第13話 森と林
課長がタタッ、タタッと小切見よく階段を上ってくる。腹が出ていることを気にしているが、足腰はまだまだ衰えていない。部屋に入る前に出ようとする林と肩をぶつけた。林は謝らずにそのまま出ていく。やっこさん、まだいるのかなあ。うちの丑寅。席をかえたげたら?ねぇ、エミちゃん。派遣社員のエミちゃんは林がこぼしたお茶をふきながら、模様替えですか?と聞き返した。そうそう。模様替え。林の机のうえに豆を供えてよ。豆ですか?豆菓子は買ってこないとないんですけど…。
エミちゃんは律儀に応対している。分かって話しているのか、とぼけているのか分からない。相手をされているのは課長の方ではないかとふと考えたりする。社長が森クーンと呼んだので、スケジュールの調節だろうと手帳を手に取り机に寄った。
聞いているから分かったとは思うけど、あなた、林君の分、埋め合わせてくれない?仕方ないわよ、ゴルフ。もう、ルール分かってなくてもいいから。先方に、これから覚えようと思うんで、いろいろ教えてくださいって、そういう感じで行って来てよ。はあ、僕なんかでよければ。なあに、そのへりくだった言い方。あなた林君とは営業トップを争っていたのに、そんなんじゃ、彼に悪いわよ。
社長は回転イスをくるりと回し、後ろにある金庫からゴルフのチケットを出してきた。ピリピリとやぶいて差し出した。ゴルフ場の住所を読む。遠くて帰りが遅くなりそうだ。泊りになるのは面倒だなと思う。出かける支度をしながら、彼女にメールを送る。デートのキャンセルだ。何かお土産買ってきて、ときたので、ゴルフ場にお土産売り場なんてあるのだろうか、と思う。自分は無趣味な人間で、酒もたばこもやらない。もちろんゴルフも。若い時からスポーツに無縁な人間だった。チームプレーで集中力がいるものは苦手だと思う。単独プレーでも結果を競うものは面倒に感じる。でも、彼女ができてから、テレビゲームをやるようになった。ゲームが好きだというより、ゲームに夢中になっている彼女の横顔を見るのが好きだ。
そんなことを考えながら帰り支度を終え、行ってきます、と言って職場を出た。途中階段の踊り場で林を見たような気がする。今まで担当だったものから離れるのはつらいのかもしれない。自分はそこまで仕事の情熱はないなと思う。背後に林の視線を感じながら駐車場を出た。運転途中で電話がかかってくる。出ると林だった。ゴルフをレクチャーしてやるから、そのまま聞け、と言う。電話を座席に置いてそのまま聞いた。覚えられそうにない。ナイスショットって、どういうショットなのか、と質問をする。小さく舌打ちが聞こえた。
ゴルフ場からは林の実家が近い。社長に頼まれた林の預かり物を置いて帰る手はずになっている。林は本当は自分で届けたかっただろうな、と思う。こちらの方角に営業回りをして、妙に帰りが遅いのは、母親に会っているからだろうな、と思った。母一人子一人なので、お互いの身を案じているに違いない。手ぶらで行くのも悪い気がして、こんな時には何を手土産にすればいいのだろう、と考える。
何を考えているんだ、と林が聞いてくる。お母さんの好物って、何かな?…なんでそんなことを聞く?林はそれからだんまりになり、トンネルを抜けた後に携帯を耳にあてると、通話は切れていた。ゴルフ場についてレンタルの手続きをする。クラブは何を選べばいいのか分からない。初めてなんです、と伝えると、こちらがよろしいと思います、と適当なのを選んでもらえた。先方に顔を覚えてもらっていない。ラウンジにそれらしき人が来るたびに、立ったり座ったりを繰り返した。ひときわ腹を揺らしながら小太りの男が現れる。顔というより、腹の形に覚えがあった。社名を名乗ると、あれ、林君じゃないの?と露骨にがっかりされた。連れの男が後ろから耳打ちをしている。そっかあ、ごめんよ、残念だったね。小太りは忘れていて、さもすまない、という風に謝った。
林の変わりが務まるかどうかわかりませんが、これから勉強させていただきます。社長の指示通りに頭を下げる。僕、林君に借りがあるんだけど、君ならあっという間に返せそうだなあ、と小太りは嬉しそうに話した。一体いくら賭けたんだろう。昼がまだだと言うので、小太りとおつきの男はバイキングを採りに行った。二人からちりちりと鈴の音がする。ちょうど林がつけているのと同じ鈴の音だ。
胸ポケットをさする。余分な金はありそうにない。社長に借りてはいないし、銀行にもよって来なかった。賭けゴルフを知らないふりをすればいいだろうか。それでいこう。考えを巡らせていると林と目があった。ロビーの隅に並んだテーブルに座り、足を組んでいる。ちょっと顔を貸せ、という風に顎が動いた。
どういうつもりなんだ?林は組んだ足のつま先を俺に向けながら聞いた。靴先に泥がついている。どうって…まあ、やってみるよ。ウエイトレスが水を運んできたが、俺の前にだけ置いたので、グラスを林の前へ差出した。林は変な顔をしながらグラスをにらみ、次に俺をにらんで、三万だ、用意はあるか?と聞いた。
尻ポケットに入れた財布をさする。それぐらいならあるが、なんで負けてるんだ?林はゴルフはうまい。負けるのも経費だ、馬鹿、と言われた。沼に落ちないようにな。沼?ボールだ。まあ、お前が落ちて笑いをとってもいいだろう。じゃあ、そうやって、服がぬれたんで帰りますって言うよ。
林のイラッとした顔つきが強くなった。社長はなんでお前みたいなやつを雇ったんだろうな。なんだって、そりゃあ、一緒にいたじゃないか。
林と自分は入社試験の面接日が一緒だった。森と林君ね、と社長が言い、社長はその音感に自らが感動を覚えた、と言う風に、森と林、とつぶやいた。いいわ、君たち、採用ね。それが採用の目印なのか、社長は履歴書の右上にポンポンとシャチハタ印を押した。採用枠は一名だったはずだ。印はどちらかにだけ押されるはずだった。
俺が選ばれるはずだったのに。林は苦々しくつぶやいた。お前が採用されたせいで、俺の取り分が減ったはずだ。そんなことないよ。あのころより業績が出てて、当初言われた年収より多くもらっている。それが林一人の力だったとは思わない。そこまで自分を卑下していない。林は大口の顧客を抱えていて自分は小口の顧客を抱える。客の中には林と喧嘩になった客もいる。自分は林の客からは相手にされていない。お互いの得手不得手は一致していない。社長は多分そこを見抜いた。名前は関係ないと思う。
はあ…。林はため息をついた。とにかく、うまくやれよ。心配はしていないが、絶対に勝つなよ。林は妙なアドヴァイスを残して席を立った。ウエイトレスとぶつかりそうになりながらホールを出て行った。やれやれ、どうするかな。足元に目を落とすと絨毯が濡れてところどころに泥が落ちている。サンドイッチを運んできたウエイトレスが変な顔をした。
外はもちろん雨など降っていない。一番最初に使うクラブに付箋をつけてもらった。パターはさすがに分かる。接待相手の腹に日が当たり、ポロシャツが白く光っている。いい天気だ。天気に気分を救われる。早速ゴロを出したのを拾いにいった。藪の中でかがんでいると、「あの日もこんな日だったな」と林の声が聞こえた。同じように藪の中で屈み、何か探し物をしている。
俺にあだ名をつけていたのを知っているぞ。ぎくっとして動きが止まった。気が付いていたのか。なんだよ、丑寅って。手に着いた塵を払い、手のひらをズボンの尻にこすりつけた。原課長が言ったんだよ。林の営業成績が良いのは方角がいいからだって。方角って…どこから見てどの方角だよ。そりゃあ…?玄関か?違うよ、馬鹿。方角は部屋の中心から見るんだ。俺が座っているのは鬼門だぞ。どこがいいんだよ。おかげでこのざまだ。
ぼやいてまたかがむ。何を探しているんだろうか。ボールだったらこれを使えよ。林はポケットからゴルフボールを取り出して投げてよこした。いいのか?いいんだよ。有りましたって言って適当に転がしとけば。持って出るのは気が引けるので、藪の外にそっと転がした。ありがとう、助かったよ。顔を上げたが林の姿が無い。探し物って、あれかな。林は財布に小さい鈴をつけていた。二つあったので小さくてもよく鳴り、耳についた。社の階段を上がってくるとき、かすかに音が聞こえて、それで林が帰ってきたんだなって、分かった。
探し物って、ひょっとして…。振り返るが林はいない。藪を出て「ありました」と声を上げた。おつきが振り向いただけで、小太りは気がつかない。ボールに目をやると、ボールの下から赤い糸のようなものが出ている。芝生をほじって引っ張ってみた。土鈴だった。小さくて親指の爪ほどの大きさしかない。振ってみるが音がしない。水を吸って中が湿気ている。絵柄はかすれて分からなかった。オーイと呼ばれたので今行きます、と片手をあげた。そのまま歩きそうになって止まった。ボールを飛ばさなきゃ。クラブを適当に選んで玉を打つ。また変な方へ飛んだ。
得点ってどうやって知るんだろう。マトリョーシカのようなかぶりものをしたおばさんがいて、クラブをのせたカートを押している。聞いたら分かるだろうか。というより、先に進んでいる人が勝っていて、俺は後ろなんだから、俺が負けてるよな。
チリ、チリ、とポケットから音がする。土鈴を取り出して振ってみる。音は出ない。またポケットに入れて歩きだすと、チリ、チリ、と音がした。暗がりで鳴る鈴。目の前を行くおつきの後を黒い影がついていく。背中を這うように伸びあがり、黒い傘のように広がった。あの、と呼びかける。おつきは振り向いてうるさそうな顔をした。ポケットから土鈴を取り出し、この鈴、拾ったんですけど、見おぼえがありませんか?と聞いた。おつきは気色悪いものでも見るような目をして顔をくしゃっとゆがめた。いえ、知りませんねぇ…。知り合いが持っていた鈴に似ているんです。二つあって、一つはこれだ。もう一つあって、僕は彼がこのあたりで落としたような気がするんです。
おつきは急に猫背になった。頭の上の雨傘が重くて仕方がないようだ。手をポケットに入れて取り出す。つまんだものを差し出してきた。受け取って手のひらで転がす。チリリと高い音がした。金色がやけに光っている。本物の金かもしれないと思った。またポケットに手を入れ、今度は財布を取り出す。三万円を差し出して「これで勘弁してください」と言った。金を受け取り「口外はしません。香典としていただきます」と言うと、またくしゃくしゃとした表情を浮かべた。安堵しているのか怒っているのか分からない、不可解な顔だった。
ポツッポツッと雨が頬に当たりだす。ゴルフはお開きになった。売店で土産物の饅頭を買って林の実家へ向かう。タオルを借りて頭を拭いた。ありがとうございます、と言うと、「とんでもないです。何から何までしていただいて」と逆に御礼を言われた。林が届けるはずだった寝巻を渡すと涙を流した。百貨店で買ったいい寝巻だ。母親はこれに袖を通すことなく退院した。入院中に葬儀を社の人間で済ませた。お持たせの饅頭を二人で食べる。林の母親は饅頭を乗せた皿を仏壇にのせた。運んできた林の遺骨が供えてある。ポケットから鈴を二つ取り出して見てもらった。林のものだった。両親から一つずつ送られたものらしい。土鈴は絵柄が消えてしまっているが林の干支にちなんだ虎の絵が描かれたものだった。金の鈴は本物だった。しかしそのことを林は知らない。本物かどうかわかるようになったら、一人前だ、と死んだ主人が言っていて、あの子は偽物に決まってるって」母親は力なく笑った。「これを探そうとして沼に入ったんでしょうか」
仏壇に手を合わせる。「偽物だと言っていたんなら、探さなかったと思いますよ。ゴルフに負けたくなかったんでしょう。沼へはボールを探しに入ったのだと思います。鈴は上着を脱いだ時に落としたんでしょう。」両方の鈴を仏壇に供える。蝋燭の明かりを受けて赤色に輝いた。
暇を告げて外に出ると林が車にもたれかかっている。手間を取らせたな、と話すのが聞こえた。電話をかけて社長に遺骨を届けたことを知らせる。社長は「これでポルターガイストが無くなるかしら、と言った。人と肩をぶつけるような、一陣の風に悩まされていた。林の好物を供えても効果がない。何か心残りがあるのだろうと最期の場所に出かけてみた。成果はあったと思う。
林が本当は何を探そうとして沼に入ったのかは分からない。それとも単に足を滑らせただけかもしれない。プライドの高い林のことだ。尋ねても本当のことは話さないだろう。雨がやんだので空を見上げると虹が出ていた。林、虹だ。車の方を見ると、林の姿は無かった。
陰陽 吉野尚子 @naoko_yoshino
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