももしそんな気になったって、お祖父様が居たら、灯里の部屋に忍んでいくわけにいかないじゃないか。
仮にもし、お祖父様の眼を盗んで灯里の部屋に入れたとしても、まさかお祖父様も暮らす家で、あんなことや、こんなことや、ああいうこととか流石にできないだだろ?
だって、そのときの灯里は声が…いやいや、無理無理無理。
それ以前に、お祖父様の存在がめちゃくちゃ気になって、○たないんじゃないか?そんな状態を灯里に見られて、「きゃあ、大変!柊ちゃん、○D?」とか誤解されるくらいなら死んだ方がましだ。
それにもしかしたら、灯里といつも使っている○ーターとか、○錠とか、首○とか、ロー○とかを部屋に隠しているのを見つかって、お祖父様とお母さんに「そんな変態のところへ灯里を嫁にやるわけにはいかない」なんて言われたら…。
やばい、やばい、やばい。
や、やっぱり、どうせ灯里と暮らすなら、防音が完ぺきなマンションでふたりきりがいいなぁ。そこで思う存分、灯里と…。
「野々村君」
…。
「柊ちゃん?」
…。
はっ、やばい。僕いま、でれっとした顔してなかったか?
「で、どうする?」
「柊ちゃんが決めて」
「えっ。ぼ、僕は、やっぱりそれは無理だと…」
めっちゃ焦ってそう言った柊を、夏目老人と灯里が怪訝そうな表情で見ている。
やがて、灯里が冷たく言った。
「なに言ってるの?」
「えっ?」
「もう、訊いてなかったの?夕飯は、和食と中華どっちがいいって訊いたのに」
…。
「わ、和食で…」
「私は五目ちらしとサンマがいい」
夏目老人がきっぱり言った。
はい、それで結構です。
どうやら今夜も、肝心の灯里は食べられそうにない…。
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